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3月28日:県警西署
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「こりゃフィクションでしょう」
編集者が差し出した原稿を一瞥した小山内浩二警部は、にべもなくそう言い切った。しかしフィクションだと言い切る小山内とは対照的に、原稿を持ってきた編集者の顔面は血の気が引いている。その顔色は蒼白を通り越して土気色に近い。まるで実際に現場を目撃し、原稿に書かれていることが真実であると確信しているようだ。
「そもそもね、人捜しは刑事課の仕事じゃない」
編集者の唇がぐにゃりと曲がる。
「事件性のある失踪は、刑事課が捜査してくれるんじゃないんですか?」
今度は小山内の唇が曲がる番だった。
「これのどこに事件性が?」
言葉を失う編集者に一切の配慮なく、小山内は続ける。
「いなくなった人、小説家なんでしょ? それに大の大人だ。子どもの家出とはわけが違う。ミステリー小説の原稿を持ってきて事件性があるなんて言われても、こっちだってどうしようもないんですよ」
「でも……でも、おかしいじゃないですか! 自らの罪を告白するような原稿を残して失踪するなんて!」
「そこに書かれていることが現実に起きたことだってんなら、ちゃんと捜査しますよ。全国の小説家が殺人事件の話を書くたびに捜査していたら、警察官が何人いたって足りませんがね」
うなだれる編集者には目もくれず、小山内は席を立った。その手にはすでに、煙草の箱が握られている。
簡易的な応接スペースを出る直前、彼は編集者を振り返った。
「ああ、行方不明届を出すなら生活安全課に行ってください」
義務のように告げて、小山内は衝立の向こうに消えていった。応接スペースに残された編集者は呆然とテーブルの上に投げ出された原稿用紙の束を見つめている。
「あの……」
編集者の肩がびくりと動いた。小山内の隣に座っていた人物に、今まで気づきもしなかったらしい。そんな編集者に苦笑しながら、土屋優巡査部長は「まだお名前すら伺っていませんでした」と切り出した。
編集者が居住まいを正し、革製の名刺ケースから一枚を差し出してくれる。
「冬間出版の横川と申します」
丁寧な手付きで名刺を受け取る。飾り気のないゴシック体で「冬間出版 横川晃」と記載されている。文芸部門の所属のようだ。優が名刺代わりに自分の名前と所属を名乗ると、横川はさっと顔を曇らせた。
「刑事課では捜してもらえないんですよね?」
優の所属は小山内と同様、刑事課だ。署内の廊下をうろついていた横川を見かねて、昼食帰りの自分が声をかけた。そこにたまたま直属の上司である小山内が居合わせた。そんな流れだ。
優は上司の取り付く島もない態度を詫びながら、なるべく優しく聞こえるように横川に話しかけた。
「もう一度、最初から説明していただけますか? 場合によってはうちで捜査をすることもありますし、刑事課での捜査が無理でも私のほうから生活安全課に繋げますので」
小山内よりは親身になって話を聞いてくれそうだ、と判断したのだろう。横川の肩からふっと力が抜ける。色の悪い顔には、さらに疲労が折り重なって現れている。横川はずれ落ちた眼鏡の位置を直しながら、ぽつぽつと語り出した。
「僕の担当作家に伊国文花さんという方がいまして」
「本名ですか?」
「はい。彼女は大学在学中に新人賞を獲ってデビューした人なんです。そのデビュー作が、それはもうすごい勢いで売れまして。出版不況と言われるこの時代に、六十万部ですから」
出版業界に明るくない、本を読む習慣もない優には六十万部がどれほどすごいことなのかわかりかねるが、ひとまずうなずいて続きを促す。
「それで、昨日は十九時から新作の出版記念イベントに出てもらう予定だったんです。イベントといってもオンラインで、うちの会議室からライブ配信をやることになっていました。伊国さんには、声だけ出演してもらうことに」
