雑草姫、選ばれし花の庭で踏まれて生きる 〜ガラスの靴は、土いじりには不向きです〜

お月見ましろ

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第21話 薔薇の影で、彼女は眠る

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 あの夜、レオンハルト殿下の「慈悲」を、ただの男爵令嬢が叩き伏せたという衝撃的な報せは、瞬く間に学園中を駆け巡った。噂は尾ひれに背を付け、歪な形に変質していく。「恩を仇で返した不遜な女」「王子の情けを泥で汚した雑草」――。
 
 真相を知る由もない令嬢たちの間では、殿下を深く傷つけた「悪女」としてのロザリー像が、確固たる事実として共有されるようになった。
 
 ロザリーが回廊を歩けば、さざなみが引くように人々が道を空ける。それはかつて彼女が「透明な存在」として無視されていた頃とは違う、明確な敵意と蔑みを孕んだ拒絶だった。
 
 教室に入れば、それまで賑やかだった会話が氷が張ったように凍りつき、背後からは扇で口元を隠した嘲笑が飛ぶ。彼女が座る机の周囲だけが、ぽっかりと空白の地帯になった。
 
(……これで、いい。私は私の矜持を守ったのだから)
 
 ロザリーは背筋を伸ばし、灰緑色の瞳を落とさずに前を見据える。けれど、どこへ行っても突き刺さる「不敬」と「厚顔」の視線は、目に見えない蔦のように彼女の足を、心を、じわじわと縛り上げていった。
 
 その、息もできないほど重苦しい空気から救い出したのは、やはり、あの公爵令嬢だった。
 
「……かわいそうに。貴女は何も間違っていないのに、皆、あまりに思慮が足りませんわ」
 
 招かれたのは、学園の奥まった一角にある、公爵家専用の私設サロンだった。

 磨き抜かれた白磁の床、繊細なタペストリー、そして高価な香油がくゆらす沈香の香り。そこは、下界の泥も、学園の冷え切った噂話も、一切の侵入を許さない完璧な調律がなされた聖域だった。
 
 エララは、立ち尽くすロザリーの肩に、そっと手を置いた。
 
 絹のように滑らかで、けれど逃れられない重みを持った白い手が、ロザリーの背中を優しく包み込む。その温度は、拒めば拒むほど、深く肌に染み込んでいくようだった。

「ロザリー様……貴女は、本当に強い人。けれど、あまりに真っ直ぐすぎて、自分を傷つけてしまうのね」
 
 エララは、そのままロザリーをそっと抱きしめた。
 
 それは、ロザリーにとって、甘美で、どこか恐ろしいほどに安らかな温もりだった。エララの胸元から漂う、冷ややかな薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
 
「レオンハルト殿下は、ただ、不器用なのです。……でも、このままでは貴女の実家も、そして可愛い妹様も、周囲からの無責任な噂に晒され続けてしまうわ」
 
 「妹」という名がエララの口から漏れた瞬間、ロザリーの背中が僅かに強張った。エララはその変化を逃さず、より深く、慈しむように囁き続ける。
 
「殿下と仲良くした方がいい……。その方が、きっと妹さんも喜ぶわ。リリー様にとって、お姉様は唯一の希望でしょう?貴女が学園で孤立し、罪人のように扱われ続けることを、あの子が知ったら……どんなに悲しむかしら」
 
 エララの言葉は、蜂蜜のように甘く、同時に毒のようにロザリーの判断力を麻痺させていく。
 
 リリーの笑顔。あの日、レオンハルトが贈ったドレスを見て「お姫様みたい!」とはしゃいでいた妹の瞳。それを守るために、自分は誇りを捨ててでも、殿下に歩み寄るべきなのだろうか。
 
「……ちょうど、もうすぐ学園の記念舞踏会がありますわ。生徒たちの前で殿下へ謝罪し、和解するのに、これ以上の機会はありません」
 
 エララはロザリーの体を引き離し、その頬を優しく包み込んだ。
 
「私が着るはずだった、予備のドレスを貸してあげますわ……貴女にふさわしい、深雪のような穢れのないドレスを。それを着て殿下の前に立てば、彼も自分の間違いを悟り、貴女を対等な存在として、より一層深く愛おしむはずですわ」
 
 ロザリーは、その瑠璃色の瞳を見つめた。
 そこに宿っているのは、偽りのない慈愛に見えた。自分という孤独な雑草に、初めて「姉」のような立場から、守るべき者のための道を指し示してくれている救世主。
 
「……エララ様。ありがとうございます」
 
 ロザリーの口から漏れた承諾に、エララの唇が美しく、歪に弧を描いた。

  サロンを後にし、夕闇に染まり始めた長い回廊を進んでいたロザリーの足が、ふと止まった。

 伸びる影が、進路を塞ぐように落ちたからだ。

「……本当に、相変わらずだね。君は」

 低く、乾いた声。

 大理石の柱に背を預け、手癖のように襟足の三つ編みを弄っているのは、ノアだった。

 第一ボタンを外し、長い金髪を無造作に揺らす姿はいつもと変わらない。けれど、琥珀色の瞳だけが違っていた。笑みの膜を完全に失い、夜の底のように冷え切ったまま、まっすぐにロザリーを射抜いている。

「……こんな場所で、何をしているの」

「待ってたんだよ」

 即答だった。

「君が、あのサロンから出てくるのを」

 ノアは柱から離れ、距離を詰める。その足取りには、いつもの気怠さがなかった。

「ロザリー。君は、あそこで何を“約束させられた”? 彼女が差し出したのは、救いの手か、それとも絞首刑の縄かな」

 ノアの言葉には、いつもの余裕を削ぎ落としたような、剥き出しの焦燥が混じっていた。彼はロザリーの腕を掴み、強引に自分の方へと引き寄せる。

「舞踏会には出ない方がいい」

 低く、断定的な声。

「……とても嫌な予感がする。君が思っているより、ずっと」

「……離して」

 ロザリーは、即座にその手を振り払った。

 乾いた音が、回廊に小さく響く。

「ノア……貴方も、何も分かっていない」

 ロザリーの声は、静かだった。けれど、その静けさこそが、決定的だった。

「エララ様は、私のことも、家族のことも、ちゃんと考えてくださっている。……少なくとも、そう“してくれた”の」
 
 その言葉は、ノアがロザリーに抱き始めていた、名付けようのない執着への最も残酷な拒絶だった。ノアは琥珀色の瞳を見開き、それから、虚ろな笑みを浮かべた。
 それは、誰かを口説くための笑みではない。何かを失ったと悟った人間が浮かべる、虚ろで、ひどく薄い笑いだった。

「……そうか僕たちより、あの蜂蜜漬けの嘘の方が、君には心地いいんだね」
 
 ノアは三つ編みを握りしめていた手を離し、一歩、後ずさる。物理的な距離以上に、決定的な隔たりが生まれた。

「……いいよ。好きにすればいい」

 声には、もう引き留める力はなかった。

「毒の沼に首まで浸かって、息ができなくなったら……その時は、助けてあげる。……もし、間に合えばだけど」

 ノアは、それ以上何も言わず、闇の中へと身を翻した。
 足音は静かで、振り返ることもない。
 
 残されたロザリーは、彼に掴まれた腕の痛みと、エララから与えられたあの「甘い安らぎ」を天秤にかけ――迷うことなく、サロンの方へと視線を戻した。
 
 星降る舞踏会の夜まで、あと三日。
 
 不協和音は、もはや誰の耳にも届かぬほど高く、それでも確実に、破滅へ向かって鳴り続けていた。
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