黎明のアンファング

あさみこと

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#008 孤高の相転移

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 図書館の静寂の中、僕と琴吹さんは閲覧テーブルを挟んで向かい合っていた。周囲の学生たちが、何事かと遠巻きにこちらを窺っているのが視界の端に入るが、今はどうでもいい。僕の目の前には、彼女が差し出した、白く、しかし明らかに鍛え上げられた前腕があった。
 腕相撲。なんという前時代的で、非論理的な力比べか。だが、面白い。
 彼女は、僕が物理的な筋力において、彼女に著しく劣ることを知った上で、この勝負を挑んできた。つまり、僕を侮っている。ならば、僕も僕の土俵で戦うまでだ。物理法則という、この宇宙において絶対的なルールの上で。
「……いいでしょう。その賭け、受けます」
 僕は彼女の挑戦を受け、その手を取った。柔らかいが、その奥に確かな芯を感じる。
「レディー……ゴー」
 彼女の小さな合図と共に、互いの腕に力が込められた。
 ……なるほど。確かに、純粋な筋力では比較にならない。彼女の腕は、まるで深く根を張った大樹のように、びくともしない。だが、それでいい。ここからが、僕の独壇場だ。
 まず、作用・反作用の法則。僕が彼女に力を加えれば、彼女もまた同じだけの力で僕を押し返してくる。ならば、真正面から力をぶつけるのは愚の骨頂。重要なのは力のベクトルをずらし、最小の力で最大の効果を得ることだ。
 僕はわずかに身体をひねり、肘の角度を微調整した。手首のスナップを利かせ、力のベクトルを彼女の最も力が入りにくいであろう、尺骨と橈骨の隙間をこじ開ける方向へと集中させる。同時に僕の体重を乗せ、肩と背中の広背筋を連動させることで、腕の力だけでなく全身の力を一点に集約させる。テコの原理の応用だ。
「……っ!」
 僕の意図を察したのか、琴吹さんの表情に、わずかな驚きが浮かんだ。びくともしなかった彼女の腕が、ミシリ、と音を立てて、ほんのわずかに傾いた。
 いける。この理論は、間違っていない。
「どうしました? あなたのその上腕二頭筋も、見掛け倒しのようですね」
 僕は、精神的な揺さぶりをかけることも忘れなかった。戦闘において、心理的優位性を確保することは基本中の基本だ。
 彼女は何も答えない。だがその腕は、確実に僕の側へと傾いてきている。45度、60度、80度……。僕の脳内では、勝利の方程式が美しいグラフを描き出していた。彼女の筋肉が限界に達するまでの時間、僕の身体が維持できる最大出力、その全てが計算され尽くされている。
 そして、ついにその瞬間が訪れた。
 彼女の手の甲が、テーブルの表面を捉えるまで、あと、1ミリ。
 僕の勝利は確定した。物理法則がそれを証明している。僕は思わず口元に、勝利の笑みを浮かべた。
「……僕の勝ち、ですね」
 そう告げた、次の瞬間だった。
 それまで必死の形相で耐えていたはずの琴吹さんの表情から、ふっと力が抜けた。
 そして、まるで今までの攻防が全て嘘であったかのように、可憐に、愛らしく微笑んで、こう言ったのだ。
「はいっ♡」
 その可愛らしい掛け声と同時に、僕の腕にそれまでとは比較にならない、まるで巨大な油圧プレス機にでも挟まれたかのような、圧倒的な圧力がかかった。
「なっ……!?」
 僕の緻密な計算も、力のベクトルも、テコの原理も、その絶対的な質量の前には何の意味もなさなかった。僕の腕は、1ミリの猶予も与えられず、一瞬で180度逆転させられた。
 ドンッ!!
 静かな図書館に、僕の手の甲がテーブルに叩きつけられる、無慈悲な音が響き渡った。
「…………」
 何が、起きた?
 僕の計算では理論上、ありえない。彼女の筋肉は既に限界を迎えていたはずだ。この結末は僕の構築した数式では、絶対に導き出せない。それは、1を0で割るような禁じられた計算のはずだ。
 僕は呆然とテーブルに押さえつけられた自分の手と、その上に乗せられた彼女の腕を見つめた。琴吹さんは、悪戯が成功した子供のような、満面の笑みを浮かべていた。
「……どうして」
 僕の口から、かろうじて言葉が漏れた。
「僕の計算では……君は、もう限界だったはずだ……」
 すると彼女は、人差し指を僕の唇にそっと当て、悪魔のように優しく、そして残酷な真実を告げた。
「いいですか、物部くん。どんなに頭脳を張り巡らして策を凝らしても、絶対に覆すことのできない、可能性が0%でしかないようなことは、この世の中にはあるんですよ♡」
 彼女の言葉は、僕のプライドと、僕が信じてきた論理の世界を、木っ端微塵に打ち砕いた。
 僕の脳が導き出した「理論上可能」という解が、彼女の圧倒的な「物理的現実」の前に、完全な敗北を喫した瞬間だった。
「さて、約束通り、私の言うことを何でも一つ、聞いてもらいますからね。物部くん♡」
 僕は、何も言い返すことができなかった。
 ただ、勝利者の甘い微笑みの前で、ゼロ除算の答えを知ってしまったかのような、めまいと屈辱に耐えるしかなかった。

