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第6話 泥だらけの正義と、白いハンカチ
しおりを挟む昼休みの中庭は、いつもより少し騒がしかった。魔法学園らしく、あちこちで小さな魔法が飛び交い、失敗しては笑い声が上がる。
「ねえアイリス、昨日の実技見た?」
「見た見た。あれ絶対、炎盛りすぎよね」
「結界の端が焦げたらしいわよ」
「ええ!? 夕方まで焦げ臭かったって聞いたけど」
友人たちの話に、アイリスは楽しそうに相槌を打った。
「焦げた匂いの学園って、ちょっと嫌ね。お腹すいてる時だと致命的だわ」
「そこ!?」
笑い声が弾む。アイリスはこの、なんてことのない平和な時間が好きだった。――なのに。
靴底が石畳に触れるたび、地面がわずかに遅れて応えるような、はっきりしない歪みが、そこにはあった。アイリスは一歩進みかけてから、わずかに歩調を落とす。
(……あそこの花壇、昨日より「重い」気がする)
「アイリス?」
「あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてたわ」
アイリスは冗談めかしてそう笑うと、友人たちはそれ以上、気にすることはなかった。
隣を歩くルイは、いつもと変わらない足取りながら、その黄色い瞳は鋭く周囲を走らせていた。庭園を抜ける風、行き交う生徒の声。そのどれにも乱されない、頼もしい横顔。
「何かありましたか、お嬢様」
低く抑えた声。やはり、彼は気づいていた。
アイリスの視線の先には、クラスメイトの気弱な女子生徒が実習で育てている「月光草」の花壇があった。彼女は魔力制御が苦手で、いつも必死に土へ力を注いでいる。その一生懸命すぎる魔力が、土の中で行き場をなくして膨らんでいるようだった。
「ううん。ただ……なんとなく、足元が変な感じがして。落ち着かないだけよ」
その場は笑って誤魔化したものの、放課後になってもアイリスの違和感は消えることがなかった。
――放課後。
アイリスは一人、例の花壇の前に立っていた。
夕日に照らされた月光草は、不自然なほど葉を広げ、蕾からは今にも溢れ出しそうな魔力の光が漏れ出している。
「やっぱり……このままだと、暴発して枯れちゃう」
アイリスは周囲に誰もいないことを確認して、そっと膝をついた。土属性の魔力を持つ彼女にとって、地面の不調を見過ごすのは、泣いている子供を放置するような居心地の悪さがあった。
「よし、ちょっとだけ、お裾分けしてね」
アイリスが土に触れ、溜まった魔力を逃がそうと意識を集中させた、その時だった。
――パキッ、と嫌な音が響く。
過剰な魔力に耐えかねた植物が、外敵を排除しようとする本能で異常成長を始めたのだ。柔らかなはずの蔦が、鋭い棘を伴って鞭のようにしなり、アイリスの腕を絡め取る。
「っ、いたっ……! 待って、落ち着いて!」
予想以上の力に、アイリスは地面に引きずり込まれそうになる。必死に魔力で抑え込もうとするが、並の才能しか持たない彼女の力では、暴走する植物の勢いに押し負けてしまう。
「危ない、離れろ!」
鋭く響いたのは、焦燥の混じった怒号だった。
アイリスが暴走する蔦に押しつぶされそうになったその瞬間、視界の端から、肌を灼くような猛烈な熱風が吹き抜ける。
衝撃とともに、誰かが目の前に舞い降りた。
逆光の中で揺れる、眩しいほどの金髪。その右手に凝縮されたのは、どす黒いほどに赤い、熾烈な炎。
「そこまでだ、塵に帰せ!」
その人物は、アイリスが誰であるかを確認する余裕さえない様子で、容赦なくその炎を振り下ろそうとする。救助というよりは、害なすものを根絶やしにするための、圧倒的な王者の攻撃。
「——ダメ! 焼かないで!!」
アイリスは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
振り下ろされる直前、炎がピタリと止まる。熱を孕んだ突風がアイリスの髪を激しく巻き上げ、泥のついた彼女の顔を露わにした。
そこで初めて、ギルバートの赤い瞳がアイリスを捉えた。
「……アイリス・ヴァレリア!?」
