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CASE3.

湯川将司

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 湯川将司(ゆかわまさし)の気分は非常に良かった。しかし相反して、自身の体調は風邪気味で思わしくなかった。
 明日のクリスマスイブの夜、将司の赴任先の京都へ彼の家族がやって来る予定となっている。五歳になったばかりの一人娘、美弥(みや)にうつすといけないから、クリスマス当日にこちらへきたらどうだ、と提案した所、妻の寧々(ねね)はすんなり受け入れた事が要因だ。クリスマスの夜は、ホテルで食事をすることになっていて、久々に彼女達家族と過ごす予定ではあるが。

 今、将司は絶好調だった。可愛い嫁と可愛い娘を家族に持ち、仕事も順調である。旅行代理店のエリアマネージャーを務める彼は数字に強く優秀であった故、全国に散らばる代理店の視察を主な仕事としていた。今はこの京都エリアにやって来ている。このエリアの営業成績が上がったら、次のエリアに行く、というのを繰り返している。
 エリアマネージャーの仕事は、実に様々あった。営業成績、従業員の教育等は勿論の事、雑務に転勤が多い分給料も良く、不満も無かった。何より将司は、家庭に縛られるのがあまり好きでは無かったから、彼女達に不自由ない生活を送らせてやるのだから、こちらも好きなようにする、というスタンスの性格だった。


 彼の機嫌が良いのは、赴任先の京都で知り合った貴代美(きよみ)という少し年上の美人な女性とイブに逢引ができる事だった。若い頃から派手な性格だった将司は、結婚と同時に遊びは止めたが、家庭内では良い夫、良い父を演じながらも、裏では赴任先で新しい恋人を作っては刺激的な生活を送る、という遊び好きの男なら誰もが羨むような生活を送っていた。

 しかし、彼がこのような生活に走るには理由があった。将司が刺激的な生活を求めてしまうのは、寧々が当時の営業部長の紹介で知り合った、良い所のお嬢様であり、夫婦でありながら、思うような肉体関係を持てないことが原因であった。
 一人娘がいるので夫婦関係についてはレスではない。しかし最近は、ほぼそれに近い――というより、はっきり言って無い。
 いい雰囲気に持って行こうとしても、大抵やんわりと向こうに牽制され、仕方なく将司一人で処理をすることになるので、最近はもう誘いもしていない。誘うだけ無駄だと、諦めてしまったのだ。

 セックスレスは立派な離婚原因になりうるとはいえ、それを矢面に出しての離婚は難しいのが現状である。


 エリアマネージャーに昇格して視察が仕事になり全国を渡り歩くようになってから、将司はそういった事は外へ持ち出し、家の中に持ち込まないようにした。男なら誰でも性欲はあるのだ。女性はしなくても済むかもしれないが、男の場合、生理現象なのだからどうしようもない。


 妻と出来ないなら他で――赴任をするようになって至極簡単にこの結論に達してからは、寧々に苛々する事もなくなり、穏やかな生活を送っている。


 年末に近づくにつれ、現在担当を任されている小さなこの町の代理店も当然繁盛してくる。社員の数が少ないエリアは、自分が営業窓口に立つことも多い。
 エリアマネージャーと聞こえはいいかもしれないが、体のいい雑用係だと将司は考えている。仕事の量が他の社員に比べて、倍近くはあるからだ。しかし、妻元を離れ、自由にできるのは本当に有り難い。給料をきちんと収めているから、妻からも不満を零された事が無い。このポジションに就いたことは、将司にとっても良い環境であると言えた。
 窓口の案内がひと段落したので、将司は順番に休憩を社員に取らせ、自身も頃合いを見て休憩室に入った。

 将司がこの代理店に配属されたと同時期くらいに、大手の珈琲を専門に扱う業者の営業がやって来て、飲まなければ無料だから何とか置くだけでも、と無理矢理置いて行ったコーヒーマシーンに百円玉を一枚入れ、ボタンを押した。すると、豆を挽くいい香りが辺りに漂った。

 将司はカフェイン中毒かという程の珈琲好きで、休憩の度にこのマシーンを利用していた。飲んだ分だけを売り上げとして支払えばよいシステムのようで、恐らく将司が一番、このマシーンの売り上げに貢献していると思われる。定期的に業者がやって来て、売上金と機械のメンテナンスをして帰っていくし、美味い珈琲が手軽に飲めて、楽で良かった。次の赴任先が決まったら、業者に持って来させようと考えている程に。

 出来上がった珈琲をテーブルに置き、休憩室に置いてあるテレビを点けるとニュース番組が映り、先日逮捕された詐欺グループの代表格の男、長谷部大吾の件が取り沙汰されていた。
 長谷部はあちこちの旅行代理店に先ずは適当な旅館へ予約を入れ、わざとキャンセル料が発生する二十日を切ってからキャンセルを『独身の真面目そうな女性社員』に申し伝え、接点を持ち、食事に誘って優しく接し、女性と結婚を前提に付き合う事で安心させて予約した旅館に誘い込み、睡眠導入剤を服用させた上で乱暴した動画を撮影し、それをネタに女性を脅したり撮影動画を売りさばいて荒稼ぎをしていた様だ。
 事が事なだけに、女性は訴える事もできず、泣き寝入りが多かったようだ。

 逮捕された長谷部は、半グレ集団のリーダー格で恐ろしく頭がよく、拠点を転々と変える為になかなか警察も尻尾を捕まえることが出来なかったのだが、この旅行代理店の女性社員、岩里恵津が長谷部を担当した際、その正体を見抜き、警察に通報した事から逮捕に繋がったのだ。
 勿論、恵津が長谷部が詐欺グループの男であると通報した事は、マネージャーである将司と本部の人間しか知らない。というのも、将司に恵津から相談があったのだ。
 警察には恵津に危険な被害が及ばない様に考慮して貰い、長谷部の拠点を突き止めたという体で、逮捕に至った。


