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3章(4)
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カイリエンの瞳が揺れ動く。本能と理性の狭間で、メルフェリーゼを抱いたまま、微動だにしない。
メルフェリーゼは、自分の発言を後悔することはなかった。つい先ほどまで、自分はバルコニーから身を投げて死ぬつもりでいたのだ。アウストルとの仲は、もうどうにもならない。どんなに願っても、彼がメルフェリーゼを求め、世継ぎを望むことはない。
ならばいっそ、カイリエンの腕に抱かれて、夫がいながら男を誘惑した悪女として弾劾されるほうがマシだった。アウストルがメルフェリーゼを拒む、明確な理由が欲しかった。
王子であるアウストルは愛人を囲おうが、第二夫人を娶ろうが自由である。すべては王族の血を絶やさぬため、王位継承者となる子を産んでもらうため。そういった大義名分のもと、王族の男たちは代々、何人もの女を抱え、孕ませてきた。
しかし一方で、王子妃にその自由は許されていない。王子妃は王子の子以外を産んではならない。たとえ自分の夫が他の女性と肌を重ねていても、見て見ぬふりをしなければならない。そして夫に乞うのだ、あなたの子を産ませてくださいと。
カイリエンは苦しげに息を吐きながら、そっとメルフェリーゼの身体を離した。体温が離れ、急に寂しさを感じる。追いすがったメルフェリーゼの両手を、彼は優しく包んだ。
「メルのことが嫌いだから拒んだわけじゃない。そこは、誤解しないで欲しい」
カイリエンは子どもに言い聞かせるように、言葉を選びながら続ける。
「俺のことを求めてくれるのは嬉しいし、俺も今すぐにでもメルを抱きたいと思ってる。でも、俺たちは順序を間違えるわけにはいかないんだ」
「順序……?」
熱が去った後の真剣な表情で、カイリエンは告げる。
「アウストル王子と、メルの関係を終わらせよう」
「無理よ、そんなの……! 離縁も認められない私が、アウストル様との関係を終わらせるなんて――」
「殺すんだよ」
有無を言わせぬ、厳しい声だった。カイリエンが冗談を言っているようには見えない。彼は真剣に、アウストルの命を奪おうと提案している。言葉の意味が頭の中に染み込んでいくうちに、メルフェリーゼの唇がわなわなと震えた。
「そんな、殺すっ……だなんて」
崩れそうになるメルフェリーゼの身体を支え、カイリエンはベッドにメルフェリーゼを座らせる。カイリエンは彼女の前に膝をつくと、青白い顔を見上げた。
「道がひとつしかないことは、メルにも分かってるだろう? アウストル王子が死ねば、メルは解放されるんだ。俺が、この手であなたを王子から解放してみせる」
カイリエンは以前にも言った。メルフェリーゼのためならば、王子を殺し、国を滅ぼすこともいとわないと。その時から彼は、アウストルを殺すことを考えていたのだろうか。
メルフェリーゼは溢れる涙をこらえるように、固く目をつむった。暗闇の中でアウストルの翡翠色の目が、メルフェリーゼを睨みつけている。思い出すのは冷めた表情と、突き放すような硬質な声。愛情など、一度も感じたことがない。アウストルの目はいつだって、メルフェリーゼを見下していた。
メルフェリーゼは目を開いて、まっすぐカイリエンを見据える。決意の宿った彼女の目に、カイリエンは一瞬だけ狼狽を見せた。
「殺すなら、私がやるわ。私がやらなきゃ、私は私のことを許せないから」
はっきりと、メルフェリーゼは宣言する。カイリエンに頼って、彼に夫を始末してもらって、二人で逃げようだなんてメルフェリーゼは思っていない。カイリエンはツリシャ王国の近衛兵だ。ユルハ王国の王子を前に、その命は綿毛よりも軽い。もしアウストルに手を下そうとしたことが露見したら、きっと彼は問答無用で首を落とされるだろう。
