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第1章「はじまりの朝」
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味噌汁の湯気が、ゆっくりと天井に昇っていく。まだ九月の朝で、夏の名残りが少しだけ残っているはずなのに、台所の空気はどこか落ち着いていた。コンロの上で煮立っていた鍋の火を陽斗の母が止め、「はい、できたよ」と言って盆に載せたまま食卓に運んでくる。
焼き鮭、ほうれん草のおひたし、卵焼き。それに白いご飯。どこにでもある、普通の家庭の朝食だった。
普通――その言葉が、かえって胸にしみた。
陽斗は箸を取り、ふっと横目を向けた。小夜はダイニングの椅子に腰を掛け、味噌汁をそっと冷ましながら口に運んでいた。十八歳の姿になってまだ日が浅いせいか、動作の一つひとつがどこか慎重で、器の持ち方も妙に丁寧だった。まるで割れものを扱うような手つきだが、それが不自然に見えないのは、彼女が本来とても几帳面な性格だからだろう。
だが母親はそんな違和感にまったく気づかず、むしろ嬉しそうに言った。
「小夜ちゃん、本当に器用ねぇ。昨日の夕飯の唐揚げもおいしかったし」
「いえ……そんな、たいしたものじゃ……」
小夜は少し照れて、視線を落とす。指先がほんのわずかに震えていた。料理を“学び始めたばかり”の人間のしぐさだ。九龍のような異界を歩いていた術者が、今は台所で調味料の分量に悩んでいる。それが不思議で、そしてどこかいとおしいように感じる。
母親はそんなことにはまったく気づかず、明るい声で続けた。
「そうそう、小夜ちゃん。今日、制服の採寸行くんでしょ? お弁当も持っていきなさいね」
「はい。……あの、お母さま。今日のは、作ってきました」
小夜がそっと差し出した弁当箱は、ほんのりと温かかった。朝早く起きて作ったのだと、その温度だけで分かる。
「おお……お前、いつの間にそんな女子力を……」
陽斗がぼそっと言うと、小夜はむっと頬をふくらませた。
「何それ。作りたかったんだよ、前から。……普通に学校行くなら、こういうのもしたいし」
“普通”という言葉が、まるで祈りみたいに響いていた。
母親は気づかない。気づいてはいけない世界の話だった。
陽斗は箸を置き、自分の皿の卵焼きをつまんで小夜の皿に移した。
「食えよ。朝はちゃんと食わないと」
「……ありがと」
小さな声で、小夜はつぶやいた。
母親が食器を片づけて台所に立つ。そのあいだ、陽斗はちらりと時計を見る。まだ時間はある。だが、家の中に家族の気配があるうちは、軽々しく口にできない話があった。
トントン、と包丁の音がして、母が言う。
「じゃあ二人とも、今日は早く出なさいよ。小夜ちゃんは転校の手続きもあるんでしょ? 文雄さんにもよろしくねぇ」
陽斗の心臓がひゅっと縮んだ。
文雄――実在する親戚。母の従兄で、確かに福岡にいる。
その“文雄の娘”として小夜が自然に受け入れられているのは、小夜が符術で“補正”したからだ。偽造ではない。既存の事実の枠の中に、小夜自身をすべり込ませた。母親が不自然に思わないギリギリの形で。
母が洗濯物を抱えてベランダへ出る。引き戸が閉じる音がして、家の空気が沈んだ。
その瞬間、小夜は顔を上げ、声を潜めた。
「……昨日、眠れた?」
陽斗は一拍おいて答える。
「……まあ。耳の奥に火の音が残ってるけどな」
小夜は小さく息をのみ、湯飲みにそっと指を添える。
「やっぱり……二十年は、大きいよ」
「五年減ったお前に言われたくねぇよ。
しかも年齢戻したせいで制服買う羽目になってんだし」
小夜は少しだけ頬を赤らめた。
「……いいでしょ。
“普通の女の子”として学校に通ってみたいんだから。
九龍で積み上げた時間じゃなくて、
ちゃんと朝起きて、ご飯食べて、教室に座って……
そういうの、一度も経験したことなかったんだよ」
陽斗は言葉を失った。
