『クーロンズフォート ― LUMINOUS EYE ―』

ukon osumi

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第1章「はじまりの朝」

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 味噌汁の湯気が、ゆっくりと天井に昇っていく。まだ九月の朝で、夏の名残りが少しだけ残っているはずなのに、台所の空気はどこか落ち着いていた。コンロの上で煮立っていた鍋の火を陽斗の母が止め、「はい、できたよ」と言って盆に載せたまま食卓に運んでくる。
 焼き鮭、ほうれん草のおひたし、卵焼き。それに白いご飯。どこにでもある、普通の家庭の朝食だった。
 普通――その言葉が、かえって胸にしみた。
 陽斗は箸を取り、ふっと横目を向けた。小夜はダイニングの椅子に腰を掛け、味噌汁をそっと冷ましながら口に運んでいた。十八歳の姿になってまだ日が浅いせいか、動作の一つひとつがどこか慎重で、器の持ち方も妙に丁寧だった。まるで割れものを扱うような手つきだが、それが不自然に見えないのは、彼女が本来とても几帳面な性格だからだろう。
 だが母親はそんな違和感にまったく気づかず、むしろ嬉しそうに言った。
「小夜ちゃん、本当に器用ねぇ。昨日の夕飯の唐揚げもおいしかったし」
「いえ……そんな、たいしたものじゃ……」
 小夜は少し照れて、視線を落とす。指先がほんのわずかに震えていた。料理を“学び始めたばかり”の人間のしぐさだ。九龍のような異界を歩いていた術者が、今は台所で調味料の分量に悩んでいる。それが不思議で、そしてどこかいとおしいように感じる。
 母親はそんなことにはまったく気づかず、明るい声で続けた。
「そうそう、小夜ちゃん。今日、制服の採寸行くんでしょ? お弁当も持っていきなさいね」
「はい。……あの、お母さま。今日のは、作ってきました」
 小夜がそっと差し出した弁当箱は、ほんのりと温かかった。朝早く起きて作ったのだと、その温度だけで分かる。
「おお……お前、いつの間にそんな女子力を……」
 陽斗がぼそっと言うと、小夜はむっと頬をふくらませた。
「何それ。作りたかったんだよ、前から。……普通に学校行くなら、こういうのもしたいし」
 “普通”という言葉が、まるで祈りみたいに響いていた。
 母親は気づかない。気づいてはいけない世界の話だった。
 陽斗は箸を置き、自分の皿の卵焼きをつまんで小夜の皿に移した。
「食えよ。朝はちゃんと食わないと」
「……ありがと」
 小さな声で、小夜はつぶやいた。

 母親が食器を片づけて台所に立つ。そのあいだ、陽斗はちらりと時計を見る。まだ時間はある。だが、家の中に家族の気配があるうちは、軽々しく口にできない話があった。
 トントン、と包丁の音がして、母が言う。
「じゃあ二人とも、今日は早く出なさいよ。小夜ちゃんは転校の手続きもあるんでしょ? 文雄さんにもよろしくねぇ」
 陽斗の心臓がひゅっと縮んだ。
 文雄――実在する親戚。母の従兄で、確かに福岡にいる。
 その“文雄の娘”として小夜が自然に受け入れられているのは、小夜が符術で“補正”したからだ。偽造ではない。既存の事実の枠の中に、小夜自身をすべり込ませた。母親が不自然に思わないギリギリの形で。
 母が洗濯物を抱えてベランダへ出る。引き戸が閉じる音がして、家の空気が沈んだ。
 その瞬間、小夜は顔を上げ、声を潜めた。
「……昨日、眠れた?」
 陽斗は一拍おいて答える。
「……まあ。耳の奥に火の音が残ってるけどな」
 小夜は小さく息をのみ、湯飲みにそっと指を添える。
「やっぱり……二十年は、大きいよ」
「五年減ったお前に言われたくねぇよ。
 しかも年齢戻したせいで制服買う羽目になってんだし」
小夜は少しだけ頬を赤らめた。
「……いいでしょ。
 “普通の女の子”として学校に通ってみたいんだから。
 九龍で積み上げた時間じゃなくて、
 ちゃんと朝起きて、ご飯食べて、教室に座って……
 そういうの、一度も経験したことなかったんだよ」
陽斗は言葉を失った。
ふだんは強いくせに、こういう時だけ年相応に見える。