たとえアウストルを排したとしても、カイリエンが生きていなければ意味がない。カイリエンが生きてユルハを出るためには、メルフェリーゼがアウストルを殺すのが最善だと思われた。もし誰かに見つかっても、城から追い出されるなら本望。処刑されても文句はない。元々、死のうとしていた身なのだから。メルフェリーゼは遥かに、カイリエンより失うものが少なかった。
「それでも俺がやるって言ったら?」
「ツリシャに帰る日まで、地下牢に閉じ込めるわ。私だって、腐っても王族だもの。近衛兵の一人くらい、どうってことないのよ?」
つたない脅しだったが、カイリエンは覚悟を決めたように息を吐いた。メルフェリーゼの手を離し、部屋の隅に置かれた引き出しへ歩み寄って取っ手に手をかける。
ぎい、と音がして引き出しが開けられた。カイリエンは慎重な手つきで引き出しの中を漁り、ほんのり青色に見える小瓶を持って戻ってくる。
カイリエンはメルフェリーゼの前に跪くと、その青い小瓶をメルフェリーゼの手の中に落とした。
「これは?」
メルフェリーゼは綺麗な青色をした小瓶を光にかざす。なみなみと入った液体が、瓶の中で揺れ動くのが見えた。
「たった二滴で、大の男を死に至らしめるものだ」
「毒、なのね……?」
「ああ、取り扱いには気をつけてくれ。メルの小さな身体なら、一滴でも死にかねない」
「失礼ね! これでも二十歳なのよ?」
カイリエンはメルフェリーゼの手から小瓶を取り上げると、両腕でメルフェリーゼを抱きすくめた。カイリエンのがっしりとした大きな身体に比べると、メルフェリーゼの身体は小さく、華奢だ。カイリエンの腕にすっぽりと収まってしまう。
彼はメルフェリーゼの首筋に顔を埋めると、ちゅっと吸いついた。メルフェリーゼの細い肩が震える。慈しむように、カイリエンはメルフェリーゼの首筋に、頬に、まぶたに、次々とキスを落とす。
メルフェリーゼはカイリエンの背中に腕を回すと、ぎゅっとシャツを握りしめた。
「ねぇ、カイ」
メルフェリーゼに名前を呼ばれて、カイリエンが顔を上げる。
「私が人殺しになっても、愛してくれる?」
カイリエンがメルフェリーゼの頭を撫で、喉の奥で笑う。
「人殺しでも化け物でもなんだっていいさ。俺はメルフェリーゼ、あなたが欲しいのだから」
メルフェリーゼは、自分の発言を後悔することはなかった。つい先ほどまで、自分はバルコニーから身を投げて死ぬつもりでいたのだ。アウストルとの仲は、もうどうにもならない。どんなに願っても、彼がメルフェリーゼを求め、世継ぎを望むことはない。
ならばいっそ、カイリエンの腕に抱かれて、夫がいながら男を誘惑した悪女として弾劾されるほうがマシだった。アウストルがメルフェリーゼを拒む、明確な理由が欲しかった。
王子であるアウストルは愛人を囲おうが、第二夫人を娶ろうが自由である。すべては王族の血を絶やさぬため、王位継承者となる子を産んでもらうため。そういった大義名分のもと、王族の男たちは代々、何人もの女を抱え、孕ませてきた。
しかし一方で、王子妃にその自由は許されていない。王子妃は王子の子以外を産んではならない。たとえ自分の夫が他の女性と肌を重ねていても、見て見ぬふりをしなければならない。そして夫に乞うのだ、あなたの子を産ませてくださいと。
カイリエンは苦しげに息を吐きながら、そっとメルフェリーゼの身体を離した。体温が離れ、急に寂しさを感じる。追いすがったメルフェリーゼの両手を、彼は優しく包んだ。
「メルのことが嫌いだから拒んだわけじゃない。そこは、誤解しないで欲しい」
カイリエンは子どもに言い聞かせるように、言葉を選びながら続ける。
「俺のことを求めてくれるのは嬉しいし、俺も今すぐにでもメルを抱きたいと思ってる。でも、俺たちは順序を間違えるわけにはいかないんだ」
「順序……?」
熱が去った後の真剣な表情で、カイリエンは告げる。
「アウストル王子と、メルの関係を終わらせよう」
「無理よ、そんなの……! 離縁も認められない私が、アウストル様との関係を終わらせるなんて――」
「殺すんだよ」