ふだんは強いくせに、こういう時だけ年相応に見える。
九龍の式壇で火を蹴り、王芳を救った代償。寿命の二十年という重さを、軽く口にできるわけがない。
否定するしかなかった。
小夜はうつむき、言葉を続けた。
「でも──あれは、戻れたから」
その声には痛みもあるが、どこか覚悟が宿っていた。
「三十八歳の身体で十八のふりして生きるより……本当に十八歳の姿でやり直したかった。普通に、制服を着て、教室に入って……そういう毎日を、一度でいいから味わいたかったんだ」
その言葉に、陽斗は胸のどこかがぎゅっとつかまれたように感じた。
彼女は戦ってきた。封じられ、追放され、二十年の時間を失い、それでも戻ってきた。もう“李王芳”ではない。
彼女は、ただの“小夜”として生きたいのだ。
「……なら、守るしかねぇだろ」
陽斗は低く言った。
「お前が普通でいたいなら、俺も普通でいる。寿命だの契約だの……この家に持ち込む気はない。母さんにも言わない」
「うん。……これ、二人だけのことだから」
小夜はわずかに笑った。その笑みは、九龍で見せた険しい顔ではなく、今の姿によく似合っていた。
母親がベランダから戻る足音がしたので、二人は黙って味噌汁をすする。食卓は再び“普通”の空気を取り戻した。
「陽斗、これ持ってきなさいよ。水筒。まだ暑いんだから」
「わかったよ」
「小夜ちゃんも遠慮しないでね。うちにいる間は家族なんだから」
「はい。ありがとうございます、お母さま」
その自然な返事に、母親は安心したように微笑んだ。
――この日常を、守らなくてはいけない。
九龍の炎をくぐり抜けた二人にとって、その約束は術式よりも重いものだった。
食器を片づけ、二人で玄関に向かう。靴を履く音が重なる。
玄関の扉を開けると、九月の少し湿った朝の空気が入り込んできた。
「行くか」
「うん」
小夜は弁当箱を抱え、制服に合わせたカーディガンの袖を軽く整えた。ほんのわずか緊張した顔をしていたが、それでも歩みはしっかりしている。
家の前の路地を並んで歩く。遠くから中学生の笑い声が聞こえ、パン屋の開店準備の匂いが漂ってきた。
九龍の匂いはどこにもない。
ほんの少しだけ陽斗は空を見上げた。
火の残光がまだ胸の奥で燻っている。それでも、朝の青さにかき消されていく気がした。
「……なあ、小夜」
「なに?」
「お前さ、その……制服、似合うと思うぞ」
小夜は一瞬目を丸くし、それから小さく笑った。
「……ありがと、陽斗」
その一言で、朝の空気がふっと柔らかくなる。
「あの人には、何も言わない。
母さんには“普通の日常”しか見せねえよ」
小夜はうなずき、静かに弁当箱を差し出した。
「じゃあ……普通の一日、始めよ?」
陽斗は苦笑して、手を伸ばした。
玄関の扉を閉めると、まだ少し湿った初秋の風が二人のあいだを抜けた。
昨日までの“非日常の名残”が、風に薄まっていく気がした。
「歩くの、こうして並ぶの……ちょっと変な感じだね」
小夜が小さく言った。
“十八歳としての生活”が、まだ身体に馴染みきっていないのが分かる。
「すぐ慣れるって。……てか、慣れろよ」
「努力はする」
その真面目すぎる返事に、陽斗は思わず笑った。
家の前の坂を下りるにつれ、制服姿の高校生がぽつぽつと増えていく。
二人の歩幅が自然に揃っていくと、不思議と胸の奥がほんのり熱くなった。
交差点を曲がった先――
学校の校舎が見えた瞬間、小夜がほんの少しだけ足を止めた。
「大丈夫か?」
「うん……ただ、こういう“普通の朝”って初めてで」
そう言って笑う表情には、どこか緊張が混じっていた。
「心配すんなよ。お前はもう“こっち側”の人間だろ」
「そうだね。……行こう。でもね……わたしたち、ちょっとだけ時間をなくしたから。生きてるだけで、もう“前に進んでる”んだよ」
「なくしたって、さらっと言うなよ」
「事実だから。……でもね、なくした時間のぶん、“中身”を濃くすることはできるでしょ?」
その言い方は、九龍での彼女の声にも似ていた。
