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4月5日:医薬品会社
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里見旭の勤める会社に来るのは、これで二度目だ。今回も優の隣には小山内が控えている。
前回と同じように、二人はほとんど始業と同時に会議室で旭のことを待っていた。
二度目ともなると、受付の女性もわずかながら事の次第に興味が湧いたようだ。好奇心を隠しきれないような瞳をして、二人がエレベーターに乗り込むのをじっと見ていた。
十分もしないうちに、里見旭は会議室のドアを開いて入ってきた。朝にふさわしい爽やかな笑顔は幾分か固まっているように見えて、優と小山内を見る目にも緊張が滲んでいる。旭は優の向かい側、小山内の右斜め前の席に腰掛けると、ちらりと手首に嵌めた腕時計を見た。
「今日もこれから外回りですか?」
優の問いに旭は首を振る。
「いえ、今日は内勤だけです。上司からも刑事さんたちにはしっかり説明して来いと言われたので、何時間でも付き合いますよ」
優は隣で腕を組んでいる小山内と顔を見合わせた。聞きたいことがたくさんあるのは、小山内のほうだろう。しかし彼はあくまで聞き込みの主導権を優に握らせようとしているらしい。小山内がわずかに顎を引き、頷いたのを見て、優は早速本題に切り込む。
「里見結子さんのマンションを捜索させてもらいました。そこで、まずお聞きしたいのが――」
優は上着の胸ポケットからジッパー付きの小袋に入れられた錠剤シートを取り出す。ベッドサイドのテーブルから見つかった、例の睡眠薬だ。
「こちらの薬を里見結子さんが服用していたことはご存知でしょうか?」
旭が見やすいよう、テーブルのちょうど中心あたりに小袋を置く。彼は袋に触れることはなかったが、視線を落とし、記憶と照合するようにまじまじと錠剤を見つめた。
「実際に飲んでいる場面は見たことがありませんが……部屋に行った時に見かけた記憶はあります。青色の錠剤なんて、そうそうあるものでもありませんし」
「そうですか」
優は頷くと、上着のポケットに錠剤を戻した。今の質問に、特に意味はない。この睡眠薬が実際に里見結子に処方されたものであることは、彼女の通うメンタルクリニックや薬局にも確認済みだからだ。
ただの軽いジャブ。もっと話の根幹に関わることは、これからだ。
「では、次の質問です。里見さんは以前、離婚届を書くために結子さんのマンションへ行ったと仰っていましたよね」
「はい。離婚届を書いてほしいと、彼女に呼び出されたので」
「書いた離婚届は、どちらへ?」
テーブルの上で突き合わせていた旭の指が、一瞬震えたように見えた。優はメモ帳から顔を上げ、自然な動作で旭の目を覗き込む。動揺しているのか? 視線がわずかに揺れている。
人間はどうしても、感情が細かい動作となって表に現れる瞬間がある。瞳孔の動きまでを完璧に制御できる人間はめったにいない。
すっと、旭の表情が変わった気がした。表情が瞬時に塗り替えられたような違和感。旭は平静を装って、優の目を見つめ返す。
「彼女が自分で役所に提出するというのでマンションに置いてきましたが、見つかりませんでしたか?」
優と旭の間に、ずっしりとした沈黙が流れる。まるでどちらが嘘を吐いているのかを、見極めるような重たい、重たい沈黙。
優にはわかっている。里見旭は嘘を吐いている可能性がある。里見結子のマンションは刑事課の人間が隅々までひっくり返して捜索したのだ。蟻の一匹も見逃すまいと捜索した結果が、見つからなかった。離婚届が市役所へ提出されていないことも確認している。残る可能性はそう多くない。里見結子が離婚届を破棄したか、里見旭が離婚届を持ち帰ったか――そもそも、二人は離婚届を書かなかったか、だ。
優は旭を問い詰めたい気持ちをぐっとこらえ、一歩引いた。
「我々の捜索が甘かったのかもしれません。もう一度探してみます」
「僕の記憶では、ダイニングテーブルの上に置かれていたと思いますよ」
「なぜ……」
「え?」
「なぜ、ご自身で持ち帰って離婚届を提出しようとは思わなかったんですか?」
旭の視線が、左に逸れる。
思い返せば、最初から不思議だったのだ。聞き込みの段階では、里見結子は離婚を拒否していたはず。それが夫を呼び出し、離婚届を書き、自分が提出するという。一体、彼女にどんな心変わりがあって離婚届を書くことに同意したのか?