「湯川マネージャー、お疲れ様です」


 噂をすれば何とやら。休憩室に入って来たのは、岩里恵津だった。

「ご苦労様。今日も忙しいな」

「一番の繁忙期ですからね。あ、聞いて下さい! やりましたよ! 先程担当した案件ですが、湯川マネージャーの教え通り、新婚旅行はケチっちゃダメだって、特に旦那さんの方に力説して、上級プランに変更して貰ったんです。売り上げアップで目標達成しました!」

 Vサインを見せ、恵津が笑った。彼女はふんわりとしたミドルボブの黒い髪に、愛嬌のある目の大きな、真面目で素直な可愛らしい女性だった。自分が頼んだ雑用も快く引き受けてくれ、仕事もできる貴重な人材だ。
 最近、彼女は綺麗になったと将司は思った。新しい男でも出来たのだろうか。

「岩里さん、最近綺麗になったね」

 将司は正直な感想を述べた。

「ありがとうございます。よく言われます。なーんて」

 嬉しそうにはにかむ恵津は、幸せそうに見えた。「冗談抜きで、最近よく言われるんです。でもそれは多分、もうすぐ結婚するからだと思います」

「えっ。結婚するの!? 新しい彼氏、できたの?」

 たしか彼女は、随分長い間付き合っている恋人がいた筈だ。綺麗になったのは、その男と別れて新しい恋人ができたからだろうか。

「いいえ。違います。十年来付き合った、幼馴染の彼です。この前、逆プロポーズしました。快くオーケー貰えて、本当に幸せです!」

 驚いた。付き合って十年来等、熟年カップルもいいところではないか。何の新鮮味も無いのに、たかが苗字が変わる紙切れ一枚の契約に、そこまで彼女を美しくさせる要因があるとはとても思えなかった。結婚生活に未来を見いだせない将司には、特に。
 
「幼馴染と結婚するのは、いけませんか?」

 余程驚いた顔をしていたのだろう。恵津が質問してきた。

「ああ、いや、そういう訳ではないんだ。ただ、四十過ぎにもなるおじさんとしては、結婚にあまり未来を感じないものでね。しかもそんなに長く連れ添った馴染の恋人と結婚するのに、キラキラ輝いていて、すごいなあって、逆に感心したんだ」

「あれ。そんな事を言うって事は、湯川マネージャーのご家庭は、上手く行っていないのですか?」

 歯に物着せぬ言い方で鋭く痛い所を突かれてしまい、将司は思わず苦笑いした。

「まあまあかな。可もなく、不可もなく。不満は無いよ。妻はよくやってくれていると思う。まあ、俺も自由にやってるし、向こうも俺があちこち赴任で家にいないから、せいせいしていると思うし、関係は良好だよ。一人娘は可愛いし、言う事無い」

「えー、何それ。淋しっ。家庭崩壊じゃないですかぁー」

「まあ、そうとも取れるな。だから結婚に夢は持たない方がいいかなーって、おじさんの忠告」

「大丈夫です。私は一生、俊を――あ、いえ、彼を大事にするって決めたんです。揺るぎません。絶対」

 そんな事を言えるのは、結婚に夢をみている時だけだ、と将司は言いたくなった。
 現に自分の現状が、もうすでにそういう雰囲気ではないから。
 しかし、結婚に夢を見て美しさに花を開かせている女性に向かって、余計なお世話だろうから、自分の意見は黙っておくことにした。もう既に、忠告とか言いながら余計な事を言ってしまったのだ。これ以上言っても、相手を不快にさせるだけだろう。

「家族が傍にいてくれたらいいけどね。でも、転勤が多いからさ、おじさん淋しくて。岩里さん、慰めてくれる?」

「お断りしまーす。あ、マネージャーを慰めてくれるお店なら、紹介できますよ」

 恵津は持っていたサイフから、小さくたたんだ紙切れを取り出した。「ちょっとシワになってますけど、これ、よかったらどうぞ」

 恵津から渡された紙切れを広げてみた。A5サイズくらいの大きさで、カフェのチラシだった。


 カフェ『アカシヤ』で、憩いのひと時を。
 珈琲ソムリエの淹れる、薫り高い珈琲、マスターの手作りケーキと一緒にいかが。

 このチラシをご持参の方、ご飲食代半額に致します――そんな風に書かれていた。

 珈琲ソムリエの淹れる、薫り高い珈琲というフレーズに心が惹かれた。

「ここにねー、すっごい美人の珈琲ソムリエがいるんです。行ってみたらどうですか?」

「えっ、美人!? 行く行く」

『美人』というのは、更に心が躍るフレーズだ。将司はそのカフェに、ますます行ってみたくなった。

「うわー、紳士に見える湯川マネージャーも、美人に弱いただのおじさんですねー」

「おじさんは、みんなそうだよ。考えている事は一緒。美人に弱くって、スケベな事考えてるもんさ」

「へえー。そうなんですか」

 軽蔑した目を向けられるかと思ったが、恵津は意外にそうではなく、何時もの様ににこやかに笑っていた。

「湯川マネージャー。是非、アカシヤに行って、美人ソムリエに説教されて家庭の有難味(ありがたみ)を思い出してください。きっと、湯川マネージャーも大切な事を思い出して、ひとつ願いが叶うと思いますから。私も、叶ったんです」

「はは。分かった。早速行ってみるよ」

 受け取ったチラシをスーツの内ポケットに入れ、空になった紙コップをゴミ箱に放り投げ、将司は休憩室を後にした。



 今日はクリスマスイブなので来客は少なく、夕方は暇だったので、代理店の閉店時間、午後八時に業務が全て完了してしまった。
 一日のまとめ、売り上げを含めた業務内容を本部へ報告を終え、将司はぐっと伸びをした。

