商い幼女と猫侍

和紗かをる

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第十章「いぬさんのたたかい 陸」

いぬさんのたたかい 陸  終章にかえて

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 終章にかえて・・・。

 ふたみと分かれた正嗣。
一緒についてくるのは松原と土方と、新撰組の男たち。
さらには鶯の三季の手下から有志がぽつぽつ。最後にミツキとそれに従う二十の犬たちだった。
 一路、内裏を目指し、山科から蹴上に入る頃、隘路をうまく活用した長州兵が検問を行っているのが見えた。
相手の数は、五十近く。こちらの半分程度ではあるが、大砲を三門も装備した部隊で、服を見る限り汚れが見えないので、鳥羽でも伏見でも戦っていないと見える。つまり疲労の少ない部隊と言うことだ。
「正嗣殿、ここは俺らに任せてくれっ」
 鶯の三季の手下、十数人が薩摩砲兵隊から奪った洋装と旗を立てて、長州兵へ堂々と直進する。やや切羽詰った感を出すため、みな駆け足だ。
「どけどけ、伏見が抜かれ幕府軍が内裏を急襲するぞ、このような所にぼさっとしておるでない、長州っは間抜けばかりかっ、阿呆の様に突っ立って仕事をしているつもりかっ」
 元は山賊と見まごう男達が、汚れ擦り切れた洋装の上、鬼気迫る形相で迫る。その迫力は戦場で出会ったら、まずは逃げ場を探したくなるくらいだ。
 旗と洋装で味方と判断した長州兵は、一喝されてばらばらと動き出し、検問としておいてあった柵を、もったりとした動きで、どかし始める。
「有志の博徒が力を貸すとのこと、その方らも惚けずに即内裏の蛤御門へ向かうべしっ、いつぞやの吉例信じて会津が突っ込んでくるぞ」
 蛤御門の変では、会津と薩摩が組んで突っ込んでくる長州兵を撃退した。その事を知らぬ長州兵はいない。
 偽装した鶯の三季の手下に続き、新撰組の面々もばれぬ様に鉢金を外し、偽りの薩摩兵の後に続く。
長州兵の数名が違和感のある顔をしていたが、戦場帰りの雰囲気を維持しつつ一気に駆け抜けた為、誰も誰何されない。こちらの主力は新撰組であり、京で長州とは散々殺しあっている。顔を知っている者もいたかもしれないが、戦場に出た者とそうでない、ただ検問をしていただけの差で、怯えから声をかけられなかったのだろう。
「うまくいきましたな」
 先ほどの博徒と松原が笑顔で肩を叩く。
背後の長州兵はもう見えない位置だ。
「われらはどこの門へ向かうのだ」
 土方が聞いてくる。
ここまで来たら後は内裏内部に突入するのみだが、内裏は門が多い。防御の固い門に攻めかかる人数はいないのだ。
 わんわ~ん。
 ミツキだけでなく、すべての犬が一斉に吼え始め、ミツキを先頭に走り出す。
「こっちか!」
 今出川通りから、通り沿いの今出川門に突き進む犬たち。
門を守る数名の薩摩兵が異変を感じて犬たちを見つけるが、咄嗟にどう反応していいか判らず躊躇しているうちに犬たちに制圧され、おっとり刀で後に続く新撰組に武装解除された。
 今出川門から内裏内部を目指して猿が辻を進み、その先にある朔平門に向かう。
内裏の内部に薩摩兵の姿が見えない。内裏の防備は各門を守る事に集中し、中に配置する兵力はないのだろうか。さらに言えば敵は南から来ると考えており、堺町御門や寺町御門、蛤御門に兵力を厚く配置していたと思われる。
 この時、正嗣たちは知らなかったが、余剰の薩摩兵は親王宮の閲兵を受けるために、蛤御門前に並んでいた。錦の御旗を賜った宮様が薩摩兵を直卒して、薩摩本営の東寺に入る為だ。
「誰も居ないな、罠じゃないか?」
 この門を越えたら、後は内裏中心部まで遮る門はないのに、見張りの姿はなかった。いかに人員不足とは言え、外側の門だけ守って内側の門を守らないというのはおかしすぎる。土方が罠を疑うのも当然だ。
「やれやれ、麿の策略もうまくいったであろう」
 朔平門の内側から、桐の箱を持った鷹司がスズランを連れて現れた。
「これは、いったいどういう?」
 突然現れた公家に土方が警戒する。土方と鷹司は初対面であったかと、正嗣は間に入り、鷹司に説明を要求する。
「なに、簡単なことでの、堺町御門が破られそうだから、お主らも逃げたが良いと伝えたまででの、そうしたら奴等逃げるどころか血相変えて堺町御門へ走っていったわ、仲間思いの良き人々よの」
 本当にこの人は・・・。