策を練るとき、仲間を守るとき、決壊しかけた結界を無理やり支え直すとき――あのときの冷静さと、今の柔らかさが混ざっている。
「だから、わたしは頑張るよ。“普通の女の子”として」
「……おう」
「陽斗も、“普通の男の子”として」
「それは似合わねぇな」
「似合わないかな?」
「似合ってるよ。ムカつくけど」
学校が近づき、制服の群れが視界に増えた。
その中に、小夜が自然に混じっていく。
それが不思議で、陽斗は少し胸が熱くなった。
校門で、クラスの女子が声を上げる。
「あっ、小夜ちゃん! 今日から来るんだよね?」
「はい。よろしくお願いします」
「え、雰囲気大人っぽ……!」
(そりゃそうだろ……三十代の癖、抜けてねぇからな)
陽斗は心の中で呟いた。
靴箱の前で、小夜がぴたりと足を止めた。
「……陽斗。これ、どこに入れるの?」
「どこって……ここ、二年四組の列だろ」
「わかってるけど、こういう棚使うの初めてで……」
言われてみれば、当然だった。
九龍でも、黒炎環でも、靴を脱ぐ文化はなかった。
「ほら、右から二番目。そこ、お前のだよ」
「……うん」
小夜はそっと靴を入れた。
指先の動きがやけに丁寧で、まるで壊れ物でも扱っているようだった。
「そんなに慎重にしなくても折れねぇよ」
「でも……なんか綺麗にしたくて」
そんな小夜の姿を見て、近くの女子二人がひそひそ声を立てた。
「小夜ちゃん、ほんと大人っぽい……」
「でも可愛いよね。初日なのに落ち着きすぎじゃない?」
小夜は聞こえないふりをしながら、微妙に耳の先が赤くなっている。
教室に入ろうとすると、小夜が袖を引いた。
「陽斗」
「ん?」
「言っておきたいことがある」
その声は、いつもより小さかった。
「私は……前の世界で、誰かの器として生きた。
でも、もう“誰かのもの”として生きない。
陽斗と一緒に……自分で選んだ生活をしたい」
陽斗は、少しだけ目をそらした。
「……知ってるよ。お前はもう“王芳”じゃねぇしな」
「うん。“小夜”だよ」
小夜はそう言って、胸元の学生証を軽く押さえた。
“李王芳”ではなく、“五十嵐小夜”。
その名前を、やっと手に入れた。
「俺だって……照久じゃねぇしな。勝手に名前呼ばれんの、ムカつくんだよ」
「うん。私も“芳蘭”じゃないよ」
小夜は静かに続けた。
その声は、過去を受け止めたうえで、きっぱりと今を選ぶ人の声だった。
「前の世では夫婦だったけど……
あれは“あの二人”の物語で、
いまの私たちの物語じゃない」
陽斗は少し目をそらしながら、短く返す。
「……だよな。
照久と芳蘭の続きなんて、やる気ねぇし」
「私も。
王芳としても、芳蘭としても生きない。
“今の小夜”をやるって決めたから」
小夜は胸元の学生証を軽く押さえる。
「だから、陽斗の中に残ってる癖は……前世の残骸じゃなくて、
“あなたが選んだ今の力”なんだと思う」
「まあ……否定しねぇよ。
でも俺は照久じゃねぇ。前世に戻る気もねぇ」
小夜は、ふっと笑った。
「うん。
陽斗が陽斗なら、それでじゅうぶん」
教室の扉が開き、生徒たちの声が溢れ出す。
その空気は、確かに“日常”だった。
九龍のどの景色よりも、人の息づかいがはっきりしている。
だが扉をくぐる瞬間、陽斗の影がまた揺れた。
薄く、細く、裂けるように。
小夜が小さく囁く。
「……気をつけて。影の動き、悪い方の兆しじゃないけど……
“何かが近づいてる”気配はある」
「大袈裟だって」
「大袈裟でいいの」
教室に入ると、さらに戸惑いが増えた。
郷原先生が教壇に立ち、出席簿を机に置く音が響く。
「えーと、新しく転入してきた五十嵐……小夜さん、だな。
みんな、もう知ってるとは思うが、しばらく不慣れなこともあるだろう。
変に気負わせるなよ。普通に接してやれ」
その言い方はそっけないが、どこか“気遣いの不器用さ”が滲んでいた。
照れを隠すために声がやや低くなるのが、郷原の悪い癖だ。
小夜は真っ直ぐ背筋を伸ばし、丁寧に会釈した。
「よろしくお願いします」