 予想以上に仕事が早く終わった。本当なら寧々と美弥が宿泊先のホテルに到着している頃だっただろうが、キャンセルしたのでそれは無くなった。しかしそのまま予約した部屋は残してある。今日の貴代美との逢引に利用しようと思っているからだ。
 町でホステスをしている彼女の仕事終わりが、確か午後十時。それからホテルに来るのに多く見積もって三十分。まだ二時間以上も待機時間がある。

 将司は恵津に貰ったチラシの事を思い出した。美人の珈琲ソムリエがいるというカフェが非常に気になったので、下見がてら行ってみることにした。
 小さな公園を横切り、京都盆地内にある町はずれ付近の緩やかな坂を上がりきった先にある、狐の神様を祀る小さな森の社の傍に、その店はあった。
 遅い時間なので店はもう開いていないだろうと思っていたのに、その店には優しい光が灯っていた。


 まだ店がやっているのなら、一杯くらい珈琲飲んで時間を潰そう――そう思って、将司は迷わず店内に足を踏み入れた。



「いらっしゃいませ。アカシヤへようこそ! チラシをご持参のお客様ですね。どうぞ、こちらへ」



 将司を迎え入れてくれたのは、ウェイターの恰好をした青年だった。声が良く通っていて元気もあり、白いシャツに合わせたワインレッドの太ネクタイに、揃いのエプロンがよく似合っていた。

 正面が木製のカウンター内には、目を見張る程に美しい見事な銀髪の男性が立っており、将司と目が合うと優しく微笑み、会釈をしてくれた。

 美人はどこだろう――小ぢんまりとしたモダンでアンティーク調の店内にさっと目を走らせると、カウンターに座っている、美しい女性が目に付いた。
 ゆるくパーマのかかった黒のロングヘア、切れ長の涼し気な目元に、やや気怠さが滲んでいる。


 こりゃあ、ただの美人どころではない。超絶美人だ――彼女のあまりの美しさに、将司は思わずごくりと唾を呑んだ。


 店内はガランとしていて、誰もいなかった。それもそうか。午後八時半にもなるのに、町はずれのカフェでクリスマスイブにお茶をする酔狂な人間はいないだろう。
 もしかして閉店時間だったか――そう思ったが、折角来たので美味い珈琲を飲みたいと思った将司は、遠慮せずにウェイターの彼に案内された席に座った。
 小さなライトブラウンの木製テーブルに、メニューが立てかけてあった。手に取って見ると、少し古い木製板に、和紙で出来たメニューが貼られていた。


・珈琲 500円
・手作りケーキ 500円
・ドリームソーダ 500円


 メニューはたったこれだけだった。

「あの、すみません」

 将司は近くで待機してくれていた青年ウェイターに声を掛けた。「この、ドリームソーダって何ですか?」

 ウェイターの彼は、大きな目を更に見開いたが、すぐに笑顔を取り戻して言った。「えーっと、当店の特製ドリンクだよ。味も美味しいし、一番のお奨め」

「そうか。うーん」

 珈琲を頼むつもりでいたのに、強烈にこの飲み物に惹かれてしまった。
 将司は自分でも首を傾げた。珈琲を差し置いて、他の飲み物を頼もうという気になった事など、今まで一度も無かったのだ。

「どのくらい美味しいの?」

 気になって仕方ないので、しつこくウェイターに尋ねた。


「気になるなら、オーダーしてみたら? 美味しく無かったら代金は要らないわ。何時もは珈琲専門なんだけど、今日は特別に私が作ってあげる」


 ウェイターとの会話が聞こえたのだろう。カウンターの方から、例の美人が声を掛けてくれた。
 美人が作ってくれるなら、さぞかし美味いに違いない。

「じゃあ、ドリームソーダを」

 将司の言葉を聞いた彼女は妖艶に微笑むと、さっとカウンターの中に入って行った。銀髪のマスターと思しき男と軽く会話し、この位置からは全く見えなかったが、中で自分の為に飲み物を作ってくれているのは解った。

「この店は、前からあったの? 新しい雰囲気だね」

 喋るのが好きな将司は、話しやすそうなウェイターの彼に声を掛けた。

「ここ、アカシヤは最近出来たんだ」

 将司は驚いた。恐らく結構年下と思われる彼の、敬語も使わないあまりのフランクさに。
 しかし、不思議と嫌に感じなかった。

「じゃあ、新しい店なんだ。いや、実はさ、俺の職場の部下に『すごい美人がいるカフェがある』って紹介してもらって、様子を見に来たんだ。まさかこんな遅い時間に開いてるとは思わなくて。いや、ラッキーだったな。目の保養になる」

「うん。ここはお客様が来る限り、何時でも開いているよ」

「へえ。二十四時間営業? 小さな店なのに、頑張るなあ」

「うーん、ちょっと違うかな。でも、そんな感じ」

 どっちなんだ、と思ったが、敢えて聞き直す事も無いだろう、と将司は聞き流した。

「君、名前は?」

「僕? 僕はね、鳳凰寺脩。お兄さんは?」

「俺は、湯川将司」

「将司さんは、この辺りの人?」

「いいや。名古屋に家があるんだけど、単身赴任中。仕事で全国を渡り歩いているよ」

「へえ。凄いね! 全国なんてカッコイイ! 僕、この地域の事しか知らないから、色々教えてよ」

 脩と名乗った男は、人懐こい青年だと思った。将司はこういった人に切り込んでくるタイプは結構好きなので、ドリンクが出来上がるまで、脩との会話を楽しんだ。
 彼と話していると、美人ソムリエがトレイに見事なドリンクを乗せてこちらへやって来た。
 Aラインのスカートが揺れ、綺麗なすらっとした細い脚が目に入ると、将司は年甲斐もなく胸を高鳴らせた。

「お待たせ」

 先ず目の前にコースターが置かれた。細く長い指が目の前を横切っていき、先程の飲み物が目下に置かれた。赤いストローに輪切りのレモンが付いており、美しく虹色に輝く不思議な飲み物だったので、ほお、と感嘆の息が漏れた。