 息を吐くように嘘をついて、人を操るすべに長けている。堺町御門が危ないので救援を、と言えば、そんな事をなぜ公家が知っている?なにか企んでいないか?となるが、逃げろと言うならば、公家が真っ先に逃げるのはありそうな事と思われ、本当に堺町御門が危ないのではと思考を誘導することが出来る。平時であれば通じるか通じないか、微妙な嘘だが、鳥羽伏見で戦を行っている今なら神経過敏になっている武士を右往左往させることも出来ると言う訳だ。
「それよりもじゃ、これを持って行くが良いぞ、麿が、いやさこの犬殿が努力して、盗んで、いやいや借りてきたものぞ、有効に使えば面白いことになるでの」
 鷹司が差し出した桐の箱を開けてみると、中にはなにやらとても豪華そうな布が収められている。手触りは滑らかで、それでいて強い糸で編まれているのが判る。
「まさかっ、鷹司卿、これは錦の御旗では」
 震える手で土方が、正嗣から桐の箱を奪うような勢いで手に取り、中身を検分する。
 それに対してにんまりと微笑んで、鷹司がうなづいた。
「よしっ渡会氏、松原、これで一気に変えられるぞ!」
 土方の号令一下、百名の男たちが動き出す。
 朔平門から内裏に侵入する隊士と有志の博徒たち。慌てふためき、おろおろとして意味不明な行動をする公家達を尻目に内裏内部の占領は進んだ。わずかに公家を守ろうとする北面の武士も居たが、経験の差でろくに刀を振ることも出来ずに取り押さえられてしまう。
「公家様方には手をだすなっ、武家は逆らわなければ捕縛して集めておけっ岩倉だけは此度の裏の話を歌ってもらわねばならぬ、必ず捕らえよ」。
 その後、内裏内部を占領した土方は、仲間の公家に裏切られ、隠れ潜む場所を密告された岩倉を捕らえた。
岩倉は命を助けることと引き換えに、孝明帝の暗殺、将軍徳川家茂の毒による暗殺等を次々と話した。土方はその証言を得ると、即座に中山卿と直談判、様々な譲歩や条件を飲ませる事に成功。
また松原は土方の指令にて、蛤御門に集結していた薩摩兵に見えるように、錦の御旗を見せ付けた。
当初薩摩兵はそれが何か気づかなかったが、指揮官としてその場を纏めていた西郷吉之助が気づき、戦闘しようとする兵を抑えた。
 錦の御旗に銃を撃てば、賊軍になるのは幕府軍ではなく自分たちとなってしまう。それを戦場ではなく、内裏で行えば隠しおおせる筈もなく、明らかな帝に対する謀反となってしまう。
「引けっ、引けぇっ」
 すばやく退却を判断した西郷吉之助は、内裏警備の兵、三百を纏めると、そのまま留まることなく、長州に事情を説明することもなく、山崎方面へ退いた。
 次の日、鳥羽方面の薩摩兵も西郷吉之助の部隊に合流。そこから薩摩は武力闘争を停止し、内裏と交渉を始めた。
 内裏の警護はそのまま新撰組が行っており、首をかしげながら恐る恐る進んできた会津兵に警護の引き継ぎをおこなった。自分たちは無主の城となった二条城に屯所を構え大阪の近藤たちを呼び寄せる。
 そんな中、全体の指揮をするべき徳川将軍は前日に、大阪から江戸に海路向かっており、その事にその場にいた全員が憤慨したのは、言うまでもない。
 結局、内裏側の代表として中山卿、幕府側代表として、逃げようとする徳川慶喜公を諌め切れず、逃げる船から追い出された会津の松平容保が参加、薩摩との和睦が決定された。
ほぼ薩摩が全面降伏した形での、和睦だった。
 その他に決定したことは、徳川だけでなく全武家の段階的納地が決定、新政府の樹立を会津藩、薩摩藩を中心として、再度公武合体の形で進めること、さらに長州藩は賊軍として改易となった。高杉晋作も既に病でなくなり、実質的な指導者である桂小五郎も、京撤退の際に山崎で薩摩兵に捕らえられ、大阪の牢に入れられている状態では、さすがに長州も粘れずに改易を受け入れた。周囲が納地を行っている中で自らの藩のみが日本から外れて行くのでは、と恐怖もあっただろう。
 徳川慶喜は薩摩藩だけでなく、会津、彦根、土佐、津、久居、淀などの在京諸藩、そのほか多くの親藩から見限られ、ゆっくりと歴史の舞台から消えていくことになる。
困窮した幕臣たちは、内裏の武士として再雇用され、命脈を保つ事となる。一方新撰組は屯所を開いた二条城をそのまま与えられ、内裏護衛の近衛教導隊として、威勢を歴史書に記すことになる。
 そんな激動の動きの中、正嗣は久居に帰り、静かな毎日を送ることになる。幕末の英雄である新撰組に助力した事などおくびにも出さず、世に出ることなく動物とともに・・・。