落ち着いた声だが、手元のノートはわずかに震えている。
(緊張してる……そりゃそうだ)
数学が始まると、その戸惑いはさらに露わになった。
小夜は、黒板に書かれる式を追いながら、必死でノートを取っていた。
だが線はまっすぐ引けず、記号の書き方は慎重で、
少しでもずれるとすぐ消しゴムをかけ直す。
「……そんな丁寧に書かなくていいだろ」
陽斗が小声で言うと、小夜は恥ずかしそうに目を伏せた。
「だって……学生のノートって、こういうものなのかなって……」
「適当でいいよ。郷原、黒板写すより“理解しろ派”だし」
「そうなの?」
「そうだよ」
そのとき――
「五十嵐(陽斗)。そこで何を細かくご指導なさってる?」
郷原の声が飛ぶ。
だがその口調には、皮肉よりも“見守っている大人”の気配があった。
「い、いや別に……」
「別に、じゃない。君が話すと小夜さんが余計緊張する。
教えたい気持ちは分かるが、今は俺に任せろ」
教室がくすっと笑い、小夜は小さく肩をすぼめた。
しかしその直後――
「五十嵐小夜さん」
「……はい」
「字は丁寧でいい。だが全部を写す必要はない。
考える部分だけ押さえれば、それで十分だ」
郷原は淡々としながらも、言葉を選んでいた。
「初日から全部やろうとしなくていい。ゆっくりで構わん」
その柔らかさに、小夜の指先の震えがふっと止まった。
(ああ……こういう言い方できるのか、この人)
陽斗は心の中で、ほんの少しだけ感心した。
「五十嵐(陽斗)。隣でフォローするのは構わん。
ただし授業中に雑談するな。二人とも立派な高校生だろう?」
「……はい」
郷原は苦笑を浮かべ、黒板に向き直った。
小夜はほっと息をつき、小声でつぶやく。
「……優しい先生なんだね」
「まあ、見た目よりは、な」
二人の間に、ささやかな安心が戻ってくる。
夏が終わり、秋が始まる直前の朝。
日常の中のわずかな揺らぎは、まだ誰にも知られていない。
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焼き鮭、ほうれん草のおひたし、卵焼き。それに白いご飯。どこにでもある、普通の家庭の朝食だった。
普通――その言葉が、かえって胸にしみた。
陽斗は箸を取り、ふっと横目を向けた。小夜はダイニングの椅子に腰を掛け、味噌汁をそっと冷ましながら口に運んでいた。十八歳の姿になってまだ日が浅いせいか、動作の一つひとつがどこか慎重で、器の持ち方も妙に丁寧だった。まるで割れものを扱うような手つきだが、それが不自然に見えないのは、彼女が本来とても几帳面な性格だからだろう。
だが母親はそんな違和感にまったく気づかず、むしろ嬉しそうに言った。
「小夜ちゃん、本当に器用ねぇ。昨日の夕飯の唐揚げもおいしかったし」
「いえ……そんな、たいしたものじゃ……」
小夜は少し照れて、視線を落とす。指先がほんのわずかに震えていた。料理を“学び始めたばかり”の人間のしぐさだ。九龍のような異界を歩いていた術者が、今は台所で調味料の分量に悩んでいる。それが不思議で、そしてどこかいとおしいように感じる。
母親はそんなことにはまったく気づかず、明るい声で続けた。
「そうそう、小夜ちゃん。今日、制服の採寸行くんでしょ? お弁当も持っていきなさいね」
「はい。……あの、お母さま。今日のは、作ってきました」
小夜がそっと差し出した弁当箱は、ほんのりと温かかった。朝早く起きて作ったのだと、その温度だけで分かる。
「おお……お前、いつの間にそんな女子力を……」
陽斗がぼそっと言うと、小夜はむっと頬をふくらませた。
「何それ。作りたかったんだよ、前から。……普通に学校行くなら、こういうのもしたいし」
“普通”という言葉が、まるで祈りみたいに響いていた。
母親は気づかない。気づいてはいけない世界の話だった。
陽斗は箸を置き、自分の皿の卵焼きをつまんで小夜の皿に移した。
「食えよ。朝はちゃんと食わないと」
「……ありがと」