「ごゆっくり」

 女性が微笑んだ。妖艶で、正直この小さなカフェよりも祇園や銀座のママでも通用するような女性で、ただのカフェ店員ではない気がした。

「あ、あのっ。ありがとうございます。貴女のお名前は?」

 思わず声を掛け、引き留めてしまった。「俺、湯川将司と言います。大変お綺麗ですね」

「綺麗だなんて嬉しいわ。将司さん、ね。私は悠杉牡丹。宜しく」

「は、はい。牡丹さん、か。素敵な名前だ」

「ありがとう」

「あの、牡丹さん。好きな男のタイプはありますか?」

「既婚者の貴方が、私にそれを聞いてどうするの?」

 牡丹の鋭い目線が、将司の左薬指の細いプラチナの結婚指輪に注がれている。これは、寧々と揃いのものだ。「強いて言うなら、浮気をしない家庭的な人が好きよ。将司さんは、残念ながら違うようね? では、ごゆっくり」

 牡丹は再び妖艶な微笑みを浮かべると、カツカツと赤いハイヒールを鳴らしてカウンターの方へ戻って行った。
 彼女の一言で、将司は完全に撃沈した。項垂(うなだ)れる様子を見て、脩がクスクス笑っている。「牡丹に好きなタイプとか聞く人、初めて見た。将司は面白いね」

「はあー。やっちまったかぁー。お灸を据えられたみたいだ。でもな、あれだけの美人だぞ。諦められないなぁ。脩は一緒に働いていて、彼女の事、何とも思わないの?」

 先程から会話を続け、お互い名前を呼び捨てで呼び合う程に二人は親密になっていた。

「んー、別に」

 あっけらかんと言われたので、正直拍子抜けてしまった。

「それよりせっかくのドリームソーダなんだから、早く飲めば? あ、将司だから特別に教えるけど、これ飲んだら、何かひとつ願いが叶うんだよ。試してみて」

「そうだ。そういえば岩里さん――あ、俺の職場の部下ね――も、ここを紹介してくれた時、ひとつ願いが叶うとか何とか言っていたな。じゃあさ、競馬で大穴当たって欲しい。これがいいな」

「将司、ダメだよ。そういう願いは叶わない。お金は努力すれば稼げるから。だからもっと他に、難しいものを」

「難しい? んー、とりあえず俺の願いは、妻にバレないように遊び続けられる事だな。昔は離婚も考えたんだけど、今は現状維持希望。一人娘が可愛いから」

 そう言って、ドリームソーダを手に取った。
 それにしても、美しい飲み物だ。美弥に見せたら喜びそうだな、と将司は思った。寧々との間は冷えているかもしれないが、将司は美弥を大層可愛がっていた。美弥に会えない事はとても淋しいが、自由との引き換えなのだから仕方ない。自分は家庭に収まり、家族だけを大切にできる人間では無いから、と。

「ロクでもないお願いだね」

「そうか? 男はみんな、そんなもんだ。脩ももっと大人になったら解る。結婚したら、特にな」

 将司は喋りながらドリームソーダを一口飲んだ。「なんだこりゃ! めちゃくちゃ美味いぞ!!」

 飲むと爽やかなのにほのかに甘い味が広がる。炭酸特有の喉越しは、何とも言えぬ爽快感があり、アルコールを飲んだ時と同じで、もっと欲しくなった。

「願いが叶うドリンクか。いいな。夢がある。俺にはもう無縁だから、気分だけでも味わうとしよう。脩、ありがとう」

「本当なんだけど。願いが叶うって」

「そうか。じゃ、妻に文句言われず、毎日楽しく自由に暮らしたい――俺の願いは、これに限るな」

「つまらない願いごとだね。もっと幸せなお願いをすればいいのに」

「俺は十分幸せだぞ。仕事も順調、家庭も順調、さっき話した一人娘は可愛い、自由気ままにできて、言う事無しだ」

「あっそ。とてもじゃないけど、願いが叶ったらいいね、とは言えないな」

 脩は、やれやれとため息を吐き、将司が美味いを連呼しながらドリームソーダを飲み終えるのを見届けた。

「将司、悪いんだけどそろそろ閉店しなきゃ。ねえ、また来てよ。将司の話、楽しいから、いっぱい聞かせて?」

「なんだ。やっぱり二十四時間営業じゃないのか。まあ、それもそうだよな」将司は身支度を整え、席を立った。「まあ、脩がもっと可愛い女の子だったら、毎日でも通うんだけど」

「どうせ僕は男ですよー。でも、また会いに来てね」

「オーケー。また来るよ。牡丹さんの珈琲も飲みたいし。代金は、五百円でいいのか?」

 コートの内ポケットから小銭入れを出し、五百円を脩に手渡した。

「チラシ持ってきたから、半額の二百五十円だよ。お釣り持ってくる」

「いいよ、全部取っといてくれ。釣りは要らん」

「そういう訳にはいかないよ。お金は大切だよ。ちょっと待ってて」

 脩は将司から受け取った五百円を持って、入口のレジへ向かい、中から釣銭を取り出して彼に渡した。

「ご馳走様。脩、また来るよ。牡丹さん、次回は貴女の美味い珈琲を飲ませて下さいね」

 カウンターの方で待機していた牡丹にも声を掛け、将司は店を出た。
 木製のドアを開けると、ちりんちりんと鈴の音のような綺麗なドアベルが鳴った。
 一歩外に出ると、木枯らしが吹いていた。クリスマスイブだというのに、家族と会う事を避け、別の女と逢引する最低な自分を自嘲し、将司は歩き出した。

 先程のドアベルの鈴の音が耳に残っているのが原因だろうか、無性にカフェ・アカシヤの隣にある社に惹かれた。
 丁度釣銭もあるので、お参りする事にした。

 なにかひとつ願いが叶うと、岩里恵津も、先ほどのウェイター、鳳凰寺脩も口を揃えてそう言っていたが、果たして本当に願いなど、叶うのだろうか。
 夢などとうの昔に諦めた中年のおっさんの願い事なんて、たかがしれてる――将司は釣銭を賽銭箱に投げ入れ、手を合わせて思った。
 願い事なんか、特にない。家庭に波風が立たず、仕事も現状維持、このまま適当な関係を持てる女と過ごし、このままずっと過ごせたらそれでいい、と。