「声だけ?」
「デビュー作を出版するにあたって、絶対に顔は出したくないと言っていたんです。自分の顔は、小説を読むうえで必ずノイズになる――要は、自分の顔が嫌いってことだったみたいなんですが」
「失礼ですが……横川さんはどう思ってるんですか? その、伊国さんの容姿について」
優に尋ねられ、横川は否定するように勢いよく手を振った。
「自分で嫌うようなひどい容姿じゃありません! むしろ美人の部類だと言っていいでしょう。彼女は若いし、なにより才能がある。メディアにどんどん顔を出していけば、もっと売れたはずです。若き美人作家が書いた号泣必死の恋愛物語……売れる要素しかないでしょう」
「まあ……そうですね」
小説の売上が、その出来よりも作家の容姿で決まることに些か疑問を覚えつつも、優は些末なことだと飲み下す。それよりも話を進めてもらわないと、いつまで経っても全容が掴めない。
優があまり盛り上がっていないことを見て取った横川が、いくらか落ち着きを取り戻す。
「すみません、話が逸れました。昨日、予定の時間になっても伊国さんは来なかった。当然、イベントは中止しました。こちらから何度連絡しても、一晩経ってもなんの音沙汰もなくて……それで、彼女の住むマンションまで様子を見に行ったんです」
横川が緊張をほぐすように唇を舐める。応接スペースの外がにわかに騒がしくなっている。「死体が――」という響きに意識を引きずられながらも、優は最後まで横川の話をきちんと聞こうと姿勢を正した。
「昨日から連絡が取れないと言うと、管理人の方はすぐに伊国さんの部屋の鍵を開けてくれました」
「鍵はかかっていたんですね?」
「はい。部屋の中も誰かに荒らされたとか、そういう形跡はなかったと思います。伊国さんは部屋にいなくて……閉じたノートパソコンの上に、それが」
横川の指がテーブルの上に置かれた原稿用紙を指す。小山内が鼻で笑ったタイトルが目に入る。
「『作家・伊国文花の功罪』……自分のことを書いた小説ということでしょうか?」
「作家が自分を主人公に書いた小説のことを私小説といいます。その原稿は私小説といっていいと思います」
「全部読んだのですか?」
「ここに来るまでに、ざっと目は通しました」
横川に断りを入れて、原稿を持ち上げる。いくら薄い紙でも枚数が重なれば重量がある。ぱらぱらとめくってみたが、中身はすべて手書きだった。均整の取れた綺麗な字が、原稿用紙のマス目を埋め尽くしている。
話は、伊国文花が浴室で女性の遺体を発見するところからはじまる。そして浴室を訪れた男性に「自分が殺した」と告白する。一見すると、ただのミステリー小説の冒頭部分のようだ。主人公の名前が作家本人であることを除けば、特段気になる点はない。
「横川さんはこの原稿のことも含めて、伊国さんの失踪には事件性があると考えたんですよね?」
横川がうつむいて唇を噛む。膝の上で握り合わせている手がわずかに震えている。葛藤が、彼を支配しているようだった。優は応接スペースの外をさりげなく窺いながら、横川が口を開くのを待った。こういう時はたいてい、相手が話し出すまで待つしかない。
「彼女は――」
横川が震える声で呟いた。
「伊国さんは、本当に、その女性を殺したんだと思います」
なぜ、という問いかけは必要なかった。唇を震わせた横川の身体を支配するのは、圧倒的な恐怖の感情だった。
「その原稿に書かれていることは、僕が彼女から断片的に聞いた話とも合致していました。殺人のシーンだけフィクションだということはありえない……! だって彼女が作家になったのは――」
「土屋! いつまで話してるんだよ!?」
横川の悲鳴にも近い訴えを遮ったのは、煙草を手にして出ていったはずの小山内だった。応接スペースを覗き込んだ彼の表情がぐっと険しくなる。
嫌な予感がした。刑事になってからというもの、自分の直感を当てにしたことはなかった。だいたい当たらずに終わったからだ。しかしこの時は小山内が次になにを言うか、わかりきっていた。そして、自分の直感ははじめて当たった。