  九龍の式壇で火を蹴り、王芳を救った代償。寿命の二十年という重さを、軽く口にできるわけがない。
否定するしかなかった。
小夜はうつむき、言葉を続けた。
「でも──あれは、戻れたから」
 その声には痛みもあるが、どこか覚悟が宿っていた。
「三十八歳の身体で十八のふりして生きるより……本当に十八歳の姿でやり直したかった。普通に、制服を着て、教室に入って……そういう毎日を、一度でいいから味わいたかったんだ」
 その言葉に、陽斗は胸のどこかがぎゅっとつかまれたように感じた。
 彼女は戦ってきた。封じられ、追放され、二十年の時間を失い、それでも戻ってきた。もう“李王芳”ではない。
 彼女は、ただの“小夜”として生きたいのだ。
「……なら、守るしかねぇだろ」
 陽斗は低く言った。
「お前が普通でいたいなら、俺も普通でいる。寿命だの契約だの……この家に持ち込む気はない。母さんにも言わない」
「うん。……これ、二人だけのことだから」
 小夜はわずかに笑った。その笑みは、九龍で見せた険しい顔ではなく、今の姿によく似合っていた。
 母親がベランダから戻る足音がしたので、二人は黙って味噌汁をすする。食卓は再び“普通”の空気を取り戻した。
「陽斗、これ持ってきなさいよ。水筒。まだ暑いんだから」
「わかったよ」
「小夜ちゃんも遠慮しないでね。うちにいる間は家族なんだから」
「はい。ありがとうございます、お母さま」
 その自然な返事に、母親は安心したように微笑んだ。
 ――この日常を、守らなくてはいけない。
 九龍の炎をくぐり抜けた二人にとって、その約束は術式よりも重いものだった。

  食器を片づけ、二人で玄関に向かう。靴を履く音が重なる。
 玄関の扉を開けると、九月の少し湿った朝の空気が入り込んできた。
「行くか」
「うん」
 小夜は弁当箱を抱え、制服に合わせたカーディガンの袖を軽く整えた。ほんのわずか緊張した顔をしていたが、それでも歩みはしっかりしている。
 家の前の路地を並んで歩く。遠くから中学生の笑い声が聞こえ、パン屋の開店準備の匂いが漂ってきた。
 九龍の匂いはどこにもない。