 名古屋も寒かったが、夜の京都――特に盆地のこの辺りは冷える。将司は手を擦り合わせ、小さな社でつまらない願い事を心に描き、この場を後にした。



 それから将司は本当なら家族と泊まる筈だった京都駅前のホテルに向かい、一足先に部屋に入った。外で待ち合わせ、同時に入るのは流石にリスキーだから。
 貴代美が十時過ぎに連絡を寄こしてきた。店はイブだから暇だったようで、すぐに行くと言ってくれたので、こちらもシャワーを浴びて準備をしておいた。

 程なくして貴代美がやって来た。店から飛んできたのだから仕方ないが、少々崩れかかったきついメイクに、きつい香水の匂いと、煙草の匂いがしみついた巻き髪。そして、アルコールの香り。

 将司が関係を持つ女は、たいていどの女も似たようなものだった。物わかりのよくて、後腐れが無くて、身体を赦し合える関係。ただ、それだけだった。
 早く触れ合いたくて、将司は早急に貴代美の服を乱した。ベッドに誘い込み、半裸になった貴代美の豊満な胸に舌を這わせ、彼女の甘い声を聞いた。

 満たされると思っていた心は何も満たされず、将司は虚しさを隠せずにいた。


 俺は一体、クリスマスイブだというのに、何をやっているのだろう――遊び盛りも下り坂なのか、最近は特に情事の後、虚しさの方が勝る様になっていた。


 身体が満たされれば、問題無い筈だ。一体、何が虚しいのか解らずに、将司は貴代美を貫いた。


 満たされない思いを胸に、将司は貴代美の中へ落ちて行った。




 翌日、貴代美には謝礼を渡して早めに一度自宅へ戻り、出勤した。
 単身赴任中の現在の自宅は社員寮で、小さな駅前の代理店から徒歩十分圏内だ。
 昨日行ってきた京都駅前とは違って、ここは大変小さな町。風情もあるが、特にこれといった名物も無い、何の変哲もない町だ。平和が取り柄と言っても過言ではないだろう。

 将司は通常通り店に出勤し、通常通り業務に就いた。代り映えの無い日常。ずっとこんな日々が流れ過ぎ、年を取り老いてゆくのだとばかり思っていたのに、夕方、まだ勤務中だというのに、寧々からかかってきた一本の電話でそれは一変した。

『あなた。美弥が、そちらへお邪魔していない!?』

 あまり感情を表に出さず、何時も笑顔を絶やさない妻・寧々の珍しく焦った声が印象的だった。

「いいや。君と一緒なんだろ?」

『違うの! 美弥が迷子なの!!  今、ホテル前のデパートで買い物をしていたの。あなたへのクリスマスの贈り物を選んでいる所で・・・・お手洗いに行ったまま、美弥が戻らなくて。館内放送を掛けて貰っても、見つからないの。私も一緒にお手洗いについて行くって言ったんだけど、美弥が・・・・すぐ戻ってくるから大丈夫だって・・・・一人で何でもできるようになったことを、あなたに言いたいからって、そのまま行ってしまったの』

 衝撃の美弥の言葉に、将司は頭が真っ白になった。
 焦って寧々が自分に電話を掛けてきたのが、この様な理由だったとは夢にも思わなかった。

『あの子、クリスマスプレゼントをあなたに昨日渡そうと思って、一生懸命作っていたの。でも・・・・昨日、プレゼント渡せなかったから・・・・あなたに早く会いたい、会って渡したいってずっと朝から言っていて・・・・それで、もしかしたらあなたに会いに行こうとして、迷子になったのかと・・・・私がついていながら、ごめんなさい。あなた・・・・』

「とにかくすぐ行く! 場所は!?」

 気づかないうちに声を荒げていた。将司の剣幕に驚いた社員達の注目を浴びたが、そんな事を気にしている余裕が無かった。
 将司は全員に事情を説明し、業務中に抜けなければならない事を詫びた。引継ぎは岩里恵津が引き受けてくれ、本部への業務報告等も出来るようだから、彼女に託してすぐさまデパートへ向かった。

 デパートのお客様相談室で、寧々は待っていた。泣きはらした目をしており、完全に憔悴していた。
 事の経緯を詳しく聞くと、朝から京都水族館に行った後、折角だから時間もあるので、デパートで将司へのプレゼントの買い物をしようという事になり、京都駅前のデパートに二人で立ち寄った際の出来事のようだ。

 警備室で防犯カメラを調べて貰った所、五階の紳士物を販売しているコーナーの奥の手洗いから出てきた美弥に、声を掛ける男の姿が映っていた。
 何を話していたのかまでは解らないが、その男は、美弥の手を引いて、エスカレーターを下りて行ったではないか!