有無を言わせぬ、厳しい声だった。カイリエンが冗談を言っているようには見えない。彼は真剣に、アウストルの命を奪おうと提案している。言葉の意味が頭の中に染み込んでいくうちに、メルフェリーゼの唇がわなわなと震えた。
「そんな、殺すっ……だなんて」
崩れそうになるメルフェリーゼの身体を支え、カイリエンはベッドにメルフェリーゼを座らせる。カイリエンは彼女の前に膝をつくと、青白い顔を見上げた。
「道がひとつしかないことは、メルにも分かってるだろう? アウストル王子が死ねば、メルは解放されるんだ。俺が、この手であなたを王子から解放してみせる」
カイリエンは以前にも言った。メルフェリーゼのためならば、王子を殺し、国を滅ぼすこともいとわないと。その時から彼は、アウストルを殺すことを考えていたのだろうか。
メルフェリーゼは溢れる涙をこらえるように、固く目をつむった。暗闇の中でアウストルの翡翠色の目が、メルフェリーゼを睨みつけている。思い出すのは冷めた表情と、突き放すような硬質な声。愛情など、一度も感じたことがない。アウストルの目はいつだって、メルフェリーゼを見下していた。
メルフェリーゼは目を開いて、まっすぐカイリエンを見据える。決意の宿った彼女の目に、カイリエンは一瞬だけ狼狽を見せた。
「殺すなら、私がやるわ。私がやらなきゃ、私は私のことを許せないから」
はっきりと、メルフェリーゼは宣言する。カイリエンに頼って、彼に夫を始末してもらって、二人で逃げようだなんてメルフェリーゼは思っていない。カイリエンはツリシャ王国の近衛兵だ。ユルハ王国の王子を前に、その命は綿毛よりも軽い。もしアウストルに手を下そうとしたことが露見したら、きっと彼は問答無用で首を落とされるだろう。
たとえアウストルを排したとしても、カイリエンが生きていなければ意味がない。カイリエンが生きてユルハを出るためには、メルフェリーゼがアウストルを殺すのが最善だと思われた。もし誰かに見つかっても、城から追い出されるなら本望。処刑されても文句はない。元々、死のうとしていた身なのだから。メルフェリーゼは遥かに、カイリエンより失うものが少なかった。
「それでも俺がやるって言ったら?」
「ツリシャに帰る日まで、地下牢に閉じ込めるわ。私だって、腐っても王族だもの。近衛兵の一人くらい、どうってことないのよ?」
つたない脅しだったが、カイリエンは覚悟を決めたように息を吐いた。メルフェリーゼの手を離し、部屋の隅に置かれた引き出しへ歩み寄って取っ手に手をかける。
ぎい、と音がして引き出しが開けられた。カイリエンは慎重な手つきで引き出しの中を漁り、ほんのり青色に見える小瓶を持って戻ってくる。
カイリエンはメルフェリーゼの前に跪くと、その青い小瓶をメルフェリーゼの手の中に落とした。
「これは?」
メルフェリーゼは綺麗な青色をした小瓶を光にかざす。なみなみと入った液体が、瓶の中で揺れ動くのが見えた。
「たった二滴で、大の男を死に至らしめるものだ」
「毒、なのね……?」
「ああ、取り扱いには気をつけてくれ。メルの小さな身体なら、一滴でも死にかねない」
「失礼ね! これでも二十歳なのよ?」
カイリエンはメルフェリーゼの手から小瓶を取り上げると、両腕でメルフェリーゼを抱きすくめた。カイリエンのがっしりとした大きな身体に比べると、メルフェリーゼの身体は小さく、華奢だ。カイリエンの腕にすっぽりと収まってしまう。
彼はメルフェリーゼの首筋に顔を埋めると、ちゅっと吸いついた。メルフェリーゼの細い肩が震える。慈しむように、カイリエンはメルフェリーゼの首筋に、頬に、まぶたに、次々とキスを落とす。
メルフェリーゼはカイリエンの背中に腕を回すと、ぎゅっとシャツを握りしめた。
「ねぇ、カイ」
メルフェリーゼに名前を呼ばれて、カイリエンが顔を上げる。
「私が人殺しになっても、愛してくれる?」
カイリエンがメルフェリーゼの頭を撫で、喉の奥で笑う。
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