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【理科準備室】
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理科準備室はかすかにコーヒーと薬品の混ざった香りがした。用途のわからない器具や、茶色の瓶が並ぶ戸棚の間に、理科室に備えられたものと同じ、黒い机が置かれている。先生は後ろ手にドアを閉めると、強張った私の手からビリビリに引き裂かれた大学ノートを取り上げた。
「こういうことは、よくあるんですか?」
先生の声色には「なぜ担任の先生に相談しないのか」と私を責めるような響きがあった。相談なんてするわけがない。したところで、なにも変わらないのだから。
「伊国さんのクラスの担任は――」
「××先生です、英語の」
「ああ……」
苦笑いのような表情を浮かべて「あの先生か」と呟く。××先生は事なかれ主義だ。自分の受け持つクラスでいじめのようなことが起こっていると知れば、黙認するに決まっている。N先生も、そのことに気づいているようだった。
先生に促されて、机のそばに置かれていたパイプ椅子に腰を下ろす。先生は机に寄りかかる形で私の横に立った。気まずい沈黙に包まれる。あんなに話したいことがたくさんあったはずなのに、いざ二人きりになるとまったく言葉が出てこない。膝の上で指を組んでみたり、ローファーの爪先を眺めてみたりして、なるべく先生のことなど意識していないように振る舞おうと躍起になる。そんなことをすればするほど、深みに嵌っていくのに。
「卒業後はどうするんですか」
先生は唐突にそう言った。まるで先生自身も、私との距離を測りかねているような切り出し方だった。
「就職します。うち母子家庭で、大学とか行けそうもないので」
「それは残念ですね」
隣に立つ先生を見上げると、先生も私のほうを見下ろしていた。残念というわりには、表情の変化に乏しい。担任のように私に同情しているわけではなさそうだ。もとより、N先生はイケメンのくせに能面みたいに表情を変えず、なにを考えているかわからないところがあるけれど。
「伊国さんは頭がいいから、てっきり大学に行くんだと思っていたんですが」
「私なんて普通ですよ。ここのレベルが低いから、相対的に頭よさそうに見えているだけです」
「まさか。僕の授業についていけているのは伊国さんくらいですよ」
それは私の頭がいいからじゃない。先生に褒められたくて、認められたくて、予習も復習も怠らないからだ。
中学生までの自分は算数も数学も理科も、理系科目と言われるものはてんでだめだった。中学校の理科のテストで三十点を取ったことがあるくらいだ。それが急に得意科目になったのは、紛れもなくN先生のおかげだった。恋する力って素晴らしい。人の不得意を、無理やり得意に変えてしまうのだから。
理系の大学に行くわけじゃないのに、熱心に化学を勉強したところでなんの得にもならないことはわかっている。それでも私は、N先生を虜にした化学の世界を知りたかった。先生と同じ視点に立って、世界を眺めてみたかった。もっと言えば「妻は理系の人間ではないんですよね」という先生の一言が効いていたのかもしれない。
先生はふいと私から視線を外すと、窓の外を眺めた。冷夏といわれる今年は、エアコンがなくても暑さを感じなかった。開け放った窓から吹き付けてくる風が、先生が着ている白衣の裾を揺らす。
「作家なんてどうでしょう」
「作家、ですか」
「うん。小説家」
先生の手に握られている、破れた大学ノートを見る。あそこには私の妄想の産物が詰め込まれている。パソコンを持っていないから全部手書きだ。先生は、私が小説を書いていることを知っているんだろうか。知っていて、そんなことを言うのだろうか。
「僕は、作家になった伊国さんを見てみたい」
窓の外を眺めていた先生が、ゆっくりと振り返って私を見る。あいかわらず、目の底がまったく笑っていない表情で私を見ている。私にはわかる。きっと、私も同じ目をしているから。他者に期待することをやめた者だけが持つ、死んだ目だ。
私はおもむろに立ち上がった。制服のスカートが風で膨らむ。すこしだけ上にある先生の顔を見上げる。溺れた人間が差し出された救いの手を掴むように、私は先生の首から下がるネクタイを掴んだ。
「私が作家になったら、奥さんと別れてくれますか」
これは告白じゃない。だって、私は先生のことが好きだとは言っていない。