「どういう事だっ!?」


 将司は半狂乱になって叫んだ。「警察だっ。これは誘拐じゃ無いのか!? もう少しこの映像を鮮明化出来ないのかっ!?」

 この映像を見て、警察に通報が行われた。すぐに駆けつけてきた警察に事情を話し、湯川美弥という五歳の少女が誘拐された事や、美弥の特徴、身長、身に着けていた洋服等、全て詳細を警察に伝えた。



 しかし必死の捜索も虚しく、その日は美弥を見つける事は出来なかった。


 翌日、その翌日も、将司は有休を利用して、美弥の捜索にその時間を当てた。
 しかし彼女は見つからず、月日だけが悪戯に過ぎて行った。
 最初の一週間は狂ったように娘を捜し歩いた。それこそ、寝る間を惜しんで探した。
 しかし一向にヒントになるような手掛かりも無く、精神だけが蝕まれた。
 お門違いだとは承知しているが、当たり所が無かった為、寧々を何度も責め詰(なじ)った。本当なら、自分がきちんとクリスマスイブの約束を果たしていれば、こんな結果にはならなかったのに、と解っていながらも。それでも、寧々を責めるしか出来なかった。

 寧々はどんどん疲弊し、遂に倒れた。実家のある名古屋へ戻って行き、将司の傍には誰も家族が居なくなってしまった。
 単身赴任の自分には、何ら変わりない筈の日常。家族が傍にいない事は、当たり前なのに、事態は全く違う。
 確かにアカシヤでの願いは叶った。妻にバレずに愛人と過ごせる毎日――この状況でなら、誰とでも関係を結べる。でもそれは、美弥ありきの話だ。こんな未来を願った訳では無い。

 将司は美弥のビラを作り、必死に駅前で自分でも聞き込みを行った。仕事が終わったら即、自分の足でも色々歩いて、人に声を掛けては美弥の行方を探し続けた。

 美弥がいなくなってから一か月程経った頃。夜、町はずれの方で聞き込みをしていると、何時も決まった時間にランニングをしている一人の少年と目が合った。彼は白いトレーニングウェアを着ており、坊主頭の背が高いが見た目はまだ幼い少年だった。

「あの、すみません」

 将司はビラを持って尋ねた。「女の子を探しています。見ませんでしたか? 俺の娘なんです。クリスマスの日から、行方が分からなくなってしまって・・・・」

「あ、いえ。知りませんが・・・・あれ。このリュック・・・・確かさっきの」

 坊主頭の少年は思いつくふしがあったようで、持っていたリュックを将司に見せた。「この写真に写っているリュック、これじゃありませんか? 実はさっき、掃除に行った公園で拾ったんです。ゴミ箱近くに落ちていて、忘れ物だろうから、交番に届けようと思っていたんです」

 ピンクのふんわりとした生地に赤地のバイカラー。白のウサギが刺繍された、美弥のリュックだった。

「どこっ!? どこの公園で見つけたの!? すぐ案内して!」

「あ、はい。いいですよ」

 将司は少年に、美弥のリュックを拾ったという公園に連れて行ってもらった。
 その道中で、少年は誰かに電話をかけていた。用事ができたから、迎えに行くのが少し遅くなる、店で待っていて欲しい、と。自分が迎えに行くまでは、絶対に店から出ないように、強い口調で言っていた。
 こんな時間――現在午後九時半を過ぎた頃だ――に誰を何処へ迎えに行くのだろう、と気になったが、他人様の事に口出しをする間柄でも無いので、将司は黙っておいた。
 それより、美弥の事だ。何か連れ去られた、手がかりが見つかるのかもしれない。


 公園は見覚えがあった。クリスマスの日、アカシヤに行く途中にあった公園だった。
 園内の白い、少しアルミ部分がへこみのあるごみ箱の傍に、このリュックが落ちていたのだと、少年が教えてくれた。


「美弥っ、いるのか。美弥――っ!?」


 互いに自己紹介を済ませ、中川櫂と名前を教えてもらった少年と一緒に、さほど広くない公園を駆け回り、遊具の隅々まで覗き込んで美弥を探したが、何処にも彼女は見当たらなかった。
 ようやく手掛かりを掴んだと思ったが、空振りに終わってしまった。将司は項垂れ、公園の木製ベンチに力なく座り込んだ。

「美弥・・・・一体何処へ行ってしまったんだ・・・・」

 小さなリュックを眺めた。今でも覚えている。今年の春、美弥と二人で動物園に行った時、ウサギが大層気に入っていたので、彼女が欲しがるリュックを自分が買ってやった。これは、そのリュックだ。

「あの、中に何か入っていませんか? ヒントになるようなものとか」

 櫂に言われ、将司はその通りに従った。
 小さなリュックを開けると、中にピンクの封筒と、丸めた画用紙が入っていた。

 将司は手紙を開けた。中に便せんが入っているので、取り出して読んだ。


――パパえ

 サンタさん おねがいしたよ
 ひとりで なんでもできり
 いいこに なりから

 みやは なにもいらない
 パパに おしごとのおやすみプレゼント

 パパといっしょに くらせりように


『へ』が『え』になっていたり、『る』が『り』になっていたり、大きさもまばらで、字も間違っていたが、将司が美弥に贈った、彼女のお気に入りのクレヨンで一生懸命手紙を書いてくれていたのだと解った。

 画用紙を開けると、パパ、ママ、みや、と書いた、家の中に三人が並んだ、子供特有の可愛い絵が、描かれていた。




「美弥っ・・・・美弥ぁ――――っ、うわぁああああ――――っ!!」



 こんなに声を荒げて泣いたのは、何時ぶりだろうか。将司は叫ぶように泣いた。
 遺品のようなものを見せつけられ、美弥を失ってしまったという悲しみに、押しつぶされそうになった。

 彼女が誘拐されて、もう一月余りも経ったのだ。身代金の要求も無く、デパートの防犯カメラに映り、美弥を連れ去った犯人からの連絡は一切無かった。
 せめて無事に何処かで生きていてくれればと願うも、美弥は女の子だ。恐ろしい凶悪犯の男に悪戯されていたり、恐ろしい目に遭った挙句、殺されている可能性が非常に高くなってきている。

「あの時・・・・あんな最低な願いを思わなかったら・・・・・・・・俺のせいだ・・・・美弥・・・・ごめん」

 涙が溢れ、視界を歪めた。美弥が一生懸命描いてくれた絵に、自分が零した涙の染みが幾つも付いた。


 もう戻せない。
 もう帰らない。



 愛する娘は、もう――



 
「将司さん、何か願ったのですか? もしかして、『アカシヤ』でドリームソーダとかいう不思議なドリンク、飲みませんでしたか!?」

「なんでそれを・・・・?」

「将司さん! だったら今すぐ、つまらない願いをしてしまった事、心から詫びて下さい。そして、本当の願いを、心からの願いを思って下さい!」

「だから、なんでそれを・・・・?」

「将司さんと同じだからです!」将司は目の前の少年に、力いっぱい肩を掴まれた。「俺も、アカシヤでドリームソーダを飲んで、つまらない願いをしてしまったんです。でも、そのせいで、大切な人を失いかけた経験があるんです! だからもうそんな事にならないように、夜道は危険だから、今から彼女が働く職場まで迎えに行くところだったんです。彼女は、俺の母です!」

