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第2話 選ばれた者たちの庭で
しおりを挟むヴァルディア王立学園の正門を抜けた瞬間、ロザリーは思わず足を止めそうになった。
視界に飛び込んできたのは、思わず瞬くしたくなるほど白い回廊だった。白磁のような大理石が敷き詰められた床は、磨き抜かれた鏡のように空の青を映し出している。行き交う生徒たちの制服は、一目でそれと分かる最高級の羊毛製だ。歩くたびに、上質な香水の香りと、若者特有の華やかな熱気が風に乗って鼻腔をくすぐる。
「……床が綺麗すぎて、土足で歩くのが申し訳なくなるわね」
――もっとも、掃除をするのは使用人なのだろうけれど。
零れ落ちた独り言は、周囲の華やかな笑い声に溶けて消える。ロザリーはふと自分の足元に目を落とした。丁寧に磨き込んではいるが、幾度も靴底を張り替えた古びた革靴。この完璧に管理された「宝石箱」のような世界において、彼女の存在だけが、現実の泥の匂いと生活の重みを微かに纏っていた。
「じゃあな、ロザリー。困ったことがあったらすぐに言えよ」
冗談めかした口調だったが、フィンの視線は真剣だった。彼はそう言い残すと、軽く手を振って人波に紛れていく。彼は爵位こそないが、商家の息子としてこの贅沢な空間に実によく馴染んでいる。友人たちと談笑しながら去っていく彼の背中を見送り、ロザリーは一人、中央校舎へと続く大階段に足を掛けた。
その時だった。
不自然なほど急激に、周囲の喧騒が引いていく。
波が引くように生徒たちが左右に分かれ、畏怖と羨望の入り混じった視線を投げかける。その道の先から現れたのは、世界の中心をそのまま歩いてきたかのような、圧倒的な存在感を放つ少年だった。
艶のある漆黒の髪が微風に遊び、燃えるような真紅の瞳が前方の虚空を射抜いている。この国の第一王子、レオンハルト・ヴァルディアだ。彼の一歩一歩は重厚で、迷いがない。遥か遠くの「絶対的な正しさ」だけを見据えているようにも見えた。
すれ違いざま。レオンハルトのポケットから、一枚の白い布がひらりと舞い落ちた。
最高級のシルクだろう。縁取られた緻密なレースが、冷たい大理石の上で、力尽きた蝶のように白く花開く。
「……あの、落としましたよ」
考えるより先に、ロザリーの手が動いていた。彼女にとって、物は命と同じように大切にされるべきものだ。
彼女は膝をつき、指先に残るわずかな床の感触を気にしながらも、その真っ白なハンカチを丁寧に拾い上げた。
レオンハルトの歩みが止まる。
彼はゆっくりと首を巡らせ、ロザリーを見下ろした。
真紅の瞳が、彼女を射抜く。その瞬間、レオンハルトの眉間に微かな、けれど確かな不快感の皺が寄った。
彼の目に映ったのは、銀髪に灰緑色の瞳を持つ、静かな気品を湛えた少女だ。その顔立ちは、この場にいる誰よりも高貴に見える。だが――その袖口には丁寧な継ぎ接ぎがあり、差し出された指先には、今しがた庭で作業をしてきたかのような「土」が微かに残っていた。
その不自然さが、完璧な世界に生きる彼には「理解不能な異物」として映ったのだ。
一拍の沈黙。その沈黙を、踏み潰すように、低い声が落ちた。
「地面に触れた汚物を、この俺が再び使うと思うか」
地を這うような傲岸不遜な声。
周囲の令嬢たちが、扇子の陰でクスクスと忍び笑いを漏らす。レオンハルトは、差し出されたロザリーの指先に触れることさえ忌まわしいというように、露骨に一歩、身を引いた。
「身の程を知れ。それなりの顔をしていながら、その手は泥にまみれているのか。……卑しい分際が俺に話しかけるな」
ロザリーは、差し出した手の行き場を失ったまま、数秒の間を置いた。
自分を嗤う視線。憐れむ視線。けれど、彼女の胸の奥で静かに燃え上がったのは、怒りよりも深い「憐れみ」だった。
彼女はゆっくりと立ち上がると、泥のついたハンカチを、汚れた面が内側に来るように丁寧に、指先で折り目をなぞりながら畳んだ。それはかつて母に教わった、物を慈しむ者の所作だった。
ロザリーはそれを手渡すことをやめ、レオンハルトの磨き抜かれた靴のすぐそばへ、そっと、置いた。
「……地面に生えている雑草だって、私は大切にします。一度土に触れただけで価値がなくなるなんて――」
そこで一度言葉を切り、ロザリーは彼を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、彼が期待したであろう屈辱の色も、縋るような情熱も欠落していた。
「そんな寂しい考え方は、私にはできません」
静かな、けれど大階段の隅々まで染み渡るような凛とした声。
レオンハルトの瞳の奥で、正体不明の光が爆ぜるのをロザリーは見届けなかった。彼女はそれ以上何も言わず、唖然として固まる少年の横を、風が抜けるような軽やかな足取りで通り過ぎた。
場には、濃密な静寂だけが残された。
レオンハルトは、足元に端然と置かれた白い塊を凝視している。その耳の端が、屈辱からか、あるいは初めて味わう「動揺」からか、微かに赤く染まっていた。
その喧騒の予感を孕んだ静寂を、頭上から眺めている者がいた。
長い金色の髪を緩く後ろ三つ編みにした少年は、深くあくびを噛み殺しながら、灰緑色の瞳の少女が遠ざかっていく背中を、観察するように見つめていた。
「……雑草、か」
思わず零れた呟きは、嘲笑でも侮蔑でもなかった。
彼の瞳に、ハニーアンバーの淡い、熱を帯びた光が宿る。彼が髪に飾る小さな証が、春の日差しを浴びて、どこか冷ややかに、けれど祝福するように煌めいた。
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