ギルバートの声に、明らかな動揺が混じる。
彼は驚きに見開かれた目でアイリスを見つめ、それからすぐに、弾かれたように厳しい表情へと戻って怒鳴りつけた。
「何を言っている、どけ! このままではお前が殺される」
「ダメです! 焼いたら……焼いちゃったら、全部なくなっちゃう!」
アイリスは蔦に締め付けられ、苦痛に顔を歪めながらも、花壇を庇うようにして身を投げ出した。ギルバートの放とうとした火線と、暴走する月光草との間に、自らの身体を割り込ませる。
「どけと言っているのが分からないのか! こんな不完全な魔法、焼き払うのが一番早い!」
「不完全だなんて言わないで!これ、あの子が……放課後もずっと残って、一生懸命育ててた花なんです! 焼いたら、あの子の“努力”まで全部、灰になっちゃう……!」
ギルバートの手が、止まった。
「失敗したからって、危ないからって……そんな理由で、誰かの想いを簡単に壊さないで!!」
夕暮れの中庭に、アイリスの声が響き渡る。
アイリスを見下ろすギルバートの指先で、炎が迷うように小さく揺れた。
彼が生きてきた世界では、失敗したものは切り捨てられ、効率の悪いものは排除されるのが「正解」だった。それこそが、「努力」だった。けれど、泥にまみれ、恐怖で震えながらも、他人のために自分を盾にするこの少女の言葉は、彼の「正解」を根底から揺さぶる。
「……っ。死んでも知らんぞ」
苦々しく、吐き捨てるような言葉。けれどギルバートは、構えていた右手の炎を、握りつぶすようにして消した。
「一分だ。それで鎮められなければ、俺がその花ごと、すべてを焼き尽くす」
それは、彼が生まれて初めて決めた、非合理な「譲歩」だった。アイリスは一瞬だけ彼を見て、強く頷いた。
「——十分です!」
アイリスは苦しそうに暴れる月光草に両手を触れる。
自分の魔力を、荒れ狂う植物の鼓動に重ねる。大地よ、この溢れた想いを受け止めて——。
ごごご、と腹に響くような地鳴りがした。
アイリスは自分の身体を「管」にして、植物に溜まった過剰な魔力を大地へと流し込んでいく。並の才能。けれど、この瞬間の彼女の判断力と集中力は、誰よりも冴え渡っていた。
やがて、狂ったように蠢いていた蔦が、力を失って静かに地面へ伏した。中心に残った月光草は、先ほどまでの刺々しさが嘘のように、穏やかな蕾のまま眠りについている。
「……ふぅ。よかった……」
アイリスは安堵のあまり、その場にぺたんと座り込んだ。制服のローブはボロボロで、顔には無惨に泥が跳ねている。けれど、守り抜いた花を見て、彼女は晴れやかに微笑んだ。
「…………」
ギルバートが無言で歩み寄ってくる。
その影がアイリスを覆った。
「……お前の行動は、理解できない」
呆れたような、けれどどこか毒気を抜かれたような声音。
「あ、あの、殿下……わがまま言ってすみませんでした。でも、止めてくれてありがとうございます」
見上げて笑うアイリスの頬に、不意にひやりとした感触が触れた。ギルバートが、懐から一枚のハンカチを取り出し、彼女の頬の泥を拭ったのだ。
「っ……!」
「汚い顔だ。……動くなと言っている」
無造作だが、乱暴ではない指先。白地に繊細な刺繍が施された上質な布が、アイリスの汚れをさらっていく。
(これ……絶対、庶民の一ヶ月分の食費より高いやつ……!)
アイリスは、真っ白な高級品が茶色く染まっていくのを見て、血の気が引いた。
「あ、あの!そのハンカチ、私が洗います! 弁償は無理かもしれないけど、全力で綺麗にしますから!」
ギルバートは一瞬きょとんとし、それから、ふっと小さく息を吐いた。
「気にするな。……と言っても、お前は聞かないんだろうな」
ギルバートは、汚れのついたハンカチをアイリスの手に押し付けると、背を向けた。
「次からは、最初から俺を呼べ。……その方が、安心だ」
ぶっきらぼうな背中を見送りながら、アイリスは手の中のハンカチをぎゅっと握りしめた。
夕暮れの中庭。怖かったはずなのに、不思議と胸の奥には、花の香りのような温かさが残っていた。
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