遥かな星のアドルフ

和紗かをる

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第1章「アドルフという名の少女」

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そのきっかけは彼女が住むミュンヘンから北方に百キロもすすんだ場所にある施設。大理石を加工し重厚な造りのそれは、その建物を支配する存在を象徴して、伏魔殿とも呼ばれていたし、最高級の頭脳、だけの住処とも呼ばれていた。
 ドイツが失われた歴史の中から発掘し、実際に運用した初めての施設。それがドイツ連邦中央参謀本部だった。
 首都ベルリンから若干離れた場所に建設されたところから見ても、当初のドイツ連邦はこの参謀本部の使い方が分からなかったのだと思われる。
 ただ、発掘された古い貴重な財産だと思ったものを、内容はさして吟味せずに、とりあえず造ってみたというのが正しい。
 普通の神経を持つ役人が居れば、そんな建設計画も、予算も認可されるはずが無いのだが、生憎とこの参謀本部を設立した時のドイツ連邦は東にポーランド合衆国、西にフランス大帝国、イスパニア列強国、スコットランド中央集権国家に囲まれて戦争勃発秒読み段階にあった。
 そんな緊張状態の中で、ドイツ連邦が発掘した過去の財産である参謀本部というシステムは、どうやら戦争に必須の物で、勝利を得る為に設置するのが当然のものであるらしかった。
 周囲を強国に囲まれ、味方はいつ裏切ってもおかしくないジェノバ連合と、過去の栄光はあれど、もはや古き巨木でしかないハプスブルグ大皇国のみ。
 ドイツ連邦政府内でも、今、戦争になれば勝つ事が出来ないと言う予測は当然としてあった。
それでも戦端が開かれてしまえば戦わざる得ない。
既に回避する為の全ての策はことごとく不調に終わり、後は先制攻撃をどちらが仕掛けるか?そんな情勢下で、ドイツ中央参謀本部は軍トップであったレーム将軍とヒンデンブル大統領の音頭で設立した。
 初代参謀総長は、猛禽種のヘルムート・ビットリア・モルトケ中将。
 彼の指導の下、参謀本部は活動を開始、戦争指導へと突入して行ったのだが、すぐにそれが失敗だったと軍部も大統領府も気付いてしまった。
 まず、参謀本部と現場の指揮官、それに大戦略を考案する大統領府の意見が概ねバラバラ。これが二者間の問題であれば、どちらかが妥協したり、逆提案したりして、解決策を模索するのだが、現場、参謀本部、大統領府の三者間になってしまった為、決まる物も決まらず、良く言えば戦機を逸してしまう結果を多数生んだ。
それを、忖度なく正確に表現するために悪く言えば、大敗北を喫したと言う事になる、。
 更に参謀の権限と言うものが、明確に規定できていない段階で動き出してしまった為に、現場の指揮官と参謀との間で対立が生じ、ある激戦区では、徹底抗戦を唱える参謀の行方不明が相次いだりと、当初、勝てないにしても負けない戦争をするための切り札として導入した参謀本部が敗因となっていった。
 そこで唯一の名判断として歴史に残る当時の参謀総長モルトケは、一切の責任を取り、参謀本部総長を辞職、後任に彼の後輩に当たり、実際の参謀本部運営を外から観察していたカモノハシ種のシュタット・ルーデンドルフ中将に席を譲る。
 既に敗色濃厚で、もはやドイツ連邦は地図の上から抹消されようとしていた状況下で、参謀本部総長を引き受けたルーデンドルフ中将は、すぐに大統領府を動かし西側諸国、特に自国が島国である為に、ドイツに対して領土的野心の殆ど無いスコットランド中央集権国家、王党派と軍部の対立から、内乱勃発の噂が耐えないイスパニア列強国との和平工作を開始。西側諸国に油断を、ドイツ連邦には金よりも貴重な時間を稼ぎ出した。
 イスパニア列強国とスコットランド中央集権国家の両国が、戦後の世界状況を推察して和平交渉に応じたおかげで、他の西側諸国、フランス大帝国やベルギー公国、サンマリアフロレンス王国などは背後を気にして動けなくなった。
 対して東側はポーランド合衆国、ロシア=モスクワ二重帝国、ハンガリー同盟がドイツ連邦首都へと迫っていた。
 その中で特にポーランド合衆国が最大戦力で七万の兵力を展開し、一路ワルシャワからベルリンへと行軍を開始していた。
 ルーデンドルフ中将は東側諸国の軍事バランスの悪さ、当時ロシア=モスクワ二重帝国は東方でもう一つの戦争、大規模なクリーチャーの群れとの戦いを抱えており、参加した兵は僅か三千人だった。
ハンガリー同盟は三万の兵力があったが、ワルシャワにつくなり、ポーランド軍に圧迫され、ベルリンへ向かう主街道ではなく、ザルツブルグへ向かう脇街道を進んでいる。その行軍速度はひどくゆっくりとしたもので、戦意があるとはとても思えない。
 おそらく、七万の兵力を集めたポーランド合衆国は、自らの勝利のパイの分け前が減るのを気にして、兵力を分散したのだろう。
