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第十三話「封じの儀式」
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榊原新右衛門は、霊雲寺の本堂に身を置いていた。朝もやが漂う境内は、いつになくぴんと張りつめた気に包まれている。障子越しに差す光も、どこか冷たさを帯びて見えた。
「……今日は、静かすぎるな」
ぽつりとつぶやくと、おせんが隣でうなずいた。だが、その表情には張りつめた緊張が浮かんでいる。おせんの眼差しは、堂内の中央に設けられた祭壇へと向けられていた。そこには、道明が霊符を組み合わせて描いた結界が浮かび、その中心に、例の“妖刀”が封じられていた。
「これが、あの刀……」
おせんは、目を細めて囁いた。
妖刀――村雨源吾の手にあったそれは、今や誰の命令も聞かず、人の姿を認識すれば勝手に刃を振るう異物と化していた。新右衛門は、その凄絶な斬撃を、道明の重傷をもって知っていた。あの夜、闇の中で咆哮するように唸ったその刀の音を、耳の奥から消せないでいた。
「天明和尚が、封じの儀を始めるそうだ」
道明が、低く言った。彼の顔はまだ青ざめていた。背中の傷は深かったが、彼は歩けるまでに回復していた。ただ、霊気に直接触れたためか、言葉の端々に疲弊が滲んでいた。
「封じの儀には、霊の力と、それに共鳴する“媒介”が要る。おせんの力は……その媒介として、極めて強い」
「おせんが、媒介に?」
新右衛門は反射的に問い返した。視線がおせんに向く。おせんは、きりりと顔を上げた。
「和尚様に言われました。私には、なぜか“残された声”が聞こえると……あの刀の周りで、誰かが泣いているような声がするのです」
「泣いてる……?」
「誰かの恨み、怒り、苦しみ。それが混ざって、刀に吸い寄せられてるように感じます」
その言葉に、新右衛門は返す言葉を失った。自分には聞こえぬ声が、彼女には届く。しかも、おせんはそれを恐れず、向き合おうとしている。幽霊として生を終えたはずの彼女が、なおもこの世の苦しみを受け止めようとしている――。
「だが、危険すぎる」
「でも、やらなきゃ。私にしか、できないかもしれないでしょう?」
おせんの言葉に、新右衛門は歯を食いしばった。何も言い返せなかった。おせんの目は、まっすぐ前を見据えていた。
そのとき、奥から天明和尚が現れた。丸い身体に深紫の袈裟をまとい、数珠を握っている。表情は穏やかだったが、その背には異様な迫力が滲んでいた。
「皆、用意はよいかの」
新右衛門は静かにうなずいた。天明和尚は、おせんの前に立つと、掌をかざし、額に触れた。
「この娘に、光も闇も見えておる。恋の符が呼んだ奇縁よな」
「……和尚様、それはつまり、あの符が――」
「霊に“触れうる”身体を、この娘に与えてしまったのじゃ」
新右衛門は、奥歯を噛みしめた。あのとき渡された恋符――思いを伝えられぬまま、ただ「お守りを」と渡された符。その力が、皮肉にもおせんを生きる霊とし、さらに霊に近い存在へと変えてしまっていた。
(護るための符が……おせんを危うくしているのか)
新右衛門の胸の奥に、どうしようもない悔しさが渦巻いた。
「始めようかの。新右衛門、道明、そなたたちは結界の外で控えよ。おせんは、儂とともに中心に」
「……わかりました」
おせんは静かにうなずき、祭壇へと歩を進めた。新右衛門は拳を握り、ただその後ろ姿を見送った。
――霊気が、揺れる。
――儀式が、始まった。
霊雲寺の本堂には、天明和尚が描いた複雑な陣が広げられていた。墨で書かれた符文の一つひとつが、まるで生き物のように蠢いている。炉の中では香が焚かれ、白煙が静かに立ち昇っていた。
新右衛門は、堂の中央に腰を下ろし、膝の上に「影切りの刀」を静かに置いていた。彼の背後にはおせんが控え、その表情は張り詰めていた。目を閉じているその顔から、強い意志がうかがえた。
「お主の刀が、霊を切る“影切り”であるならば――この儀式は、その刃で断ち切った怨念を、わしの符術で封ずるもの。だが、それには、霊と対話できる者が必要なのじゃ」
天明和尚の声が本堂に響いた。新右衛門が視線を送ると、おせんが静かに頷いた。
「私が、やります。……あの声を、もう一度、ちゃんと聞きたいんです」
霊気が満ちてゆく。灯明が揺れ、外の風が急に止んだ。まるで町全体が、息を潜めているかのようだった。
「来るぞ……」
和尚の声とともに、絵巻の墨が揺れた。
祭壇に広げられた妖刀の断片が、まるで呼吸を始めたかのように脈動し始めたのだ。墨が黒煙となって立ち昇り、刀の霊が顕現しはじめる。