小さな声で、小夜はつぶやいた。
母親が食器を片づけて台所に立つ。そのあいだ、陽斗はちらりと時計を見る。まだ時間はある。だが、家の中に家族の気配があるうちは、軽々しく口にできない話があった。
トントン、と包丁の音がして、母が言う。
「じゃあ二人とも、今日は早く出なさいよ。小夜ちゃんは転校の手続きもあるんでしょ? 文雄さんにもよろしくねぇ」
陽斗の心臓がひゅっと縮んだ。
文雄――実在する親戚。母の従兄で、確かに福岡にいる。
その“文雄の娘”として小夜が自然に受け入れられているのは、小夜が符術で“補正”したからだ。偽造ではない。既存の事実の枠の中に、小夜自身をすべり込ませた。母親が不自然に思わないギリギリの形で。
母が洗濯物を抱えてベランダへ出る。引き戸が閉じる音がして、家の空気が沈んだ。
その瞬間、小夜は顔を上げ、声を潜めた。
「……昨日、眠れた?」
陽斗は一拍おいて答える。
「……まあ。耳の奥に火の音が残ってるけどな」
小夜は小さく息をのみ、湯飲みにそっと指を添える。
「やっぱり……二十年は、大きいよ」
「五年減ったお前に言われたくねぇよ。
しかも年齢戻したせいで制服買う羽目になってんだし」
小夜は少しだけ頬を赤らめた。
「……いいでしょ。
“普通の女の子”として学校に通ってみたいんだから。
九龍で積み上げた時間じゃなくて、
ちゃんと朝起きて、ご飯食べて、教室に座って……
そういうの、一度も経験したことなかったんだよ」
陽斗は言葉を失った。
ふだんは強いくせに、こういう時だけ年相応に見える。
九龍の式壇で火を蹴り、王芳を救った代償。寿命の二十年という重さを、軽く口にできるわけがない。
否定するしかなかった。
小夜はうつむき、言葉を続けた。
「でも──あれは、戻れたから」
その声には痛みもあるが、どこか覚悟が宿っていた。
「三十八歳の身体で十八のふりして生きるより……本当に十八歳の姿でやり直したかった。普通に、制服を着て、教室に入って……そういう毎日を、一度でいいから味わいたかったんだ」
その言葉に、陽斗は胸のどこかがぎゅっとつかまれたように感じた。
彼女は戦ってきた。封じられ、追放され、二十年の時間を失い、それでも戻ってきた。もう“李王芳”ではない。
彼女は、ただの“小夜”として生きたいのだ。
「……なら、守るしかねぇだろ」
陽斗は低く言った。
「お前が普通でいたいなら、俺も普通でいる。寿命だの契約だの……この家に持ち込む気はない。母さんにも言わない」
「うん。……これ、二人だけのことだから」
小夜はわずかに笑った。その笑みは、九龍で見せた険しい顔ではなく、今の姿によく似合っていた。
母親がベランダから戻る足音がしたので、二人は黙って味噌汁をすする。食卓は再び“普通”の空気を取り戻した。
「陽斗、これ持ってきなさいよ。水筒。まだ暑いんだから」
「わかったよ」
「小夜ちゃんも遠慮しないでね。うちにいる間は家族なんだから」
「はい。ありがとうございます、お母さま」
その自然な返事に、母親は安心したように微笑んだ。
――この日常を、守らなくてはいけない。
九龍の炎をくぐり抜けた二人にとって、その約束は術式よりも重いものだった。
食器を片づけ、二人で玄関に向かう。靴を履く音が重なる。
玄関の扉を開けると、九月の少し湿った朝の空気が入り込んできた。
「行くか」
「うん」
小夜は弁当箱を抱え、制服に合わせたカーディガンの袖を軽く整えた。ほんのわずか緊張した顔をしていたが、それでも歩みはしっかりしている。
家の前の路地を並んで歩く。遠くから中学生の笑い声が聞こえ、パン屋の開店準備の匂いが漂ってきた。
九龍の匂いはどこにもない。
ほんの少しだけ陽斗は空を見上げた。
火の残光がまだ胸の奥で燻っている。それでも、朝の青さにかき消されていく気がした。
「……なあ、小夜」
「なに?」
「お前さ、その……制服、似合うと思うぞ」
小夜は一瞬目を丸くし、それから小さく笑った。
「……ありがと、陽斗」
その一言で、朝の空気がふっと柔らかくなる。
