雑草姫、選ばれし花の庭で踏まれて生きる 〜ガラスの靴は、土いじりには不向きです〜

お月見ましろ

文字の大きさ
28 / 37

第27話 その器に触れる権利

しおりを挟む




 ――けれど、その均衡は、一人の「生徒」の出現によって、音もなく崩れ始める。

 いつからだっただろうか。ノアの傍ら。幾多の女子生徒の中に名も知らぬ、けれど不気味なほど気配のない生徒が加わるようになったのは。

 気づいた時には、そこにいた。

 北温室へ向かう途中の回廊。講義後の中庭。人の流れが途切れる場所。いつも、ほんの半歩後ろ。影が影に重なるような距離で、その生徒は立っていた。

 その生徒は、隣国リヒトシュタインからの「編入生」として現れた。学園の喧騒に紛れ込めば、一瞬で意識の隅へ追いやられてしまうような、あまりに平坦で目立たぬ風貌。抑えられた声は、ただの礼儀正しい生徒のそれであり、誰に疑われることもない。

 ――それなのに。

 その生徒がノアの背後に立った瞬間。
 ロザリーは、はっきりと“違い”を感じ取ってしまった。

 ノアの琥珀色の瞳から、すべての生気が消え失せる。
 感情が消えるのではない。存在そのものが、引き抜かれる。

 いつものノアは、影に身を置きながらも、どこか現実を見据えていた。偽りの仮面を被り、女子生徒に甘い言葉を囁いていても、その笑みは軽薄。それでも、言葉は柔らかく、自分の足で地面に立っている男だった。

 だが、その生徒がノアの背後に立った瞬間、世界の色彩は一変する。そこには温室で土をいじり、皮肉げに、けれど確かに熱を持って微笑んでいたあの少年はどこにもいない。そこに残されるのは、まるで見えない糸で操られる「死んだ人形」のような、空虚な器だった。
 
「……ノア?」

 そう声をかけた時、彼は確かにこちらを見た。
 けれど、見ていなかった。

 すれ違う足音には、もはや彼自身の歩調は存在しなかった。ロザリーは震える指先を己の胸元に当て、温室で分け合ったあの小さな熱が、急速に凍てついていくのをただ、見逃すことしかできなかった。

 
 平穏の終わりは、雷鳴のような轟音と共に訪れるのではなく、ただ、日常から「あるはずの音」が消えるという、あまりに静かな形をしていた。
 
 放課後の北温室。錆びついた扉を開ければ、いつもならそこには、土の匂いに混じってノアが淹れたハーブティーの、僅かに苦い香りが漂っているはずだった。彼が椅子に深く腰掛け、琥珀色の瞳を細めて「遅かったね、お姫様」と、退屈しのぎを装った甘い声を投げてくれる。その瞬間、ロザリーを縛り付ける学園の重圧は、温室のガラス屋根の外へと霧散していくはずだった。
 
 けれど、その日、温室に満ちていたのは、肺の奥まで凍てつかせるような、澱んだ静寂だった。
 
「……あれ、いないの?」
 
 呼びかける声は、湿った空気の中に吸い込まれ、波紋一つ立てずに消える。
 
 無造作に置かれたままの農具、影を長く落とすハーブの苗。そして、乱雑に踏み潰されたハーブの亡骸。半分だけ体温を失った空間は、急速にその温度を失い、ただの朽ちかけた残骸へと引き戻されていた。
 
 ロザリーは、胸を締め付ける予感に急かされるように、二人の「領土」の中心であったレンガの卓へと歩み寄った。そこには、割れた茶器と、場違いな一通の封書が置かれていた。
 
 それは、視界を吸い込むような、不気味なほどに真っ黒な手紙だった。
 
 夜を切り取って固めたようなその封筒は、煤けたレンガの上で、異質なまでの存在感を放っている。
 
 ロザリーは、震える指先をその封書へと伸ばした。
 封を閉じているのは、深紅の蝋――ではない。乾いた血を思わせる、鈍く、昏い輝きを放つ紋章。
 
 隣国リヒトシュタインの象徴である双頭の鷲が、無機質な眼差しでロザリーを睥睨していた。
 
 それはノアからの便りではなく、彼を縛り付ける強大な「力」が、この聖域に土足で踏み入ったことを示す、残酷な証だった。
 
 並び立つ書架が、まるで巨大な墓標のように長く黒い影を落とす放課後の図書室。ロザリーは、温室での不穏な予感から逃れるように、一冊の古い植物図鑑に目を落としていた。だが、文字は滑り、意味を成さない。
 
 ふと、背後の空気が、絶対零度の冷気を帯びて凍りついた。
 
「……ノア様は、穢れを知らぬ白銀の器。土にまみれた雑草が、これ以上、無造作に触れていいものではありませんのよ」
 
 音もなく、影の中からその「生徒」は現れた。
 隣国からの編入生。特徴のない顔立ちに浮かべた微笑は、絵画のように優雅で、けれど一寸の揺らぎもない。その瞳の奥には、彼女自身の意志ではなく、海を越えたどこか遠い場所に座す「誰か」の、底冷えするような殺意が宿っていた。
 
「……何、を」
 
 ロザリーは本を握りしめ、喉の奥から声を絞り出した。
 目の前の生徒から放たれる圧倒的な階級の差、そして「暴力」を必要としないほどの冷徹な威圧感に、肺が押し潰されそうになる。
 