「マンションの浴室で女の死体が見つかった」
編集者が差し出した原稿を一瞥した小山内浩二警部は、にべもなくそう言い切った。しかしフィクションだと言い切る小山内とは対照的に、原稿を持ってきた編集者の顔面は血の気が引いている。その顔色は蒼白を通り越して土気色に近い。まるで実際に現場を目撃し、原稿に書かれていることが真実であると確信しているようだ。
「そもそもね、人捜しは刑事課の仕事じゃない」
編集者の唇がぐにゃりと曲がる。
「事件性のある失踪は、刑事課が捜査してくれるんじゃないんですか?」
今度は小山内の唇が曲がる番だった。
「これのどこに事件性が?」
言葉を失う編集者に一切の配慮なく、小山内は続ける。
「いなくなった人、小説家なんでしょ? それに大の大人だ。子どもの家出とはわけが違う。ミステリー小説の原稿を持ってきて事件性があるなんて言われても、こっちだってどうしようもないんですよ」
「でも……でも、おかしいじゃないですか! 自らの罪を告白するような原稿を残して失踪するなんて!」
「そこに書かれていることが現実に起きたことだってんなら、ちゃんと捜査しますよ。全国の小説家が殺人事件の話を書くたびに捜査していたら、警察官が何人いたって足りませんがね」
うなだれる編集者には目もくれず、小山内は席を立った。その手にはすでに、煙草の箱が握られている。
簡易的な応接スペースを出る直前、彼は編集者を振り返った。
「ああ、行方不明届を出すなら生活安全課に行ってください」
義務のように告げて、小山内は衝立の向こうに消えていった。応接スペースに残された編集者は呆然とテーブルの上に投げ出された原稿用紙の束を見つめている。
「あの……」
編集者の肩がびくりと動いた。小山内の隣に座っていた人物に、今まで気づきもしなかったらしい。そんな編集者に苦笑しながら、土屋優巡査部長は「まだお名前すら伺っていませんでした」と切り出した。
編集者が居住まいを正し、革製の名刺ケースから一枚を差し出してくれる。
「冬間出版の横川と申します」
丁寧な手付きで名刺を受け取る。飾り気のないゴシック体で「冬間出版 横川晃」と記載されている。文芸部門の所属のようだ。優が名刺代わりに自分の名前と所属を名乗ると、横川はさっと顔を曇らせた。
「刑事課では捜してもらえないんですよね?」
優の所属は小山内と同様、刑事課だ。署内の廊下をうろついていた横川を見かねて、昼食帰りの自分が声をかけた。そこにたまたま直属の上司である小山内が居合わせた。そんな流れだ。
優は上司の取り付く島もない態度を詫びながら、なるべく優しく聞こえるように横川に話しかけた。
「もう一度、最初から説明していただけますか? 場合によってはうちで捜査をすることもありますし、刑事課での捜査が無理でも私のほうから生活安全課に繋げますので」
小山内よりは親身になって話を聞いてくれそうだ、と判断したのだろう。横川の肩からふっと力が抜ける。色の悪い顔には、さらに疲労が折り重なって現れている。横川はずれ落ちた眼鏡の位置を直しながら、ぽつぽつと語り出した。
「僕の担当作家に伊国文花さんという方がいまして」
「本名ですか?」
「はい。彼女は大学在学中に新人賞を獲ってデビューした人なんです。そのデビュー作が、それはもうすごい勢いで売れまして。出版不況と言われるこの時代に、六十万部ですから」
出版業界に明るくない、本を読む習慣もない優には六十万部がどれほどすごいことなのかわかりかねるが、ひとまずうなずいて続きを促す。
「それで、昨日は十九時から新作の出版記念イベントに出てもらう予定だったんです。イベントといってもオンラインで、うちの会議室からライブ配信をやることになっていました。伊国さんには、声だけ出演してもらうことに」
「声だけ?」
「デビュー作を出版するにあたって、絶対に顔は出したくないと言っていたんです。自分の顔は、小説を読むうえで必ずノイズになる――要は、自分の顔が嫌いってことだったみたいなんですが」