新右衛門は瞬時に立ち上がり、影切りの刀を構えた。その姿を、まるで見定めるかのように黒い霧が渦を巻き――そして、現れた。
それは、男の姿をした「何か」だった。
一見すれば人の形をしていたが、顔には目がなく、刀だけが異様に強く輝いていた。黒き影の中から、低くうねるような呻き声が漏れ、堂内に凍りつくような寒気が走る。
「村雨源吾――いや、もはやお前は、名を持つ者ではない!」
新右衛門が声を張る。影のような霊は、返事をすることもなく、ただ刀を振り上げてきた。
「来るな!」
影切りの刀が風を裂く。斬撃は空を切ったかに見えたが、霊の「形」がたしかに揺らぎ、切断される音がした。だが、倒れはしない。霊は形を変えて何度も襲いかかってくる。
「おせん!」
和尚の声が響いた。
おせんが前に出た。小さな手を胸の前に合わせ、絵巻の墨に重ねるように、祈りの声を発した。
「――あなたの、声を聞かせて」
その声に、黒き霧が一瞬、ためらうように揺れた。
「……誰だ……」
声が返ってきた。低く、かすれた、だがたしかに人の声だった。
「村雨源吾、あなたは、何を想っていたの?」
霊はわずかに形を整え、人の姿を取り戻した。そこには、髭をたくわえ、やつれた面持ちの男が立っていた。道着は血に染まり、手には妖刀が食い込むように握られている。
「……止めたかった……だが、止まらなかった……刀が……斬れと……」
おせんは小さく頷いた。
「あなたの中には、まだ、人の心があるのですね」
「――消してくれ……」
その声に合わせて、新右衛門が再び刀を振る。霊の胸元を、影切りの刀が貫いた。
その瞬間、和尚が陣に向かって両手をかざし、呪文を唱える。結界が光を放ち、霊の姿を包み込んだ。
「……ありがとう……」
村雨源吾の霊が、絵巻の墨と共に淡く光りながら、消えていった。
堂の中に、静寂が戻る。
影切りの刀を下ろしながら、新右衛門は黙って目を閉じた。その手は震えていた。
おせんがそっと傍に寄り、「終わりました」と呟いた。
だが和尚は首を横に振る。
「……まだ、終わりではない。妖刀に囚われた者は、源吾だけではないのじゃ」
その言葉に、新右衛門は顔を上げた。
「では、まだ誰かが……」
「そうじゃ。あの刀は、血を吸い、魂を喰らってきた。成仏できぬ者はまだ、町のどこかにおる」
儀式は終わったが、戦いは続く。
新右衛門は影切りの刀を静かに鞘に納めた。
「ならば、俺が斬る。……また、あの声を聞かせるために」
そして傍らを見る。おせんが、優しく笑って頷いた。
「あなたの斬る意味、私が見届けます」
外に出ると、夜は明け始めていた。町の上空を、薄紅の光が照らしている。
だが、まだ終わりではなかった。
「……今日は、静かすぎるな」
ぽつりとつぶやくと、おせんが隣でうなずいた。だが、その表情には張りつめた緊張が浮かんでいる。おせんの眼差しは、堂内の中央に設けられた祭壇へと向けられていた。そこには、道明が霊符を組み合わせて描いた結界が浮かび、その中心に、例の“妖刀”が封じられていた。
「これが、あの刀……」
おせんは、目を細めて囁いた。
妖刀――村雨源吾の手にあったそれは、今や誰の命令も聞かず、人の姿を認識すれば勝手に刃を振るう異物と化していた。新右衛門は、その凄絶な斬撃を、道明の重傷をもって知っていた。あの夜、闇の中で咆哮するように唸ったその刀の音を、耳の奥から消せないでいた。
「天明和尚が、封じの儀を始めるそうだ」
道明が、低く言った。彼の顔はまだ青ざめていた。背中の傷は深かったが、彼は歩けるまでに回復していた。ただ、霊気に直接触れたためか、言葉の端々に疲弊が滲んでいた。
「封じの儀には、霊の力と、それに共鳴する“媒介”が要る。おせんの力は……その媒介として、極めて強い」
「おせんが、媒介に?」
新右衛門は反射的に問い返した。視線がおせんに向く。おせんは、きりりと顔を上げた。
「和尚様に言われました。私には、なぜか“残された声”が聞こえると……あの刀の周りで、誰かが泣いているような声がするのです」
「泣いてる……?」
「誰かの恨み、怒り、苦しみ。それが混ざって、刀に吸い寄せられてるように感じます」
その言葉に、新右衛門は返す言葉を失った。自分には聞こえぬ声が、彼女には届く。しかも、おせんはそれを恐れず、向き合おうとしている。幽霊として生を終えたはずの彼女が、なおもこの世の苦しみを受け止めようとしている――。
「だが、危険すぎる」
「でも、やらなきゃ。私にしか、できないかもしれないでしょう?」
おせんの言葉に、新右衛門は歯を食いしばった。何も言い返せなかった。おせんの目は、まっすぐ前を見据えていた。
そのとき、奥から天明和尚が現れた。丸い身体に深紫の袈裟をまとい、数珠を握っている。表情は穏やかだったが、その背には異様な迫力が滲んでいた。
