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第21話 【急募】年上の余裕に対抗する術
しおりを挟むアイリスは鏡の前で、完全に固まっていた。
右を見ても、左を見ても、映っているのは自分。昨日と同じ顔のはずなのに、今日はどういうわけか、視線の置き場に困るほど落ち着かない。
(……そもそも、デートって何をするものなの?)
ただのお茶? 街の散歩? それとも、あのロイドのことだ。何か魔導具の実験に付き合わされるとか、とんでもない事件が起きる前提の誘いではないのか。
学園祭の喧騒から数日が経ち、季節は足早に秋の終わりを告げようとし、窓から入り込む風はもう夏の熱を完全に失い、凛とした冷たさを帯びていた。
そんな折、女子寮の扉に一枚の手紙が挟まっていたのだ。差出人の名はなかったが、見覚えのある、奔放でいてどこか理知的な筆致。
『一週間後の週末。中央広場の噴水前に十一時。
とびきりおめかしして来てね』
「……」
アイリスは、じっとその紙を見つめた。
正確には、忘れたふりをしていたのだ。
学園祭での混乱、ルイのこと、ギルバートの視線……それらの処理に追われ、あの約束を棚上げにしていた。
(……冗談じゃ、なかったのね)
じわじわと実感が押し寄せ、鏡の中の自分が情けないほど困った顔をする。断る理由など、どこにもなかった。命を懸けて自分とルイを救ってくれたのは、紛れもなく彼なのだから。
(あの人、絶対、普通のデートじゃない)
悩みに悩んで結局、選んだのは――くすみ栗色の髪に似合う、淡いアイボリーのワンピースだった。
そもそも、選択肢がほとんどなかった。普段の私服は、侯爵令嬢らしさとは程遠い。動きやすくて、汚れても困らなくて、長く使えるもの。地味で、実用的で、「らしいですね」と言われる服ばかり。
(おめかし用のお洋服なんて……数えるほどしかないもの)
跳ねやすくて言うことを聞かない髪を、今日は時間をかけて梳かし、丁寧に整えた。ほんの少しだけ背伸びをした化粧。控えめな色味だが、それでも鏡の中の自分は、いつもよりずっと“よそ行き”の顔をしていた。
街の中央広場は、秋祭りを控えて活気に満ちていた。
屋台の活気ある呼び声、石畳を叩く馬車の音。そんな賑やかさの中で、彼は――ひときわ異彩を放っていた。
「……目立ってる」
遠目にも一瞬で分かった。
基本的に貴族は街の雑踏には近寄らない。
ロイド・ウィステリアは噴水の縁に腰掛け、悠然とそこにいた。いつものだぼだぼの白衣ではなく、すっきりとした仕立ての上着を纏い、研究道具も持たず。
(……よく見れば、綺麗な顔をしてる)
学園では「変人」というフィルターがかかっているが、冷静に見れば彼は公爵家の嫡男であり、端正な顔立ちは通行人の視線をこれでもかと集めている。
その視線の先に、自分が向かっている。そう意識した瞬間、アイリスの心臓が不規則なリズムを刻み始めた。
――そして。
「……ロイド様」
歩み寄り、声をかける。ロイドは顔を上げ、アイリスを見た瞬間――ほんの一瞬だけ、目を瞬かせた。
「……へえ」
短い相槌。けれど、その視線に評価されたような、深部まで見透かされたような気がして、アイリスは思わず背筋を伸ばした。
「おはようございます。今日は、その……」
「ちょっと待って」
ロイドが軽く手を上げ、言葉を制した。
「その話の前にさ。……その話し方、まだ続ける?」
いつもの飄々とした笑顔。ただ、今日は少しだけ楽しそうで――悪戯を思いついた子どもみたいな色が混じっている。
「敬語」
一瞬、何を指摘されたのか分からなくて、それから、自分の口調を思い出す。
「今日は“学園”でも“公爵家”でもないでしょ」
仕草は軽いのに、視線は外さない。逃げ道を塞ぐわけでもなく、ただ待っている。
「それ、疲れない?」