 櫂の言葉に、将司は目を開いた。

「辛い現実に直面した今、将司さんは、どうしたいですか!? 今すぐ、願って下さい! 早く!!」

 櫂に強く身体を揺さぶられ、将司は思わず呻いた。


「み、美弥に・・・・会いた・・・・っ・・・・・・・・あい、たい・・・・」


 その時、将司は激しく後悔した。



――妻にバレないように遊び続けられる事。



 どうしてアカシヤで、あんな事を思ってしまったのだろう。
 美弥はずっと、ことある毎に欲しいと言っていた『プリキュアレインボーパフューム』という、人気少女アニメの玩具も要らない、代わりに将司の休日をプレゼントしてくれ、とサンタに願ってくれたのだ。
 こんなロクでもない父親の為に。

 もしも。
 もしも本当に、願いが叶うというのなら。



 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 将司はひたすら懺悔し、強く願った。


 これからは、美弥を大切にします。
 今までのような、淋しい思いはさせません。
 もっと傍にいて、彼女を守り、慈しみます。
 彼女の望む通り、三人で仲良く暮らせるように努力します。


 神様、どうかお願いです。



――あのつまらない願いを、どうか取り消しにしてください。美弥を返して下さい。美弥に会いたい。娘に会えるなら、どんな事でもします。だからどうか、どうかお願いします・・・・。





――――・・・・


 

「将司! まーさーしっ」


 人懐っこい声が耳元で聞こえたので、将司は目を覚ました。
 慌てて体勢を整えると、心配そうにのぞき込む脩の顔が見えた。

「将司ったら、よっぽど疲れてたんだね。もう帰ったら? あれ。泣いてるの? でも見た?」

 気が付くと、頬が濡れていた。随分泣いていたようで、瞬きをすると目からぼろぼろと涙が零れた。

「ちょっと待っててね」

 脩が、タオルウォーマーから温かいおしぼりを取り出して渡してくれた。温かいおしぼりで涙を拭い、顔を拭くとさっぱりした。

「脩、今、何時?」

「ん? 午後八時四十分くらい。そろそろ閉店時間なんだけど、お会計してもいいかな?」

「あ、うん。ごめん。すぐ払うよ」

 一体どういう事なのだろうか。確かつい今しがた、美弥のリュックを見つけてくれた中川櫂という少年に会い、公園で美弥の書いてくれたプレゼントを見つけ、号泣していた筈なのに。

「将司、今日はクリスマスイブなんだから、ちゃんと家族と一緒に過ごさなきゃ。今からでも遅くないと思うよ。京都まで来て貰いなよ」

「なん・・・・だって? 今、何て・・・・?」

「クリスマスイブくらい、家族と一緒に過ごしたら、って言ったの! もう、寝ぼけすぎだよ」

 狐につままれたような感覚で、将司は自分のスマートフォンで時刻と日付を確かめた。
 デジタル表示で、日付は2019/12/24、時刻は20:39となっていた。


 どういう事だ!?


 将司は必死に考えた。
 確か少し前にスマートフォンで確認をした時、2020/01/24と日付はなっていた筈だ。



 一体何故――?



 

――俺も、アカシヤでドリームソーダを飲んで、つまらない願いをしてしまったんです。でも、そのせいで、大切な人を失いかけた経験があるんです――


 中川櫂の言葉が蘇った。
 失いかけた経験がある――確かに彼は、そう言った。


 美弥が連れ去られたのは、確かクリスマス当日。
 だったら、未来を変えることができれば、美弥は・・・・?

「脩、ありがとう! 釣り、また今度の時でいいからっ! 脩の言うとおり、今すぐ京都に来てもらうよ! ご馳走様でした!!」

 将司は慌てて身支度を整え、五百円玉をテーブルに置くと、大急ぎで外へ飛び出した。そして、寧々に連絡を取った。

『はい、あなた。どうしたの?』

「明日でいいと言ったのに、本当に勝手で申し訳ない。でも、聞いて欲しい! 君たちに今すぐ会いたい!! 最終の新幹線で、京都まで来てくれ! 頼む! 一生のお願いだ!!」

『・・・・いいわよ』

 もっと迷惑そうに言われるかと思ったのに、寧々の声は嬉しさを含んだものだった。

「本当か!? ああ、ありがとう! 美弥は元気にしているか!?」

『あなたに会えなくて、さっきも泣いていたのよ。宥めるの、大変だったんだから』

「ごめん! 本当にごめん! 悪かった。赦して欲しい。遅い時間になるけど、クリスマスパーティーやろう!」

『ええっ。夜中になっちゃうわよ』

「構わない。明日有給取る。京都から離れて、USJでも行こう。美弥、行きたがっていただろう?」

『どういう風の吹き回し?』

「とにかく! 俺も今から本部にかけあう。休ませてくれなかったら、仕事辞める」

『ええっ。本気なの!?』

「会社も、俺に辞められたら困るから、ねじ伏せる! とにかく、何も要らないから、君たちが京都に来てくれるだけでいいんだ。ホームで待っているから」

 それだけ一気にまくしたてて電話を切り、続いて本部へ連絡を取った。
 明日はクリスマス。それまでは忙しいがクリスマスともなると、そこまで業務も多忙ではない。将司はもともと休みだったのだが、社員がシフトの相談をしてきたので、代わりに自分が出勤を引き受けたのだ。
 早速連絡を取った本部の担当に、家族サービスをしないと離婚の危機だから、どうしても休みを取らせてくれ、と懇願した。休めないなら、仕事を辞めざるを得ないとまでも伝えた。