「皆、用意はよいかの」
新右衛門は静かにうなずいた。天明和尚は、おせんの前に立つと、掌をかざし、額に触れた。
「この娘に、光も闇も見えておる。恋の符が呼んだ奇縁よな」
「……和尚様、それはつまり、あの符が――」
「霊に“触れうる”身体を、この娘に与えてしまったのじゃ」
新右衛門は、奥歯を噛みしめた。あのとき渡された恋符――思いを伝えられぬまま、ただ「お守りを」と渡された符。その力が、皮肉にもおせんを生きる霊とし、さらに霊に近い存在へと変えてしまっていた。
(護るための符が……おせんを危うくしているのか)
新右衛門の胸の奥に、どうしようもない悔しさが渦巻いた。
「始めようかの。新右衛門、道明、そなたたちは結界の外で控えよ。おせんは、儂とともに中心に」
「……わかりました」
おせんは静かにうなずき、祭壇へと歩を進めた。新右衛門は拳を握り、ただその後ろ姿を見送った。
――霊気が、揺れる。
――儀式が、始まった。
霊雲寺の本堂には、天明和尚が描いた複雑な陣が広げられていた。墨で書かれた符文の一つひとつが、まるで生き物のように蠢いている。炉の中では香が焚かれ、白煙が静かに立ち昇っていた。
新右衛門は、堂の中央に腰を下ろし、膝の上に「影切りの刀」を静かに置いていた。彼の背後にはおせんが控え、その表情は張り詰めていた。目を閉じているその顔から、強い意志がうかがえた。
「お主の刀が、霊を切る“影切り”であるならば――この儀式は、その刃で断ち切った怨念を、わしの符術で封ずるもの。だが、それには、霊と対話できる者が必要なのじゃ」
天明和尚の声が本堂に響いた。新右衛門が視線を送ると、おせんが静かに頷いた。
「私が、やります。……あの声を、もう一度、ちゃんと聞きたいんです」
霊気が満ちてゆく。灯明が揺れ、外の風が急に止んだ。まるで町全体が、息を潜めているかのようだった。
「来るぞ……」
和尚の声とともに、絵巻の墨が揺れた。
祭壇に広げられた妖刀の断片が、まるで呼吸を始めたかのように脈動し始めたのだ。墨が黒煙となって立ち昇り、刀の霊が顕現しはじめる。
新右衛門は瞬時に立ち上がり、影切りの刀を構えた。その姿を、まるで見定めるかのように黒い霧が渦を巻き――そして、現れた。
それは、男の姿をした「何か」だった。
一見すれば人の形をしていたが、顔には目がなく、刀だけが異様に強く輝いていた。黒き影の中から、低くうねるような呻き声が漏れ、堂内に凍りつくような寒気が走る。
「村雨源吾――いや、もはやお前は、名を持つ者ではない!」
新右衛門が声を張る。影のような霊は、返事をすることもなく、ただ刀を振り上げてきた。
「来るな!」
影切りの刀が風を裂く。斬撃は空を切ったかに見えたが、霊の「形」がたしかに揺らぎ、切断される音がした。だが、倒れはしない。霊は形を変えて何度も襲いかかってくる。
「おせん!」
和尚の声が響いた。
おせんが前に出た。小さな手を胸の前に合わせ、絵巻の墨に重ねるように、祈りの声を発した。
「――あなたの、声を聞かせて」
その声に、黒き霧が一瞬、ためらうように揺れた。
「……誰だ……」
声が返ってきた。低く、かすれた、だがたしかに人の声だった。
「村雨源吾、あなたは、何を想っていたの?」
霊はわずかに形を整え、人の姿を取り戻した。そこには、髭をたくわえ、やつれた面持ちの男が立っていた。道着は血に染まり、手には妖刀が食い込むように握られている。
「……止めたかった……だが、止まらなかった……刀が……斬れと……」
おせんは小さく頷いた。
「あなたの中には、まだ、人の心があるのですね」
「――消してくれ……」
その声に合わせて、新右衛門が再び刀を振る。霊の胸元を、影切りの刀が貫いた。
その瞬間、和尚が陣に向かって両手をかざし、呪文を唱える。結界が光を放ち、霊の姿を包み込んだ。
「……ありがとう……」
村雨源吾の霊が、絵巻の墨と共に淡く光りながら、消えていった。
堂の中に、静寂が戻る。
影切りの刀を下ろしながら、新右衛門は黙って目を閉じた。その手は震えていた。
おせんがそっと傍に寄り、「終わりました」と呟いた。
だが和尚は首を横に振る。
「……まだ、終わりではない。妖刀に囚われた者は、源吾だけではないのじゃ」
その言葉に、新右衛門は顔を上げた。
「では、まだ誰かが……」
「そうじゃ。あの刀は、血を吸い、魂を喰らってきた。成仏できぬ者はまだ、町のどこかにおる」
儀式は終わったが、戦いは続く。
新右衛門は影切りの刀を静かに鞘に納めた。
「ならば、俺が斬る。……また、あの声を聞かせるために」
そして傍らを見る。おせんが、優しく笑って頷いた。
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