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第29話 言葉が刃になる時
しおりを挟むフィンが去った夜の湿り気は、翌朝になってもロザリーの胸の奥に残っていた。
寝返りを打つたびに古びたベッドが軋み、その音が深夜の静寂に鋭く刺さる。結局、一睡もできぬまま夜が明けた。冷え切った水で顔を洗い、鏡を見る。そこには、昨日までと同じ、代わり映えのしない自分の顔がある。ただ、灰緑の瞳だけが、冬の湖面のように静かに凪いでいた。
――逃げてほしい。
――ここに居続ければ、殺される
彼の言葉が、頭の底で何度も反芻される。
石畳を踏みしめる足取りを、昨日までと変えてはならない。そう自分に言い聞かせながら、彼女は学園の門を潜った。
講義を終えたロザリーが呼び止められたのは、昼休みの鐘が鳴り響く直前のことだ。案内されたのは、事務棟の最上階。光の届きにくい、ひやりとした小応接室だった。
「座りなさい」
向かいに座るのは、中年の教師だ。ただ「事なかれ」という名の平穏を信条とする男の、平坦な表情があるだけだった。
卓上に置かれた書類は、驚くほど簡素で、その白さが目に痛い。
「……制度上の見直しが入るそうだ」
教師は書類の端を整え、決してロザリーと視線を合わせようとはしなかった。その声音には、怒りも困惑も含まれない。あるのは、避けようのない現実を読み上げるだけの、乾いた調子。
「恐らく、君の奨学金の支給は、当面停止されるだろう。教材費補助、学外研究への支援も同様だ」
ロザリーは、静かに瞬きをした。それは宣告だった。彼女の生活と、僅かに残された学びの権利を、根元から断ち切るための。
「理由は……伺えるのでしょうか」
「規定に基づいた、総合的な判断だ。我々にはそれ以上の説明は許されていない」
教師はそれ以上を語らない。語れないのではなく、語らないのだと、ロザリーには分かった。
「君が、何をしているのか。私は知らない」
ふと、教師の声が微かに低くなった。それは冷徹な突き放しの中に、別の感情が混ざった忠告だった。
「だが――学園は、学ぶ場だ。……余計な注目を集めることは、必ずしも君のためにはならない」
忠告でも、助言でもない。ましてや、庇護ではない。
ただ、“これ以上は守れない”という、静かな線引き。
ロザリーは膝の上で指を組んだ。
組んだ指の先、爪の隙間に、朝の庭仕事でついた微かな土が残っていることに気づく。それはどれほど磨いても落ちない、彼女の血肉に近い「現実」の色だった。
「……承知いたしました」
それだけを告げ、ロザリーは席を立った。
背後でドアが閉まる音がした。教師からの引き留めも、背中に刺さる視線もない。その無関心こそが、かえって凄惨な現実味を帯びて、彼女の胸の底へ沈んでいく。
廊下を歩き出した瞬間、視界の端で光が跳ねた。
豪華な装飾、磨き抜かれた床、自分とは無縁のはずだった贅沢な空間。そこから、音もなく水が引いていくような感覚。
恐怖はなかった。煮えくり返るような怒りも、今はまだ遠い。
(……これが)
フィンが、あの夜に警告として差し出した言葉の正体。
誰かが物理的に殴ってくるわけではない。ただ、今まで「当然のようにあったもの」が、説明もなく、音も立てずに、自分の周囲から消えていく。
その曖昧な場所から、ロザリーは、透明な手で外側へと押し出され始めていた。彼女は唇を強く引き結び、歩みを止めない。立ち止まった瞬間に、足元の土が崩れ落ちる予感がしたからだ。
放課後の学園は、雨を孕んだ重い雲に覆われていた。
奨学金停止の通告を受けた後、ロザリーの足は、いつもの帰り道を外れ、人の気配が途絶えた時計塔の裏手へと向かっていた。
冷たい風が、薄い制服の生地を容赦なく通り抜ける。
それは、守られていないという事実を、身体に直接教えるような冷たさだった。
影の中に、一人の人影があった。
金色の髪を緩く結い、壁に背を預けている男。
ノア・フェルド。
「……ノア」
名を呼んだ声は、自分でも驚くほど震えていた。
助けを求めるつもりはなかった。ただ、この不条理な包囲網の中で、彼ならばこれらの出来事を一笑に付し、「やれやれだね」とでも言ってくれるのではないか――
そんな、今となっては幼稚な期待が、胸の奥に残っていたのかもしれない。
けれど。歩み寄るロザリーに対し、ノアは視線さえ合わせようとしなかった。
「ノア……どうして目を逸らすの? 私を見て」
立ち止まったノアが、ゆっくりと振り返る。
雲の隙間から漏れた僅かな光に照らされた彼の顔は、幽霊のように青白かった。ハニーアンバーの瞳は、軽薄な光を完全に失い、ただの凍った石のように冷え切っている。
「……君は、レオに守られていればいいんだ」
声は小さく、雨雲に吸い込まれるようで、完璧には聞き取れなかった。けれど、その響きに迷いはなかった。
躊躇も、怒りも、哀しみもない。最初から決められていた結論を、感情を削ぎ落とした声で読み上げているだけ――そんな平坦さだった。
「君には、眩しい太陽のような彼が相応しい。……泥の中に咲く雑草には、過ぎた光かもしれないけれど」
「何を、言っているの……?」
言葉にならない問いが、喉の奥で掠れる。
ノアは答えなかった。代わりに、長い三つ編みの先に触れ、金色の髪飾りを指先で愛おしげに弄ぶ。その仕草は、まるで壊れ物を慈しむようでもあり、同時に、今から壊すものへの儀式のようでもあった。
「僕、婚約するんだ。相手は王家に繋がる血筋の令嬢だよ」
淡々とした声。彼は一歩、ロザリーとの距離を詰める。密やかな吐息が届く距離。けれど、そこにあるのは親密さではなく、明確な拒絶の壁だった。
「勘違いしないでね。本気で、僕が君を愛すると思ったの?」
一拍。
「……君のその必死な姿、退屈しのぎにはちょうど良かったよ。でも、もう飽きたんだ」
音もなく、何かが崩れ落ちる。
それは言葉ではなかった。
ロザリーの中に、確かにあったはずの「彼の中の優しさ」という輪郭が、静かに瓦解していく音だった。
「……もう、僕の隣に君の居場所はないよ。さようなら、ロザリー」
ノアが背を向けた、その瞬間。張り詰めていた空気が弾けたように、天から大粒の雨が降り注いだ。
雨音は激しく、彼の足音さえ無慈悲にかき消していく。
追いかけることも、呼び止めることも、許されない速さだった。
ロザリーは動けなかった。
激しい雨が、繕い古した制服を瞬く間に濡らし、重く肌にへばりついていく。銀髪は顔に張り付き、視界を遮った。
(……ああ、そうか)
彼女は、泥水に濡れる靴先をぼんやりと見つめた。
現実はもっと残酷だった。彼女は物語にさえ入れない、ただの端役として、舞台の袖で家族ごと踏み潰されようとしているのだ。
雨の冷たさが、心臓の奥まで浸透していく。
その瞬間。
彼女の中で、必死に踏みとどまっていた、たった一本の細い茎が――初めて、音を立てて折れた。
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