 連絡を受けた本部も、将司がまさかこんな事を言い出すとは、と焦ったに違いない。普段から無理を聞いていたのも良かったのだろう。すんなり有休を取らせてもらえる事になった。
 業務報告が出来る者に事情を説明して、明日の業務が滞りの無いよう、引継ぎだけはしておくように言われたので、岩里恵津に頼ることにした。
 恵津に連絡を取ると、彼女は快く引き受けてくれた。電話を切る際(きわ)に、マネージャーの願いが叶ったのですね、家族を大切にして下さい、と言われた。

 そういえば、アカシヤは彼女に紹介して貰ったのだ。だったら、彼女も櫂と同じ様に、何かつまらない願いを行い、悪い夢でも見たのだろうか。
 大切なものに気が付いた今、この瞬間から、もう一度時をやり直すことが出来た者だけが知っているメッセージを送ってくれたのか。


 何にせよ、これからは家族を――特に美弥を悲しませたりしないように、全力で大切にしよう。
 失って初めて気が付いた。将司は、家族にもっと寄り添いたかった事に。
 寧々に拒絶されて傷ついた心を、他で癒す愚かな選択をしてしまった事を、深く後悔したのだ。

 向き合おう。もっと、曝け出して、本音をぶつけ合って、寧々と美弥と共に、生きていくのだ。
 貴代美には、もう会えない旨を連絡した。もう二度と、他の女に癒しを求めるような馬鹿な真似はしない、と心に誓った。

 将司は大急ぎで駅前まで走って行って、閉店間際のジュエリーショップで寧々へのプレゼントを購入した。小さなピンクダイヤの煌めくペンダントを、彼女の為に選んだ。
 次に社宅に置いてある美弥へのプレゼントを取りに戻り、二つのプレゼントを抱え、最終の新幹線でやってくる家族をホームで待ちわびた。

 彼女達が到着し、特に美弥の姿を見た瞬間、涙腺が崩壊した。
 一か月間、探し求めてきた美弥が、生きて、歩いて、パパー、と可愛い声を上げて自分の方へ駆け寄ってきてくれたのだ。


「美弥! 会いたかった!!」


 涙を流しながら、将司は美弥を抱きしめた。小さな温もり。ずっと大切にすることを忘れていた。
 美弥に、パパ泣かないで、と小さな手で涙を拭って貰った。

「美弥。一度は断ったのに、今日は無理言ってゴメンな。来てくれて、本当に嬉しいよ。どうしても美弥に会いたくなってしまって。パパ、一人じゃずっと淋しかったけど、お仕事があるから我慢してた。でも、もう我慢しない! 美弥と、ずっと一緒にいる!!」

「ホント!? やったぁ! 美弥のお願い、叶っちゃったぁ!!」

「今日はお家じゃ無いから、サンタさんが来てくれないだろう。だから、パパからプレゼント。ホテルに行ったら開けなさい。美弥の一番欲しい物が入っているから」

「ホント!? やったぁ! あのね、美弥もパパにプレゼントあるんだよぉー」

 例のウサギのリュックから、美弥が将司へのプレゼントを取り出した。
 ドキリとした。先程見たものと何ら変わらぬピンクの封筒、そして、丸めた画用紙がその中に入っていたから。

「見てみてぇー」

 じゃーん、と言いながら、美弥が丸めた画用紙を広げた。
 大きな家に、パパ、ママ、みやと書かれた三人が描かれている。『ついさっき』見た、美弥を失くしたと実感した、櫂と一緒にいた公園で見た、あの絵だ。
 そしてその絵には、幾つもの透明の染みがあった。



 自分の、涙の跡――



 何と言う事だろうか。これは、奇跡以外の何者でもない。
 美弥を連れ去ったあの恐ろしい男から、大事な娘を救う事が出来たのだ。
 恐ろしい未来を、この手で変える事が出来たのだ!!

 将司は再び涙し、心から神に感謝した。
 自分の本当の願いは、ただひとつ。これからは妻と娘と、何時までも幸せに暮らす事――将司の願いが、叶った瞬間だった。


「良かった。将司、ちゃんと家族と再会出来たよ」


 ここはカフェ・アカシヤ。妖狐としての術を利用し、将司の行く末を見届けた脩の瞳が、赤色から元の赤茶色の瞳に戻った。

「右京、牡丹。折角仲良くなったけどさぁ、将司きっともうアカシヤには通ってくれないよ。残念」

「だろうな」

 カウンターで掃除をしていた右京が、嬉しそうに目を細めた。「彼は、家族と共に名古屋に帰るだろう。その方がいい。家族は、離れてはいけない」

「だけどね、あの浮気男には、もっときつい夢幻を見せて、お灸を据えても良かったと思うのだけれど。相変わらず、脩は甘いわね」

 右京の言葉を聞いた牡丹が、冷徹な微笑みを浮かべた。
 
「ひえー。牡丹は容赦無いね。あれ以上の悪夢を体験したら、将司が壊れちゃうよ」

「あんな図々しい浮気男、壊れたりしないわよ」

「いや、牡丹は解ってない! 男は結構繊細なんだよ?」

「そうかしら。女性の方が繊細よ」

「言うねー。じゃあ今度、繊細勝負しよう!」

「ふん。くだらない」

 一蹴された。

「そろそろ店を閉める時間だ。二人して喋っていないで、電気を消してくれ。私達も眠りに就くとしよう」

「はーい」

 右京には逆らえず、脩は肩をすくめて外の電気を消しに行った。


 今日も彼等の不思議な力で、一人の人間が救われた。


 優しく光っていた灯りが消え、アカシアに静寂が訪れた。
 一体明日は、どんな願いをするお客(にんげん)が、ここへやって来るのだろうか――



 
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