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3月28日:変死体発見現場(2)

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 小山内が捕まえたもう一人は、いかにも噂好きそうな中年の女性だった。ちょうど里見結子の部屋の真下に住んでいる人だという。小山内や優が質問するまでもなく、彼女は好き勝手にべらべらと喋り出した。

「里見さん、亡くなったんですって? 何日か前から足音が聞こえなかったから、出張かなにかで家に居ないのかと思ったのよ。でも里見さんって出張があるような職業の人じゃないでしょ? かなり美人な人だったけれど、里見さん自身も整形とかしてたのかしらねえ?」

 異臭騒ぎにも負けずに規制線のそばで野次馬をしていただけのことはある。促さなくても、どんどんと新情報が飛び出してくる。先ほど、現場にいた警察官が話していた情報も大方この中年女性から提供されたものではないだろうか。メモを取るのに必死な優の横で、小山内は相槌とも取れない適当な応答を返している。

「里見さんと面識があるんですか?」
「面識ってほどでもないけど……彼女、引っ越してきた日にわざわざ挨拶に来てくれたのよ。そこで旦那さんの話とかねえ……まあ色々話したっていうか」
「里見さんは旦那さんと別居するために引っ越してきたと、こちらでは伺っているのですが」

 メモを取る優の代わりに、小山内が話を進めてくれる。女性は小山内の厳つい顔面にも物怖じすることなく、喋り続ける。

「なんでも旦那さんの浮気で別居することになったんですって。旦那さんからは離婚したいって言われたけど、里見さん的には別れたくないって感じだったのね? それでひとまず別居して様子を見ようってことになったらしくて」
「その旦那さんの名前、わかりますかね?」
「たしか……一文字で、ええっと……ああ! 『あさひ』よ! 九に日って書くあさひ里見さとみあさひ。里見さんに聞いたんだから間違いないわ」

 里見旭。優は名前をメモ帳に書きつけながら、女性のマシンガントークに必死に食らいつく。プライバシーなどあったものではない。里見結子も、自分の死後に旦那との諍いがべらべらと喋られるなど想像もしていなかっただろう。情報を集める身としては嬉しいことだが、個人的には絶対に付き合いたくないし、近隣に住むことも避けたいタイプの人間だ。彼女に一言漏らせば、それはたちまち秘密ではなくなってしまう。
 まだ話し足りなさそうにしている女性を小山内は片手を挙げて静止した。

「いや、大変参考になりました。ありがとうございます。またなにか思い出したことがあったら署に来てください」

 小山内が逃げるように踵を返す。優も女性にぺこりと頭を下げると、慌てて上司の後を追った。早いところ離脱しないと、彼女は一晩中でも喋っていそうだった。


◇ ◇ ◇


 署に戻ると、会議室の大改造が行われているところだった。どうやら捜査本部が設置されるようである。単なる事故ならいいのだが、と思っていた優の願いは大きく裏切られることになった。

「単に風呂場で溺れたってわけじゃなさそうだな」

 慌ただしく設営が進む会議室を横目で見ながら、小山内がため息を吐く。彼にしては珍しく、その声には疲労の色が滲んでいた。
 刑事課へ戻ってきた優は、ふと応接スペースのテーブルの上に投げ出されていた原稿用紙の束に視線を吸い寄せられた。死体発見の一報を受けて、編集者の横川よこがわとの話は中途半端に終わってしまっていた。原稿用紙の束は横川が置いていったか、置き忘れていったのだろう。
 冒頭の、あのシーン。優は聞き込みで得られた情報を整理することも忘れ、原稿用紙をめくる。浴槽でうつ伏せの状態で発見された女性の遺体。伊国いくに文花ふみかの「私が、殺しました」という告白。ただの偶然だろうか? 原稿を持ち込んだ横川の顔は、異常なまでの恐怖に囚われていた。

 落ち着け。まだ殺しと決まったわけではない。この原稿がノンフィクションである証拠はどこにもないし、第一に里見結子と伊国文花の間にはまだなんの関係も見出せない。たまたま、ふたつの事象が重なって関連がありそうに見えただけだ。
 風呂場で遺体が見つかることだって、そう珍しいことではない。一人暮らしなら風呂場で絶命したまま、誰にも見つけられずに死後数日が経つケースもある。里見結子の年齢を考えれば少し特殊かもしれないが、四十代でも突然死のリスクはある。

「おい、土屋」

 応接スペースでしゃがみ込んでいた優に、小山内が声をかけてくる。優は原稿用紙の束をさっと自身の後ろに隠した。小山内は原稿に書かれていることが、作家の妄想だと断定している。ここで原稿を見ていることが発覚すれば、面倒な小言をいただくことになるかもしれない。

「お前、今日はもう帰れ」
「えっ? まだ定時前ですけど……」

 言いながら、腕時計に目を落とす。まだ午後四時を過ぎた頃。定時の午後五時までは三十分以上ある。

「明日から忙しくなるぞ。帰れるうちに帰っておけよ」

 優は厳しい目つきの小山内の顔を覗き込んだ。小山内の中の勘がなにかを告げているようだ。その目には、はっきりと「これは事故じゃない」と言いたげな光が宿っている。

「なにか、気になることでもあるんですか?」

 優は特に返答を期待せずに聞いた。ただの刑事の勘だろう。小山内のように長年、刑事課にいる人間にはある種の超能力のようなものが備わっている。現場を一目見て、わずかな聞き込みをしただけで事件の臭いを嗅ぎつけるのだ。
 小山内は応接スペースのソファにどっかりと腰を下ろすと、スーツのポケットから煙草を取り出した。

「いや、旦那が臭いと思っただけだ」

 同感だ。もし事件だとするなら、容疑者の候補筆頭は別居中の旦那だろう。刑事課にいると、痴話喧嘩から発展した事件を嫌というほど見る羽目になる。
 しかし、優の心を占めていたのは別居中の旦那よりも、原稿を残して失踪した伊国文花のことだった。原稿に書かれていた殺人シーンと、今回の遺体の発見状況が一致するのは、本当に単なる偶然なのか?
 優は原稿用紙の束を後ろ手に持ったまま、そろそろと立ち上がった。横川が置いていったものだし、家に帰ってからじっくりと読むつもりだった。
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