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第27話 その器に触れる権利
しおりを挟む――けれど、その均衡は、一人の「生徒」の出現によって、音もなく崩れ始める。
いつからだっただろうか。ノアの傍ら。幾多の女子生徒の中に名も知らぬ、けれど不気味なほど気配のない生徒が加わるようになったのは。
気づいた時には、そこにいた。
北温室へ向かう途中の回廊。講義後の中庭。人の流れが途切れる場所。いつも、ほんの半歩後ろ。影が影に重なるような距離で、その生徒は立っていた。
その生徒は、隣国リヒトシュタインからの「編入生」として現れた。学園の喧騒に紛れ込めば、一瞬で意識の隅へ追いやられてしまうような、あまりに平坦で目立たぬ風貌。抑えられた声は、ただの礼儀正しい生徒のそれであり、誰に疑われることもない。
――それなのに。
その生徒がノアの背後に立った瞬間。
ロザリーは、はっきりと“違い”を感じ取ってしまった。
ノアの琥珀色の瞳から、すべての生気が消え失せる。
感情が消えるのではない。存在そのものが、引き抜かれる。
いつものノアは、影に身を置きながらも、どこか現実を見据えていた。偽りの仮面を被り、女子生徒に甘い言葉を囁いていても、その笑みは軽薄。それでも、言葉は柔らかく、自分の足で地面に立っている男だった。
だが、その生徒がノアの背後に立った瞬間、世界の色彩は一変する。そこには温室で土をいじり、皮肉げに、けれど確かに熱を持って微笑んでいたあの少年はどこにもいない。そこに残されるのは、まるで見えない糸で操られる「死んだ人形」のような、空虚な器だった。
「……ノア?」
そう声をかけた時、彼は確かにこちらを見た。
けれど、見ていなかった。
すれ違う足音には、もはや彼自身の歩調は存在しなかった。ロザリーは震える指先を己の胸元に当て、温室で分け合ったあの小さな熱が、急速に凍てついていくのをただ、見逃すことしかできなかった。
平穏の終わりは、雷鳴のような轟音と共に訪れるのではなく、ただ、日常から「あるはずの音」が消えるという、あまりに静かな形をしていた。
放課後の北温室。錆びついた扉を開ければ、いつもならそこには、土の匂いに混じってノアが淹れたハーブティーの、僅かに苦い香りが漂っているはずだった。彼が椅子に深く腰掛け、琥珀色の瞳を細めて「遅かったね、お姫様」と、退屈しのぎを装った甘い声を投げてくれる。その瞬間、ロザリーを縛り付ける学園の重圧は、温室のガラス屋根の外へと霧散していくはずだった。
けれど、その日、温室に満ちていたのは、肺の奥まで凍てつかせるような、澱んだ静寂だった。
「……あれ、いないの?」
呼びかける声は、湿った空気の中に吸い込まれ、波紋一つ立てずに消える。
無造作に置かれたままの農具、影を長く落とすハーブの苗。そして、乱雑に踏み潰されたハーブの亡骸。半分だけ体温を失った空間は、急速にその温度を失い、ただの朽ちかけた残骸へと引き戻されていた。
ロザリーは、胸を締め付ける予感に急かされるように、二人の「領土」の中心であったレンガの卓へと歩み寄った。そこには、割れた茶器と、場違いな一通の封書が置かれていた。
それは、視界を吸い込むような、不気味なほどに真っ黒な手紙だった。
夜を切り取って固めたようなその封筒は、煤けたレンガの上で、異質なまでの存在感を放っている。
ロザリーは、震える指先をその封書へと伸ばした。
封を閉じているのは、深紅の蝋――ではない。乾いた血を思わせる、鈍く、昏い輝きを放つ紋章。
隣国リヒトシュタインの象徴である双頭の鷲が、無機質な眼差しでロザリーを睥睨していた。
それはノアからの便りではなく、彼を縛り付ける強大な「力」が、この聖域に土足で踏み入ったことを示す、残酷な証だった。
並び立つ書架が、まるで巨大な墓標のように長く黒い影を落とす放課後の図書室。ロザリーは、温室での不穏な予感から逃れるように、一冊の古い植物図鑑に目を落としていた。だが、文字は滑り、意味を成さない。
ふと、背後の空気が、絶対零度の冷気を帯びて凍りついた。
「……ノア様は、穢れを知らぬ白銀の器。土にまみれた雑草が、これ以上、無造作に触れていいものではありませんのよ」
音もなく、影の中からその「生徒」は現れた。
隣国からの編入生。特徴のない顔立ちに浮かべた微笑は、絵画のように優雅で、けれど一寸の揺らぎもない。その瞳の奥には、彼女自身の意志ではなく、海を越えたどこか遠い場所に座す「誰か」の、底冷えするような殺意が宿っていた。
「……何、を」
ロザリーは本を握りしめ、喉の奥から声を絞り出した。
目の前の生徒から放たれる圧倒的な階級の差、そして「暴力」を必要としないほどの冷徹な威圧感に、肺が押し潰されそうになる。
「身の程を知りなさい、男爵令嬢。貴女が彼の側にいる一分一秒が、隣国の未来を汚しているのだということを」
その生徒は、ロザリーの返答など求めてはいなかった。
ゆっくりと、慈しむような所作でロザリーの頬へ手を伸ばす。指先が触れるか触れないかの距離で止まり、その唇から、呪いのような囁きが零れた。
「……貴女のような卑しい命が、あの方の物語の一頁にさえ残ることは、許されない。それは、世界に対する冒涜ですわ」
その言葉は、ロザリーの胸を深く抉った。けれど――
それでも彼女は、頷かなかった。
隣国の、未来。
その言葉の重みが、ロザリーの理解を超えて胸を打つ。
辺境伯の子息であるはずのノア。けれど、この生徒が守ろうとしているのは、そんな貴族の一子という枠組みでは到底収まりきらない、あまりに巨大で、神聖な「何か」であることを、ロザリーは肌で感じ取っていた。それが何なのか、彼女には分からない。けれど、それを理由に、あの温室の時間まで否定される筋合いはないと、思ってしまった。
耳の奥に残ったのは、死神の宣告よりも重い沈黙。
自分が愛おしいと感じたあの琥珀色の輝きが、実は触れることさえ許されない「白銀の器」であったのだとしたら。
図書室の暗がりに沈むロザリーの影は、これまでになく細く、頼りなく、揺らいでいた。
記憶の中の温室を包む偽りの春が。穏やかな日常が、粉々に砕け散る音が聞こえたような気がした。ポケットの中で繋いでいたあの温もりさえ、遠い前世の記憶のように薄れていく。その影は彼女がようやく掴みかけた小さな希望を、音もなく侵食し始めていった。
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