胸の奥に、ぐさりと刺さる。疲れている。正直、敬語や硬い言葉を選び続けるのは、昔から苦手だった。
「で、でも……ロイド様は、公爵家で……私は、侯爵家で……」
必死に理由を並べる。身分、立場、常識。いつもなら、ここで話は終わるはずなのに。
「身分とか、世間体とか、そんな細かいこと」
ロイドは、途中で遮った。声が、少し低くなる。
「僕が気にしないって、知ってるよね?」
ロイドが一歩、近づいた。近い。呼吸が届くほどの距離。逃げ場を塞ぐわけではないのに、その柔らかな威圧感に足が竦む。
「それに」
囁くみたいな声で、追い打ちが来る。
「今日は――デートなんでしょ?」
その一言で、アイリスの思考は完全にショートした。改めて口にされると、その言葉の破壊力は想像を絶していた。心臓がうるさい。
「ほら、名前を呼んで。『ロイド様』じゃなくて……『ロイド』って」
ロイドは、期待通りの反応を楽しむように目を細めている。アイリスは指先に力を込め、震える声を振り絞った。
「……ロ、ロイド」
「うん。いい子だ」
「な、なんですかそれ!」
「ご褒美」
さらっと返され、完全に調子を狂わされる。
二つしか年が違わないはずなのに、この底知れない余裕。距離の詰め方も、引き際も、すべてが計算されているようでいて自然。
(これが……大人の余裕、なの……!?)
ロイドは満足げに背を向け、歩き出した。
「じゃあ、行こっか。まずは散歩から。――今日は、長いよ」
何気ないはずのその言葉が、なぜかやけに意味深に響いた。通りは秋祭りの準備で混雑しており、少し油断すると人波に押されそうになる。
「結構、人が多いわね……」
前の人を避けようとして、ロイドとの距離が不意に縮まる。肩が触れそうな距離。意識した瞬間、余計に足取りがおかしくなる。そんなアイリスの様子を察したのか、ロイドがふと足を止めた。
「ねえ。手、引く?」
「……は?」
頭が、追いつかない。雑踏の音が、少し遠くなる。自分の鼓動だけが、妙に大きく聞こえた。
「迷子になりそうだし、転んだら危ないでしょ」
理由はもっとも。態度はいつも通り。だが、差し出されたその手――細く、長く、美しい指が、アイリスの視線を釘付けにした。
(て、手)
(ひ、引くって……)
細くて、指が長い。何かを掴むためじゃなく、ただ“そこに出された”手。何でもない仕草のはずなのに。
(ちょっと待って)
(これは、デートだから?)
(それとも、人混みだから?)
考えれば考えるほど、思考が絡まる。断る理由を探す。でも、うまく見つからない。手を引くくらい、普通なのに。学園でも、困った時は何度も引っ張られてきた。
――なのに、今は。
ロイドは急かさない。視線も、態度も、何一つ変えない。ただ、手を差し出したまま、穏やかに待っている。
「無理なら、いいけど」
そう言われると、余計に逃げ場がない。
(……ずるい)
深呼吸する。胸の奥を落ち着かせるみたいに。
「……は、離さないでくださいね」
精一杯の強がりを絞り出すと、ロイドの眉が面白そうに上がった。
重なる手。指先から伝わる体温は、想像していたよりもずっと温かい。指先を軽く絡めるような、逃げ場を塞ぐほどではないのに、ほどける気もしない触れ方。
(……あ、無理。これ、死んじゃう)
心臓が完全に仕事を放棄した。雑踏の音も、屋台の匂いも、すべてが遠い膜の向こうへ追いやられた。意識できるのは、繋がれた手の感触と、隣を歩くロイドの微かな気配だけ。
「ほら、行こ」
耳元に落ちた低い声。アイリスは大パニックを起こしながらも、引かれる手に身を任せて歩き続けた。
(……神様)
(これ、デートっていうか――)
(事件では?)
秋の街はまだ始まったばかり。
なのに、彼女はもう、彼という名の深い沼から逃げ場を失っていることに、まだ気づいていなかった。
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