ストロベリームーン・セレナーデ

ukon osumi

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第19話「録音の残響」

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 午前十時。陽射しの差し込む事務所の空気は、妙に重たかった。
テーブルの上には、黒い小型レコーダーが置かれていた。横には薄い布切れ――防音用に使われていたらしいカバーがしわくちゃに畳まれている。
 「控室の棚の奥。清掃スタッフが落とした脚立を片づけようとして、偶然見つけたって」
 ようこが、慎重な口調でそう言った。
 彼女の手には、サリーの私物がいくつか収められた箱がある。中には未使用の台本、化粧ポーチ、古いメモ用紙。そして、そのレコーダーも入っていた。
「これ……サリーが?」
「たぶん。テープ部分に“JUNE_07”ってラベルが貼られてた。事件の、前の日よ」
ヨウジは無言で頷いた。
再生ボタンを押す前から、胸の奥に冷たい予感が漂っていた。
カチッという音のあと、ざらついた無音が数秒続く。
その沈黙の中、ようこが顔を上げた。
「……今の、聞こえた?」
ヨウジは眉を寄せて再度イヤホンに集中した。
たしかに、何かがあった――高く、硬質な音。
コツ、コツ――
まるでヒールの底が床を叩くような音だった。
「あの足音……君島葵が履いてたヒールに、似てる」
ようこが小さく呟いた。
「ルブタンの黒。細いピンヒール」
「現場でも、それ履いてたな……」
カチリ。
再びスイッチ音のようなクリックが入る。
そして――空気の圧力が変わるようにして、声が鳴り始めた。
──「……やめて、って言ってるでしょ!」
 サリーの声だった。
 感情が先行している。怒りと、かすかな動揺。明らかに誰かを拒絶している。
 ──「おまえが俺を笑ってるんだよ。最初からずっと、そうやって……」
 男の声が重なる。低く、乾いていた。
 どこか抑えているようで、怒りの核がむき出しになっている。
 その瞬間、ヨウジの指先がわずかに震えた。
 「……この声……」
 「……亮二……?」
 ようこがぽつりと呟いた。
 重ねて聞いたはずのない声なのに、なぜか耳に馴染みすぎていた。
 録音の空気は荒れていた。家具が軋む音、布の擦れる音、沈黙の合間に、互いの呼吸が鋭くぶつかっていた。
 ──「そんなことしてもムダだよ。あなたは何も変えられないの」
 サリーの声に、かすかな嘲りがあった。
 それが意図的なものか、疲弊から出たものかは判然としない。
 だが、それを“挑発”と取ったなら――。
 録音はそこで突然、終わっていた。
 ヨウジは指を止めたまま、しばらく動けなかった。
 静かすぎる部屋に、自分の鼓動だけが反響するようだった。
 「……やっぱり……亮二なのかな」
 「わからない。でも、似てる。すごく」
 ようこの声にも、確信とは言えないけれど、直感に近い何かが含まれていた。
 「警察に持っていくべきだな。声紋分析、かけてもらおう」
 「……うん」
 ようこが頷く。だが、目はレコーダーから離れなかった。
 彼女もまた、そこに何か“残された意志”を感じていたのだろう。
 「ねえ、ヨウジさん」
 「ん?」
 「……サリー、自分が狙われてるって、知ってたのかもね。
 録音って……そのための“盾”みたいだった」
 ヨウジは答えず、ただ深く息を吐いた。
 盾。その言葉は、あまりにも正しかった。
 サリーは何かに気づき、誰かを警戒していた。
 だから録音した。だから、あえて残した。
 けれど、その声がいま残っているということは、
 “防げなかった”という証でもある。
 事件は思っていた以上に深く、
 そして――近かった。
 警察署の応接室は、意外なほど静かだった。
 クーラーの冷気が室内にこもり、窓越しの陽射しだけが時間の流れを知らせている。