 明るい日差しの中、猫が二匹でふかふかに干されたばかりの布団の上で、のんびりと寝ている。縁側には犬たちが一列縦隊では走れないため三列になって、ぶつからないようにしながら、やっぱり走っている。
 鶏小屋も変わらずにそこにあり、天丸と地丸の子供たちが増え、ひがな一日闘鶏の真似事の様な遊びに興じている。
 その他に、以前はなかった猪用の柵があり、中では大きな猪が数頭惰眠を貪り、長閑な空気を醸し出す。
「まったく、ここは変わらねぇな」
 伊増は周囲を見てそう思う。
世の中は日進月歩で変わり始めており、いまや藩という物も武士という身分もなくなって久しいが、この屋敷だけは時に忘れられたかの様に変わらず長閑だ。
「だねぇ、まったくふたみはこんな長閑なところで、ぼんやりとしてるんじゃないだろうね」
「ええじゃないですか、ふたみの嬢さんも。いままでが頑張り過ぎだったんですから、少しは長閑に暮らしても罰はあたりませんぜ」
 ふたみの姉貴分である三季が久居に訪れたので、ふたみ庵、庵主代行として伊増がここに案内したわけだ。
ふたみと正嗣の二人が、鷹司卿を仲人として所帯を持ったのは半年前。
なにやら、ふたみが鷹司卿との約束で仲人になってもらったとの事だ。
最初正嗣は、このような齢の離れた男よりも良い相手がいるだろう、と主張していたが、仲人を事前に請け負っていた鷹司卿に説得され、承諾したそうな。
知り合いのみの披露宴ではでれでれとしていたので、断ったのは建前だろうと伊増は思っている。
参列者の中には、鳥羽での戦闘で片腕を失った継乃介も参列していた。今は近衛教導新撰組の隊長として、日本を守る仕事についている。妻帯はしていないようだが、片手を失った事により凄みが増し、浮名を流しているとかないとか。江戸の伊庭、京の藤堂というある種の趣味人向けの読物が出るのは一年後となる。
「さて、どちらにいらっしゃいますかね?」
 動物ばかりで、人の姿が見えない。人より動物のほうが圧倒的に多いので仕方がないが。
「お、おいっあそこ」
 屋敷の近くまで来た所で三季が部屋の一角を指差す。その先にはすやすやとくっついて眠るふたみと正嗣の姿があった。
「仲良しで良いことですな」
 起こさないように小さな声で言ったつもりだったが、気配に気づいた猫がふっとこちらに顔を向け、にゃあと一声鳴いた。
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