「あの人には、何も言わない。
母さんには“普通の日常”しか見せねえよ」
小夜はうなずき、静かに弁当箱を差し出した。
「じゃあ……普通の一日、始めよ?」
陽斗は苦笑して、手を伸ばした。
玄関の扉を閉めると、まだ少し湿った初秋の風が二人のあいだを抜けた。
昨日までの“非日常の名残”が、風に薄まっていく気がした。
「歩くの、こうして並ぶの……ちょっと変な感じだね」
小夜が小さく言った。
“十八歳としての生活”が、まだ身体に馴染みきっていないのが分かる。
「すぐ慣れるって。……てか、慣れろよ」
「努力はする」
その真面目すぎる返事に、陽斗は思わず笑った。
家の前の坂を下りるにつれ、制服姿の高校生がぽつぽつと増えていく。
二人の歩幅が自然に揃っていくと、不思議と胸の奥がほんのり熱くなった。
交差点を曲がった先――
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「大丈夫か?」
「うん……ただ、こういう“普通の朝”って初めてで」
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「そうだね。……行こう。でもね……わたしたち、ちょっとだけ時間をなくしたから。生きてるだけで、もう“前に進んでる”んだよ」
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「事実だから。……でもね、なくした時間のぶん、“中身”を濃くすることはできるでしょ?」
その言い方は、九龍での彼女の声にも似ていた。
策を練るとき、仲間を守るとき、決壊しかけた結界を無理やり支え直すとき――あのときの冷静さと、今の柔らかさが混ざっている。
「だから、わたしは頑張るよ。“普通の女の子”として」
「……おう」
「陽斗も、“普通の男の子”として」
「それは似合わねぇな」
「似合わないかな?」
「似合ってるよ。ムカつくけど」
学校が近づき、制服の群れが視界に増えた。
その中に、小夜が自然に混じっていく。
それが不思議で、陽斗は少し胸が熱くなった。
校門で、クラスの女子が声を上げる。
「あっ、小夜ちゃん! 今日から来るんだよね?」
「はい。よろしくお願いします」
「え、雰囲気大人っぽ……!」
(そりゃそうだろ……三十代の癖、抜けてねぇからな)
陽斗は心の中で呟いた。
靴箱の前で、小夜がぴたりと足を止めた。
「……陽斗。これ、どこに入れるの?」
「どこって……ここ、二年四組の列だろ」
「わかってるけど、こういう棚使うの初めてで……」
言われてみれば、当然だった。
九龍でも、黒炎環でも、靴を脱ぐ文化はなかった。
「ほら、右から二番目。そこ、お前のだよ」
「……うん」
小夜はそっと靴を入れた。
指先の動きがやけに丁寧で、まるで壊れ物でも扱っているようだった。
「そんなに慎重にしなくても折れねぇよ」
「でも……なんか綺麗にしたくて」
そんな小夜の姿を見て、近くの女子二人がひそひそ声を立てた。
「小夜ちゃん、ほんと大人っぽい……」
「でも可愛いよね。初日なのに落ち着きすぎじゃない?」
小夜は聞こえないふりをしながら、微妙に耳の先が赤くなっている。
教室に入ろうとすると、小夜が袖を引いた。
「陽斗」
「ん?」
「言っておきたいことがある」
その声は、いつもより小さかった。
「私は……前の世界で、誰かの器として生きた。
でも、もう“誰かのもの”として生きない。
陽斗と一緒に……自分で選んだ生活をしたい」
陽斗は、少しだけ目をそらした。
「……知ってるよ。お前はもう“王芳”じゃねぇしな」
「うん。“小夜”だよ」
小夜はそう言って、胸元の学生証を軽く押さえた。
“李王芳”ではなく、“五十嵐小夜”。
その名前を、やっと手に入れた。
「俺だって……照久じゃねぇしな。勝手に名前呼ばれんの、ムカつくんだよ」
「うん。私も“芳蘭”じゃないよ」
小夜は静かに続けた。