 ヨウジは、黒いレコーダーを小さなビニール袋に入れて提出した。
 応対した若い捜査員は、機材を丁寧に扱いながら頷く。
「音声解析班にまわします。録音状況も含めて、確認しますので」
「声紋分析もお願いします。録音された男の声……もしかしたら、亮二さんかもしれない」
「承知しました。正式な結果が出るまで、少し時間をいただきます」
 捜査員はそこまで言って口を閉じた。
 まだ捜査中だという表情。だが、その目には、すでに“確信”に近い色があった。
 ようこは無言で座っていた。
 さきほどから一言も発していない。
 でも、その肩に張り詰めた緊張は、ヨウジにも伝わっていた。
 「ようこさん、戻ろうか。ここで結果を待っても、今は……」
 ようこはゆっくりと頷いた。
 だが立ち上がるとき、一度だけレコーダーに目を向けた。
 まるでサリーの声に、何かを告げるように。
 事務所に戻ったのは昼過ぎだった。
 誰もいない静かな空間に、二人の足音が微かに響く。
 ヨウジは録音データのコピーを確認しながら、ようこの顔をそっと伺った。
 「……疲れた?」
 「ううん、大丈夫。ちょっと、考えてたの」
 「何を?」
 「サリーって……あんな声、出すんだなって思って。怒って、泣きそうで、でも絶対引かない声だった。
 私、ああいうふうに、自分の意思を通せたことあったかなって」
 その言葉に、ヨウジは返す言葉を選べず、ただ静かにうなずいた。
 ようこの中に何かが積み重なっている――それが、言葉の形になる前に感じられた。
 ようこは机に手を置き、じっと前を見つめていた。
 「でも、あれはきっと“最後の声”だったんだよね。……誰にも届かないかもしれないって思いながら、それでも残した」
 「……届くよ。ちゃんと」
 ヨウジの声は自然に出た。
 それが慰めや希望でなく、確信として言えたのは、サリーの声がまだ耳の奥に残っていたからだった。
 「あの声、あの言葉。誰かが聞いて、動かなきゃいけない。そうしなきゃ……彼女の最後が、ほんとに消える」
 ようこは少しだけ微笑んだ。
 その笑顔に、わずかだが強さが戻っていた。
 「ヨウジさんが言うなら、信じる」
 それだけで十分だった。
 いつの間にか、彼女はサリーの“目撃者”ではなく、声を受け取った“証人”になっていた。
 午後になり、警察から短い連絡が届く。
 「音声ファイルは問題なく解析に回った。声紋一致の結果は48時間以内に出る見込み」とだけ記されていた。
 つまり、今はまだ“グレー”。
 確証はない。だが、その不確かさがかえって、ふたりの思考を自由にした。
 「録音にあった、“ムダだよ”って言葉。あれって……何を指してたんだろう」
 ヨウジが呟くと、ようこは少し目を細めて答えた。
 「相手の怒り、かな。……亮二って、自分の思い通りにならないことに弱い人でしょ。
 サリーがもう“彼の手の中にはいない”ってわかって、逆上したんじゃない?」
 「逆上……か。抑えてたものが、崩れた瞬間ってやつかな」
 「うん。でも、それだけじゃない気がする」
 「え?」
 「“ムダだよ”って、あの言い方……なんだか、自分の身を守るというより、“諦めさせる”って感じがした。
 サリー、たぶん――最初から誰にも助けてもらうつもりなかったんじゃないかな」
 ヨウジは静かにその言葉を噛みしめた。
 ようこの勘は、たいてい外れない。
 サリーは、独りだった。
 だからこそ、レコーダーにすがった。
 それが、唯一の“声の残し方”だったのだ。
 録音されたその音声は、もしかすると、彼女自身が“未来の誰か”に宛てた遺言だったのかもしれない。
 その意味を考えるほどに、事件の深さが際立ってくる。
 真相はまだ開かれていない。
 だが、その扉の鍵は、今、確かに彼らの手の中にある。
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