 ほんの少しだけ陽斗は空を見上げた。
 火の残光がまだ胸の奥で燻っている。それでも、朝の青さにかき消されていく気がした。
「……なあ、小夜」
「なに?」
「お前さ、その……制服、似合うと思うぞ」
 小夜は一瞬目を丸くし、それから小さく笑った。
「……ありがと、陽斗」
 その一言で、朝の空気がふっと柔らかくなる。
「あの人には、何も言わない。
 母さんには“普通の日常”しか見せねえよ」
 小夜はうなずき、静かに弁当箱を差し出した。
「じゃあ……普通の一日、始めよ?」
 陽斗は苦笑して、手を伸ばした。
 玄関の扉を閉めると、まだ少し湿った初秋の風が二人のあいだを抜けた。
 昨日までの“非日常の名残”が、風に薄まっていく気がした。
「歩くの、こうして並ぶの……ちょっと変な感じだね」
 小夜が小さく言った。
 “十八歳としての生活”が、まだ身体に馴染みきっていないのが分かる。
「すぐ慣れるって。……てか、慣れろよ」
「努力はする」
 その真面目すぎる返事に、陽斗は思わず笑った。
 家の前の坂を下りるにつれ、制服姿の高校生がぽつぽつと増えていく。
 二人の歩幅が自然に揃っていくと、不思議と胸の奥がほんのり熱くなった。
 交差点を曲がった先――
 学校の校舎が見えた瞬間、小夜がほんの少しだけ足を止めた。
「大丈夫か?」
「うん……ただ、こういう“普通の朝”って初めてで」
 そう言って笑う表情には、どこか緊張が混じっていた。
「心配すんなよ。お前はもう“こっち側”の人間だろ」
「そうだね。……行こう。でもね……わたしたち、ちょっとだけ時間をなくしたから。生きてるだけで、もう“前に進んでる”んだよ」
「なくしたって、さらっと言うなよ」
「事実だから。……でもね、なくした時間のぶん、“中身”を濃くすることはできるでしょ?」
 その言い方は、九龍での彼女の声にも似ていた。
 策を練るとき、仲間を守るとき、決壊しかけた結界を無理やり支え直すとき――あのときの冷静さと、今の柔らかさが混ざっている。
「だから、わたしは頑張るよ。“普通の女の子”として」
「……おう」
「陽斗も、“普通の男の子”として」
「それは似合わねぇな」
「似合わないかな?」
「似合ってるよ。ムカつくけど」
学校が近づき、制服の群れが視界に増えた。
その中に、小夜が自然に混じっていく。
それが不思議で、陽斗は少し胸が熱くなった。
校門で、クラスの女子が声を上げる。
「あっ、小夜ちゃん! 今日から来るんだよね?」
「はい。よろしくお願いします」
「え、雰囲気大人っぽ……!」
(そりゃそうだろ……三十代の癖、抜けてねぇからな)
陽斗は心の中で呟いた。
 靴箱の前で、小夜がぴたりと足を止めた。
「……陽斗。これ、どこに入れるの?」

「どこって……ここ、二年四組の列だろ」
「わかってるけど、こういう棚使うの初めてで……」
 言われてみれば、当然だった。
 九龍でも、黒炎環でも、靴を脱ぐ文化はなかった。
「ほら、右から二番目。そこ、お前のだよ」
「……うん」
 小夜はそっと靴を入れた。
 指先の動きがやけに丁寧で、まるで壊れ物でも扱っているようだった。
「そんなに慎重にしなくても折れねぇよ」
「でも……なんか綺麗にしたくて」

 そんな小夜の姿を見て、近くの女子二人がひそひそ声を立てた。
「小夜ちゃん、ほんと大人っぽい……」
「でも可愛いよね。初日なのに落ち着きすぎじゃない?」
 小夜は聞こえないふりをしながら、微妙に耳の先が赤くなっている。
教室に入ろうとすると、小夜が袖を引いた。
「陽斗」
「ん?」
「言っておきたいことがある」
その声は、いつもより小さかった。
「私は……前の世界で、誰かの器として生きた。
 でも、もう“誰かのもの”として生きない。
 陽斗と一緒に……自分で選んだ生活をしたい」
陽斗は、少しだけ目をそらした。
「……知ってるよ。お前はもう“王芳”じゃねぇしな」
「うん。“小夜”だよ」
 小夜はそう言って、胸元の学生証を軽く押さえた。
 “李王芳”ではなく、“五十嵐小夜”。
 その名前を、やっと手に入れた。
「俺だって……照久じゃねぇしな。勝手に名前呼ばれんの、ムカつくんだよ」
「うん。私も“芳蘭”じゃないよ」
小夜は静かに続けた。
その声は、過去を受け止めたうえで、きっぱりと今を選ぶ人の声だった。
「前の世では夫婦だったけど……
 あれは“あの二人”の物語で、
 いまの私たちの物語じゃない」
陽斗は少し目をそらしながら、短く返す。
「……だよな。
 照久と芳蘭の続きなんて、やる気ねぇし」
「私も。
 王芳としても、芳蘭としても生きない。
 “今の小夜”をやるって決めたから」
小夜は胸元の学生証を軽く押さえる。