 腕相撲での惨敗という、僕の人生における最大級の計算ミスから数日後。アンファングのメンテナンスとデータ収集のため、僕と琴吹……いや、美生奈『先輩』は、新たに召集された数名の技術者たちと共に、地下ドックにいた。
「……では、慣性制御システムのログデータを抽出します。琴吹さん、そこのコンソールを……」
 僕が、そうやって指示を出そうとした、その時だった。
「んんっ♡」
 隣に立つ美生奈先輩が、わざとらしく咳払いをし、手に持ったタブレット端末の画面を、僕の視界の端にちらりと映した。そこには、数日前の図書館での、僕が彼女に無様に敗北する動画が、音声付きで再生されている。
『…僕の勝ち、ですね』
『はいっ♡』
 屈辱的な映像に、僕の額に青筋が浮かぶ。周囲の技術者たちが、何事かとこちらを窺っている。僕は、観念して、言葉を修正した。
「…美生奈、先輩。そこのコンソールを操作してもらっても?」
「はいは~い♡ いいですよ、愛都くん♡」
 彼女は、満面の笑みで僕の指示に従った。周囲の技術者たちは、僕たちの奇妙なやり取りを見て、困惑と、そして明らかに面白がっている空気が混じった、生暖かい視線を向けてくる。
 これが、彼女が僕に突きつけた「お願い」の全貌だった。
 次のトレーニング期間が終わるまで、二人きりの時だけでなく、人前であろうと、僕は彼女を「先輩」と呼び、敬語を使ってはならない。もし少しでも逆らおうものなら、彼女は即座にあの屈辱的な動画を再生し、僕に精神的なダメージを与えてくるのだ。そして最悪なことに、あの動画を撮影していたのは、既にアンファングチームにスカウトされていた、彼女と懇意の学生だったらしい。僕に逃げ場はなかった。
 その日の夜、二人きりになったコックピット内で、僕はついに溜まりに溜まった不満をぶちまけた。
「……いい加減にしてくれないか。あなたのその行動は、著しく僕の尊厳を毀損し、研究の効率を低下させている」
「あらあら、愛都くん。約束は約束だよ? それとも、またあの動画、見る?」
 彼女は、悪びれもせずにタブレットをちらつかせる。その悪魔のような微笑みに、僕は頭の血管が数本切れるような感覚を覚えた。
「あなたを……!あなたをあの時、アンファングのパートナーとして選んだのは、僕の人生最大の過ちだった……!」
 僕は、思わず呻くように叫んでいた。
「あの時、研究室に残っていたのがあなたで、こっちの言うことを簡単に聞かせられそうな、都合のいい存在だと思って選んだのに……!まさか、こんな狡猾で、サディスティックな人間だったとは……!」
 僕の悲痛な叫びを聞いて、彼女は一瞬、きょとんとした顔をした。そして、次の瞬間、心の底から嬉しそうに、花が綻ぶように笑った。
「……ふふっ、あはははは! やった! あの物部くんから、そこまで感情的な言葉を引き出せた!」
 彼女は、僕の罵倒を、まるで最高の褒め言葉であるかのように受け取ったのだ。そして、勝利者の余裕を湛えた笑みで、僕を見下ろした。
「それは残念でしたねぇ♡ 普段から人間とのコミュニケーションを疎かにしているから、人を見る目が養われなかったんじゃないですか?♡」
 全く、堪えていない。僕の渾身の抗議は、彼女にとっては心地よいそよ風程度にしか感じていないらしかった。
 その日から、僕の大学内での立ち位置は、劇的に変化した。
 これまでの僕は、「近寄りがたい孤高の天才」。誰も僕の領域には踏み込まず、僕もまた、他者を必要としなかった。それは、僕にとって最も快適で、効率的な関係性だった。
 しかし、今は違う。
 アンファングという巨大なプロジェクトの中心に据えられた僕の隣には、常に「美生奈先輩」がいる。そして、僕は彼女の前では、まるで手綱を握られた子犬のように、従順にならざるを得ない。
 廊下を歩けば、すれ違う学生たちが囁き合うのが聞こえる。
「見て、物部くんだ……」
「隣にいるの、琴吹さんだろ? 最近、物部くん、彼女にだけは頭が上がらないらしいぜ」
「天才も、女の人には勝てないってことか……」
 それは、いじめや嘲笑といった、低レベルなものではない。むしろ、もっと厄介なものだ。同情、共感、そして親近感。僕という存在から、「孤高」という名のヴェールが剥がされ、人間的な弱さを持つ、ただの「年下の男の子」として認識され始めている。それは、僕が最も嫌う状態だった。
 僕が築き上げてきた、孤高の天才というメッキは、一人の女の手によって、脆くも崩れ落ちていた。
 それは、僕の論理の世界が、彼女という名の予測不能なバグによって、静かに、しかし確実に書き換えられていく、始まりの兆候だったのかもしれない。
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