「身の程を知りなさい、男爵令嬢。貴女が彼の側にいる一分一秒が、隣国の未来を汚しているのだということを」
 
 その生徒は、ロザリーの返答など求めてはいなかった。
 ゆっくりと、慈しむような所作でロザリーの頬へ手を伸ばす。指先が触れるか触れないかの距離で止まり、その唇から、呪いのような囁きが零れた。
 
「……貴女のような卑しい命が、あの方の物語の一頁にさえ残ることは、許されない。それは、世界に対する冒涜ですわ」
 
 その言葉は、ロザリーの胸を深く抉った。けれど――
それでも彼女は、頷かなかった。
 
 隣国の、未来。
 
 その言葉の重みが、ロザリーの理解を超えて胸を打つ。
 辺境伯の子息であるはずのノア。けれど、この生徒が守ろうとしているのは、そんな貴族の一子という枠組みでは到底収まりきらない、あまりに巨大で、神聖な「何か」であることを、ロザリーは肌で感じ取っていた。それが何なのか、彼女には分からない。けれど、それを理由に、あの温室の時間まで否定される筋合いはないと、思ってしまった。
 
 耳の奥に残ったのは、死神の宣告よりも重い沈黙。
 自分が愛おしいと感じたあの琥珀色の輝きが、実は触れることさえ許されない「白銀の器」であったのだとしたら。
 
 図書室の暗がりに沈むロザリーの影は、これまでになく細く、頼りなく、揺らいでいた。
 
 記憶の中の温室を包む偽りの春が。穏やかな日常が、粉々に砕け散る音が聞こえたような気がした。ポケットの中で繋いでいたあの温もりさえ、遠い前世の記憶のように薄れていく。その影は彼女がようやく掴みかけた小さな希望を、音もなく侵食し始めていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

英雄の可愛い幼馴染は、彼の真っ黒な本性を知らない

百門一新
恋愛
男の子の恰好で走り回る元気な平民の少女、ティーゼには、見目麗しい完璧な幼馴染がいる。彼は幼少の頃、ティーゼが女の子だと知らず、怪我をしてしまった事で責任を感じている優しすぎる少し年上の幼馴染だ――と、ティーゼ自身はずっと思っていた。 幼馴染が半魔族の王を倒して、英雄として戻って来た。彼が旅に出て戻って来た目的も知らぬまま、ティーゼは心配症な幼馴染離れをしようと考えていたのだが、……ついでとばかりに引き受けた仕事の先で、彼女は、恋に悩む優しい魔王と、ちっとも優しくないその宰相に巻き込まれました。 ※「小説家になろう」「ベリーズカフェ」「ノベマ!」「カクヨム」にも掲載しています。

十年越しの幼馴染は今や冷徹な国王でした

柴田はつみ
恋愛
侯爵令嬢エラナは、父親の命令で突然、10歳年上の国王アレンと結婚することに。 幼馴染みだったものの、年の差と疎遠だった期間のせいですっかり他人行儀な二人の新婚生活は、どこかギクシャクしていました。エラナは国王の冷たい態度に心を閉ざし、離婚を決意します。 そんなある日、国王と聖女マリアが親密に話している姿を頻繁に目撃したエラナは、二人の関係を不審に思い始めます。 護衛騎士レオナルドの協力を得て真相を突き止めることにしますが、逆に国王からはレオナルドとの仲を疑われてしまい、事態は思わぬ方向に進んでいきます。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!

ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。 前世では犬の獣人だった私。 私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。 そんな時、とある出来事で命を落とした私。 彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。

王太子妃専属侍女の結婚事情

蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。 未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。 相手は王太子の側近セドリック。 ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。 そんな二人の行く末は......。 ☆恋愛色は薄めです。 ☆完結、予約投稿済み。 新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。 ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。 そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。 よろしくお願いいたします。

ブサイク令嬢は、眼鏡を外せば国一番の美女でして。

みこと。
恋愛
伯爵家のひとり娘、アルドンサ・リブレは"人の死期"がわかる。 死が近づいた人間の体が、色あせて見えるからだ。 母に気味悪がれた彼女は、「眼鏡をかけていれば見えない」と主張し、大きな眼鏡を外さなくなった。 無骨な眼鏡で"ブサ令嬢"と蔑まれるアルドンサだが、そんな彼女にも憧れの人がいた。 王女の婚約者、公爵家次男のファビアン公子である。彼に助けられて以降、想いを密かに閉じ込めて、ただ姿が見れるだけで満足していたある日、ファビアンの全身が薄く見え? 「ファビアン様に死期が迫ってる!」 王女に新しい恋人が出来たため、ファビアンとの仲が危ぶまれる昨今。まさか王女に断罪される? それとも失恋を嘆いて命を絶つ? 慌てるアルドンサだったが、さらに彼女の目は、とんでもないものをとらえてしまう──。 不思議な力に悩まされてきた令嬢が、初恋相手と結ばれるハッピーエンドな物語。 幸せな結末を、ぜひご確認ください!! (※本編はヒロイン視点、全5話完結) (※番外編は第6話から、他のキャラ視点でお届けします) ※この作品は「小説家になろう」様でも掲載しています。第6~12話は「なろう」様では『浅はかな王女の末路』、第13~15話『「わたくしは身勝手な第一王女なの」〜ざまぁ後王女の見た景色〜』、第16~17話『氷砂糖の王女様』というタイトルです。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

処理中です...