先生は目をすがめて私を見ると、私の手の中からネクタイを引き抜いた。昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
「善処しましょう」
先生は私にしかわからないほど、ほんのすこしだけ微笑んだ。
「こういうことは、よくあるんですか?」
先生の声色には「なぜ担任の先生に相談しないのか」と私を責めるような響きがあった。相談なんてするわけがない。したところで、なにも変わらないのだから。
「伊国さんのクラスの担任は――」
「××先生です、英語の」
「ああ……」
苦笑いのような表情を浮かべて「あの先生か」と呟く。××先生は事なかれ主義だ。自分の受け持つクラスでいじめのようなことが起こっていると知れば、黙認するに決まっている。N先生も、そのことに気づいているようだった。
先生に促されて、机のそばに置かれていたパイプ椅子に腰を下ろす。先生は机に寄りかかる形で私の横に立った。気まずい沈黙に包まれる。あんなに話したいことがたくさんあったはずなのに、いざ二人きりになるとまったく言葉が出てこない。膝の上で指を組んでみたり、ローファーの爪先を眺めてみたりして、なるべく先生のことなど意識していないように振る舞おうと躍起になる。そんなことをすればするほど、深みに嵌っていくのに。
「卒業後はどうするんですか」
先生は唐突にそう言った。まるで先生自身も、私との距離を測りかねているような切り出し方だった。
「就職します。うち母子家庭で、大学とか行けそうもないので」
「それは残念ですね」
隣に立つ先生を見上げると、先生も私のほうを見下ろしていた。残念というわりには、表情の変化に乏しい。担任のように私に同情しているわけではなさそうだ。もとより、N先生はイケメンのくせに能面みたいに表情を変えず、なにを考えているかわからないところがあるけれど。
「伊国さんは頭がいいから、てっきり大学に行くんだと思っていたんですが」
「私なんて普通ですよ。ここのレベルが低いから、相対的に頭よさそうに見えているだけです」
「まさか。僕の授業についていけているのは伊国さんくらいですよ」
それは私の頭がいいからじゃない。先生に褒められたくて、認められたくて、予習も復習も怠らないからだ。
中学生までの自分は算数も数学も理科も、理系科目と言われるものはてんでだめだった。中学校の理科のテストで三十点を取ったことがあるくらいだ。それが急に得意科目になったのは、紛れもなくN先生のおかげだった。恋する力って素晴らしい。人の不得意を、無理やり得意に変えてしまうのだから。
理系の大学に行くわけじゃないのに、熱心に化学を勉強したところでなんの得にもならないことはわかっている。それでも私は、N先生を虜にした化学の世界を知りたかった。先生と同じ視点に立って、世界を眺めてみたかった。もっと言えば「妻は理系の人間ではないんですよね」という先生の一言が効いていたのかもしれない。
先生はふいと私から視線を外すと、窓の外を眺めた。冷夏といわれる今年は、エアコンがなくても暑さを感じなかった。開け放った窓から吹き付けてくる風が、先生が着ている白衣の裾を揺らす。
「作家なんてどうでしょう」
「作家、ですか」
「うん。小説家」
先生の手に握られている、破れた大学ノートを見る。あそこには私の妄想の産物が詰め込まれている。パソコンを持っていないから全部手書きだ。先生は、私が小説を書いていることを知っているんだろうか。知っていて、そんなことを言うのだろうか。
「僕は、作家になった伊国さんを見てみたい」
窓の外を眺めていた先生が、ゆっくりと振り返って私を見る。あいかわらず、目の底がまったく笑っていない表情で私を見ている。私にはわかる。きっと、私も同じ目をしているから。他者に期待することをやめた者だけが持つ、死んだ目だ。
私はおもむろに立ち上がった。制服のスカートが風で膨らむ。すこしだけ上にある先生の顔を見上げる。溺れた人間が差し出された救いの手を掴むように、私は先生の首から下がるネクタイを掴んだ。
「私が作家になったら、奥さんと別れてくれますか」
これは告白じゃない。だって、私は先生のことが好きだとは言っていない。
先生は目をすがめて私を見ると、私の手の中からネクタイを引き抜いた。昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
「善処しましょう」
先生は私にしかわからないほど、ほんのすこしだけ微笑んだ。
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