その声は、過去を受け止めたうえで、きっぱりと今を選ぶ人の声だった。
「前の世では夫婦だったけど……
あれは“あの二人”の物語で、
いまの私たちの物語じゃない」
陽斗は少し目をそらしながら、短く返す。
「……だよな。
照久と芳蘭の続きなんて、やる気ねぇし」
「私も。
王芳としても、芳蘭としても生きない。
“今の小夜”をやるって決めたから」
小夜は胸元の学生証を軽く押さえる。
「だから、陽斗の中に残ってる癖は……前世の残骸じゃなくて、
“あなたが選んだ今の力”なんだと思う」
「まあ……否定しねぇよ。
でも俺は照久じゃねぇ。前世に戻る気もねぇ」
小夜は、ふっと笑った。
「うん。
陽斗が陽斗なら、それでじゅうぶん」
教室の扉が開き、生徒たちの声が溢れ出す。
その空気は、確かに“日常”だった。
九龍のどの景色よりも、人の息づかいがはっきりしている。
だが扉をくぐる瞬間、陽斗の影がまた揺れた。
薄く、細く、裂けるように。
小夜が小さく囁く。
「……気をつけて。影の動き、悪い方の兆しじゃないけど……
“何かが近づいてる”気配はある」
「大袈裟だって」
「大袈裟でいいの」
教室に入ると、さらに戸惑いが増えた。
郷原先生が教壇に立ち、出席簿を机に置く音が響く。
「えーと、新しく転入してきた五十嵐……小夜さん、だな。
みんな、もう知ってるとは思うが、しばらく不慣れなこともあるだろう。
変に気負わせるなよ。普通に接してやれ」
その言い方はそっけないが、どこか“気遣いの不器用さ”が滲んでいた。
照れを隠すために声がやや低くなるのが、郷原の悪い癖だ。
小夜は真っ直ぐ背筋を伸ばし、丁寧に会釈した。
「よろしくお願いします」
落ち着いた声だが、手元のノートはわずかに震えている。
(緊張してる……そりゃそうだ)
数学が始まると、その戸惑いはさらに露わになった。
小夜は、黒板に書かれる式を追いながら、必死でノートを取っていた。
だが線はまっすぐ引けず、記号の書き方は慎重で、
少しでもずれるとすぐ消しゴムをかけ直す。
「……そんな丁寧に書かなくていいだろ」
陽斗が小声で言うと、小夜は恥ずかしそうに目を伏せた。
「だって……学生のノートって、こういうものなのかなって……」
「適当でいいよ。郷原、黒板写すより“理解しろ派”だし」
「そうなの?」
「そうだよ」
そのとき――
「五十嵐(陽斗)。そこで何を細かくご指導なさってる?」
郷原の声が飛ぶ。
だがその口調には、皮肉よりも“見守っている大人”の気配があった。
「い、いや別に……」
「別に、じゃない。君が話すと小夜さんが余計緊張する。
教えたい気持ちは分かるが、今は俺に任せろ」
教室がくすっと笑い、小夜は小さく肩をすぼめた。
しかしその直後――
「五十嵐小夜さん」
「……はい」
「字は丁寧でいい。だが全部を写す必要はない。
考える部分だけ押さえれば、それで十分だ」
郷原は淡々としながらも、言葉を選んでいた。
「初日から全部やろうとしなくていい。ゆっくりで構わん」
その柔らかさに、小夜の指先の震えがふっと止まった。
(ああ……こういう言い方できるのか、この人)
陽斗は心の中で、ほんの少しだけ感心した。
「五十嵐(陽斗)。隣でフォローするのは構わん。
ただし授業中に雑談するな。二人とも立派な高校生だろう?」
「……はい」
郷原は苦笑を浮かべ、黒板に向き直った。
小夜はほっと息をつき、小声でつぶやく。
「……優しい先生なんだね」
「まあ、見た目よりは、な」
二人の間に、ささやかな安心が戻ってくる。
夏が終わり、秋が始まる直前の朝。
日常の中のわずかな揺らぎは、まだ誰にも知られていない。
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そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
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