「失礼ですが……横川さんはどう思ってるんですか? その、伊国さんの容姿について」
優に尋ねられ、横川は否定するように勢いよく手を振った。
「自分で嫌うようなひどい容姿じゃありません! むしろ美人の部類だと言っていいでしょう。彼女は若いし、なにより才能がある。メディアにどんどん顔を出していけば、もっと売れたはずです。若き美人作家が書いた号泣必死の恋愛物語……売れる要素しかないでしょう」
「まあ……そうですね」
小説の売上が、その出来よりも作家の容姿で決まることに些か疑問を覚えつつも、優は些末なことだと飲み下す。それよりも話を進めてもらわないと、いつまで経っても全容が掴めない。
優があまり盛り上がっていないことを見て取った横川が、いくらか落ち着きを取り戻す。
「すみません、話が逸れました。昨日、予定の時間になっても伊国さんは来なかった。当然、イベントは中止しました。こちらから何度連絡しても、一晩経ってもなんの音沙汰もなくて……それで、彼女の住むマンションまで様子を見に行ったんです」
横川が緊張をほぐすように唇を舐める。応接スペースの外がにわかに騒がしくなっている。「死体が――」という響きに意識を引きずられながらも、優は最後まで横川の話をきちんと聞こうと姿勢を正した。
「昨日から連絡が取れないと言うと、管理人の方はすぐに伊国さんの部屋の鍵を開けてくれました」
「鍵はかかっていたんですね?」
「はい。部屋の中も誰かに荒らされたとか、そういう形跡はなかったと思います。伊国さんは部屋にいなくて……閉じたノートパソコンの上に、それが」
横川の指がテーブルの上に置かれた原稿用紙を指す。小山内が鼻で笑ったタイトルが目に入る。
「『作家・伊国文花の功罪』……自分のことを書いた小説ということでしょうか?」
「作家が自分を主人公に書いた小説のことを私小説といいます。その原稿は私小説といっていいと思います」
「全部読んだのですか?」
「ここに来るまでに、ざっと目は通しました」
横川に断りを入れて、原稿を持ち上げる。いくら薄い紙でも枚数が重なれば重量がある。ぱらぱらとめくってみたが、中身はすべて手書きだった。均整の取れた綺麗な字が、原稿用紙のマス目を埋め尽くしている。
話は、伊国文花が浴室で女性の遺体を発見するところからはじまる。そして浴室を訪れた男性に「自分が殺した」と告白する。一見すると、ただのミステリー小説の冒頭部分のようだ。主人公の名前が作家本人であることを除けば、特段気になる点はない。
「横川さんはこの原稿のことも含めて、伊国さんの失踪には事件性があると考えたんですよね?」
横川がうつむいて唇を噛む。膝の上で握り合わせている手がわずかに震えている。葛藤が、彼を支配しているようだった。優は応接スペースの外をさりげなく窺いながら、横川が口を開くのを待った。こういう時はたいてい、相手が話し出すまで待つしかない。
「彼女は――」
横川が震える声で呟いた。
「伊国さんは、本当に、その女性を殺したんだと思います」
なぜ、という問いかけは必要なかった。唇を震わせた横川の身体を支配するのは、圧倒的な恐怖の感情だった。
「その原稿に書かれていることは、僕が彼女から断片的に聞いた話とも合致していました。殺人のシーンだけフィクションだということはありえない……! だって彼女が作家になったのは――」
「土屋! いつまで話してるんだよ!?」
横川の悲鳴にも近い訴えを遮ったのは、煙草を手にして出ていったはずの小山内だった。応接スペースを覗き込んだ彼の表情がぐっと険しくなる。
嫌な予感がした。刑事になってからというもの、自分の直感を当てにしたことはなかった。だいたい当たらずに終わったからだ。しかしこの時は小山内が次になにを言うか、わかりきっていた。そして、自分の直感ははじめて当たった。
「マンションの浴室で女の死体が見つかった」
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