「里見結子さんはあなたと離婚したくないと思っていたはずです。そんな彼女に離婚届を託せば、役所に提出せずに捨てられる可能性もありました。一方で里見さん。あなたは前々からずっと結子さんと離婚したいと思っていた。彼女が離婚届を提出するのを待たなくても、書いたものを自分で役所に持ち込んだほうが確実に――」
「それが彼女の――結子さんの最後のお願いだったからです」
逸らされていたはずの視線は、まっすぐに優を射抜いていた。
「自分の手で離婚届を提出して、自分の手でこの関係に決着を付けたい。僕は最後くらい……彼女の願いを真剣に聞くべきだと、そう思ったんです」
前回と同じように、二人はほとんど始業と同時に会議室で旭のことを待っていた。
二度目ともなると、受付の女性もわずかながら事の次第に興味が湧いたようだ。好奇心を隠しきれないような瞳をして、二人がエレベーターに乗り込むのをじっと見ていた。
十分もしないうちに、里見旭は会議室のドアを開いて入ってきた。朝にふさわしい爽やかな笑顔は幾分か固まっているように見えて、優と小山内を見る目にも緊張が滲んでいる。旭は優の向かい側、小山内の右斜め前の席に腰掛けると、ちらりと手首に嵌めた腕時計を見た。
「今日もこれから外回りですか?」
優の問いに旭は首を振る。
「いえ、今日は内勤だけです。上司からも刑事さんたちにはしっかり説明して来いと言われたので、何時間でも付き合いますよ」
優は隣で腕を組んでいる小山内と顔を見合わせた。聞きたいことがたくさんあるのは、小山内のほうだろう。しかし彼はあくまで聞き込みの主導権を優に握らせようとしているらしい。小山内がわずかに顎を引き、頷いたのを見て、優は早速本題に切り込む。
「里見結子さんのマンションを捜索させてもらいました。そこで、まずお聞きしたいのが――」
優は上着の胸ポケットからジッパー付きの小袋に入れられた錠剤シートを取り出す。ベッドサイドのテーブルから見つかった、例の睡眠薬だ。
「こちらの薬を里見結子さんが服用していたことはご存知でしょうか?」
旭が見やすいよう、テーブルのちょうど中心あたりに小袋を置く。彼は袋に触れることはなかったが、視線を落とし、記憶と照合するようにまじまじと錠剤を見つめた。
「実際に飲んでいる場面は見たことがありませんが……部屋に行った時に見かけた記憶はあります。青色の錠剤なんて、そうそうあるものでもありませんし」
「そうですか」
優は頷くと、上着のポケットに錠剤を戻した。今の質問に、特に意味はない。この睡眠薬が実際に里見結子に処方されたものであることは、彼女の通うメンタルクリニックや薬局にも確認済みだからだ。
ただの軽いジャブ。もっと話の根幹に関わることは、これからだ。
「では、次の質問です。里見さんは以前、離婚届を書くために結子さんのマンションへ行ったと仰っていましたよね」
「はい。離婚届を書いてほしいと、彼女に呼び出されたので」
「書いた離婚届は、どちらへ?」
テーブルの上で突き合わせていた旭の指が、一瞬震えたように見えた。優はメモ帳から顔を上げ、自然な動作で旭の目を覗き込む。動揺しているのか? 視線がわずかに揺れている。
人間はどうしても、感情が細かい動作となって表に現れる瞬間がある。瞳孔の動きまでを完璧に制御できる人間はめったにいない。
すっと、旭の表情が変わった気がした。表情が瞬時に塗り替えられたような違和感。旭は平静を装って、優の目を見つめ返す。
「彼女が自分で役所に提出するというのでマンションに置いてきましたが、見つかりませんでしたか?」
優と旭の間に、ずっしりとした沈黙が流れる。まるでどちらが嘘を吐いているのかを、見極めるような重たい、重たい沈黙。
優にはわかっている。里見旭は嘘を吐いている可能性がある。里見結子のマンションは刑事課の人間が隅々までひっくり返して捜索したのだ。蟻の一匹も見逃すまいと捜索した結果が、見つからなかった。離婚届が市役所へ提出されていないことも確認している。残る可能性はそう多くない。里見結子が離婚届を破棄したか、里見旭が離婚届を持ち帰ったか――そもそも、二人は離婚届を書かなかったか、だ。
優は旭を問い詰めたい気持ちをぐっとこらえ、一歩引いた。
「我々の捜索が甘かったのかもしれません。もう一度探してみます」
「僕の記憶では、ダイニングテーブルの上に置かれていたと思いますよ」
「なぜ……」
「え?」
「なぜ、ご自身で持ち帰って離婚届を提出しようとは思わなかったんですか?」
旭の視線が、左に逸れる。
思い返せば、最初から不思議だったのだ。聞き込みの段階では、里見結子は離婚を拒否していたはず。それが夫を呼び出し、離婚届を書き、自分が提出するという。一体、彼女にどんな心変わりがあって離婚届を書くことに同意したのか?
「里見結子さんはあなたと離婚したくないと思っていたはずです。そんな彼女に離婚届を託せば、役所に提出せずに捨てられる可能性もありました。一方で里見さん。あなたは前々からずっと結子さんと離婚したいと思っていた。彼女が離婚届を提出するのを待たなくても、書いたものを自分で役所に持ち込んだほうが確実に――」
「それが彼女の――結子さんの最後のお願いだったからです」
逸らされていたはずの視線は、まっすぐに優を射抜いていた。
「自分の手で離婚届を提出して、自分の手でこの関係に決着を付けたい。僕は最後くらい……彼女の願いを真剣に聞くべきだと、そう思ったんです」
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