 そこを、中将は攻撃の主眼とした。
 当時のドイツの最大兵力は約二十万。その内の十七万までが西側の戦線に貼り付けられており、東側に存在するのは僅かに三万程度。
 その情報を持っていたポーランド合衆国は、七万の兵力を持つ自国の勝ちを信じて疑がっていなかった。
 それが、ルーデンドルフが流した謀略情報であることも気付かずに。
 しかしある意味、ここでルーデンドルフがポーランド側に流した情報は正しい。確かにポーランド軍がワルシャワを出発した時の兵力配置は情報どおりで、東側、タンネンベルグ高原に配置されていたのは三万の兵力だった。
 しかし、戦場についたポーランド軍は、自分たちが包囲されていることに気付く事となる。
 正面には情報どおりに配置された三万のドイツ軍、右翼には西側に配置されていたが、急遽鉄道の集中輸送で移動させられた、四万の再配置されていた軍。
 この軍はとにかく緊急輸送であった為、表面上は軍であったが、大砲もなければ、当時の新発明であった機関銃も、手榴弾も騎兵が乗る馬も、補給物資を運ぶ馬匹でさえも無く僅かに全兵士が装備していたのは小銃だけだったと、この戦闘に参加した歩兵大隊長の言葉もあるくらいだった。
 そして左翼には、ポーランド合衆国に裏切りを約束していながら、最終的に裏切らなかったジェノバ連合と、数は多いが近代的装備は殆ど無いハプスブルグ大皇国の古めかしい軍隊合わせて五万。
 七万のポーランド軍は、総勢十二万の半方位陣形の敵と戦う事になった。
 もしまだこの七万の指揮官が優秀だったら、半方位の一角、とくに装備劣悪なハプスブルグ大皇国軍や、急遽輸送された西側担当軍を破り、ポーランド合衆国の思惑でザルツブルグに向かわされ、戦意は全くないが数だけはいるハンガリー同盟と合流、西側から長い間兵力を引き抜いていられない筈のドイツ連邦軍に再戦を挑むという方法もあっただろう。
 しかし、戦場心理として、予測もしなかった事態が目の前で起こった場合、当たり前のことでさえ、人であろうと、人に良く似た動物種であろうと、思考できなくなる。
 この時のポーランド軍の指揮官の脳裏には、進んで戦うか、逃げるかの二者択一しかなかった。本来それでも優秀な部下が居ればかまわないのだが、ポーランド軍の首脳部はこの時、完全に麻痺状態にあり、判断を補佐すべき副官も指揮官同様に、視野狭窄に陥っていた。
 かくして一番装備も士気も良い中央の三万に対して、無謀な突撃を七度行ったポーランド合衆国軍は崩壊。東側諸国の中でハンガリー同盟はドイツ連邦と単独和平、そのまま彼らの軍は、彼らを馬鹿にし、優越感をたっぷり持ったまま敗北した国、ポーランド合衆国へと向けられた。
 東側の脅威を払拭したルーデンドルフは中将から大将に昇進、今度は西側で勝利を収めるべく策動し始めたが、なんてことは無い。
 東側での勝利を大事にしたい大統領府が、偽装工作の一環として行っていた和平工作を受諾してしまった。
 偽装工作であるから、勿論条件は西側諸国有利に設定されており、相手を交渉の席に引きずり出しやすいように、ほぼドイツが降伏するような意味合いも和平案には記載されていた。
 東側の勝利を持ってその内容を覆せると踏んだ大統領府は、まず条件交渉は後日として、和平を発布してしまった。
 その後の話は、ドイツ連邦に住む人類種と動物種の誰もが知っている。
 ヴェルサイユ条約の締結。
 莫大な戦後賠償が、負けていないドイツ連邦にのしかかることになる。
 参謀本部総長であったルーデンドルフ大将は条約締結と同時に引退、その後にポーランド国籍の狼種の暴漢達に嬲り殺される事となった。
 ルーデンドルフ大将は、この時世界でも珍しい同族種の希少なカモノハシ種の大将であり、その事が差別意識を持つ動物種から怨まれたのではないかとの憶測が流れた。
 真相は闇の中だが、それがあってもおかしくない風潮は、比較的人種差別が穏やかなドイツ連邦にも存在していた。
 そんな発足して短いながらも、歴史に名を残すドイツ連邦参謀本部が、何故アドルフたち黒い家に関わってくるのかと言うと、単純なミスの繋がりが生んだ偶然からだった。
 この当時の参謀本部の半分はポーランド系ドイツ種が占めており、ルーデンドルフと共に作戦を練った将軍、将校たちは十分の一も残っていなかった。
 残っていればよっぽど注意しても無実の罪で投獄されて死刑。反抗すれば暗殺と言う状況下、参謀本部に優秀な人材は残れなかった。
 おかげで書類の整理はおざなり、黒い家が連邦出資の孤児院であると記載されていたはずの書類が、いつの間にか、黒い家なんていう厳しい名前からの想像で勝手に、ドイツ連邦の若年エリート兵養成機関であろうと思い込んだ、ポーランド系ドイツ種の狸兵によって、改竄されてしまっていた。
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