「だから、陽斗の中に残ってる癖は……前世の残骸じゃなくて、
 “あなたが選んだ今の力”なんだと思う」
「まあ……否定しねぇよ。
 でも俺は照久じゃねぇ。前世に戻る気もねぇ」
小夜は、ふっと笑った。
「うん。
 陽斗が陽斗なら、それでじゅうぶん」
 教室の扉が開き、生徒たちの声が溢れ出す。
 その空気は、確かに“日常”だった。
 九龍のどの景色よりも、人の息づかいがはっきりしている。
  だが扉をくぐる瞬間、陽斗の影がまた揺れた。
 薄く、細く、裂けるように。
 小夜が小さく囁く。
「……気をつけて。影の動き、悪い方の兆しじゃないけど……
 “何かが近づいてる”気配はある」
「大袈裟だって」
「大袈裟でいいの」
教室に入ると、さらに戸惑いが増えた。
 郷原先生が教壇に立ち、出席簿を机に置く音が響く。
「えーと、新しく転入してきた五十嵐……小夜さん、だな。
 みんな、もう知ってるとは思うが、しばらく不慣れなこともあるだろう。
 変に気負わせるなよ。普通に接してやれ」
 その言い方はそっけないが、どこか“気遣いの不器用さ”が滲んでいた。
 照れを隠すために声がやや低くなるのが、郷原の悪い癖だ。
 小夜は真っ直ぐ背筋を伸ばし、丁寧に会釈した。
「よろしくお願いします」
 落ち着いた声だが、手元のノートはわずかに震えている。
(緊張してる……そりゃそうだ)
 数学が始まると、その戸惑いはさらに露わになった。
 小夜は、黒板に書かれる式を追いながら、必死でノートを取っていた。
 だが線はまっすぐ引けず、記号の書き方は慎重で、
 少しでもずれるとすぐ消しゴムをかけ直す。
「……そんな丁寧に書かなくていいだろ」
 陽斗が小声で言うと、小夜は恥ずかしそうに目を伏せた。
「だって……学生のノートって、こういうものなのかなって……」
「適当でいいよ。郷原、黒板写すより“理解しろ派”だし」
「そうなの?」
「そうだよ」
 そのとき――
「五十嵐(陽斗)。そこで何を細かくご指導なさってる?」
 郷原の声が飛ぶ。
 だがその口調には、皮肉よりも“見守っている大人”の気配があった。
「い、いや別に……」
「別に、じゃない。君が話すと小夜さんが余計緊張する。
 教えたい気持ちは分かるが、今は俺に任せろ」
 教室がくすっと笑い、小夜は小さく肩をすぼめた。
 しかしその直後――
「五十嵐小夜さん」
「……はい」
「字は丁寧でいい。だが全部を写す必要はない。
 考える部分だけ押さえれば、それで十分だ」
 郷原は淡々としながらも、言葉を選んでいた。
「初日から全部やろうとしなくていい。ゆっくりで構わん」
 その柔らかさに、小夜の指先の震えがふっと止まった。
(ああ……こういう言い方できるのか、この人)
 陽斗は心の中で、ほんの少しだけ感心した。
「五十嵐(陽斗)。隣でフォローするのは構わん。
 ただし授業中に雑談するな。二人とも立派な高校生だろう?」
「……はい」
 郷原は苦笑を浮かべ、黒板に向き直った。
 小夜はほっと息をつき、小声でつぶやく。
「……優しい先生なんだね」
「まあ、見た目よりは、な」
 二人の間に、ささやかな安心が戻ってくる。
夏が終わり、秋が始まる直前の朝。
日常の中のわずかな揺らぎは、まだ誰にも知られていない。

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