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CASE5.

梅谷恵三

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 梅谷恵三(うめたにけいぞう)は、大変残念がっていた。久方ぶりに二歳になったばかりの孫、飛成(ひなり)に会えると思っていたのだが、息子夫婦の都合が悪くなったのだ。というのも、義理娘の両親が孫見たさに突然、息子夫婦の家を訪ねたというのだ。
 お陰で、正月にこちら京都の梅谷家に、帰省が出来なくなってしまったのだ。
 予定も決まっていた長男の実家が優先だろう、と恵三は怒ったが、来てしまったものは仕方がない、義理の両親だし追い返すわけにもいかない、また改めて顔見せに行くから――と、息子の恵二(けいじ)に窘められたのだ。
 元旦から楽しみを奪われてしまった恵三は、何もする気が起きず、三日三晩寝正月で過ごした。

 どんよりとした空気を醸し出し、ため息ばかり吐いていると、伴侶の梅谷ヨネに、辛気臭い顔をするなら近所を散歩でもして来い、と迷惑そうに家を追い払われた。掃除ができなくて困る、とぼやかれたのだ。
 釣り仲間も、将棋仲間も、囲碁仲間も、みんな外へ出払うか、孫やら家族やらの帰省があり、誰も相手にしてくれない。今年八十歳になる恵三は、元気だけが取り柄だと自慢し、孫といつでも遊べるように、とウォーキングに精を出していた。

 十二月に入ってから一日も欠かさずウォーキングで足腰を鍛え、頑張ったにも関わらずの悲惨な結果に、恵三は肩を落として歩いた。
 正月なので、行きつけのスナック『ドリー夢』も休業だ。正月休暇知らせの張り紙を見ると、末の十二月二十八日から、一月五日まで休業、六日から営業と書かれていた。現在四日だから、飲みに行くにもまだ先だ。
 シングルマザーで奮闘している、ドリー夢看板娘の真由美と話すのが、恵三の楽しみなのだ。
 昼カラオケが出来るように、店を元日から営業にすればいいのに。暇な年寄りがみんな集まって儲かるぞ――そんな風に思ったが、店が営業になる訳でもないので、諦めて通り過ぎた。


 行く当てが無いので、恵三がよく訪れる公園に向かった。ベンチがところどころに置いてあるので、休憩に持ってこいなのだ。自分と同じ様な、見るからに暇そうなジジイが座っている事が多い。

 しかし今日は、誰も居なかった。

「ジジイは居場所が無い」

 ぼそぼそとぼやいて、ため息を吐いた。生い先短い人生、孫と会う事だけを楽しみにしていたのに、一体どうしてくれるのやら。義理の両親の常識の無さに悪態を吐き、恨みを込めた目で空を仰いだ。冬の空は乾燥しており、風もそれなりにあるので、雲の流れが少し早い。良い天気だから散歩には適しているのだが、楽しみを奪われた今では、楽しい散歩気分にはなれなかった。

 一人ため息を吐いて俯いていると、どうされましたか、と声を掛けてくる女性がいた。
 見ると、四十代前半くらいの年齢の、綺麗な中年女性が立っていた。黒髪のセミロングで、長い前髪は左右に分けて流しているので、綺麗なおでこが出ている。一重で狐のように少し目じりが上がり気味だが、なかなかの美人だった。鼻は高く、自然なメークで好感が持てた。

「ご気分でも、悪いのでしょうか? 大丈夫ですか?」

「ああ、いやいや。ちょっとね、散歩の休憩だったんだけど、嫌なことがあってね」

「大丈夫なら、良かったです」

 白い歯を見せて、笑ってくれた。恵三は、おや、と気が付いた。彼女は何時も暗い顔をしながら、ベビーカーを押して散歩をしていた女性だったからだ。
 年末見かけたときは、大層疲れた様子だったが、今はかなり輝いて見える。同じ女性とは思えないが、何時も見かけていた、同じメーカーのベビーカーに、赤ん坊をあやす為の、丸くて赤いボールのようなものがぶら下がっているから、恐らく普段見ていた女性に間違いは無いだろう。
 ジジイになってからは特にすることが減ったため、よく人間ウォッチングをしていたから、恵三は人を覚えることについては自信があった。

「わざわざこんなジジイに声をかけてくれて、どうもありがとう。親切だね。奥さん、お名前は? 儂は梅谷恵三。鬼婆に家を追い出されてね、今現在、家無きジジイ」

 面白い自己紹介がウケたのか、女性は楽しそうに笑ってくれた。

「私は、牧です。牧睦美。梅谷さんが苦しそうなのかと思って、声を掛けました」

「ありがとう。正月に孫が儂の家に来てくれる予定だったんだが、生憎来れなくなってしまってね。家で籠っていたら、ババアに追い出されてしまったんだよ」

「まあ、それはお気の毒に。お孫さんに会うのは、祖父方にとっては、楽しみのひとつですものね」

「そうなんだよ! 睦美さんは理解あるねえ」

「いえ、それが実は、それ程理解が無くて、今までは実家が遠いからと、正月もロクに帰らない親不孝をしていたのですが、今度主人が休みを取ってくれることになり、北海道に帰省しようと思っているのです。あ、私の実家は北海道なんです。でも、北海道は京都からは遠くてキップ代も高いし、この子も小さいから行くのは難しいかと思っていたのですが、主人が行こうって言ってくれたんです」

 だから彼女は元気になったのか、と恵三は納得した。遠い地で両親にもなかなか会えずに、彼女もきっと淋しい思いをしていたに違いない。
 自分も若い頃、独立して家庭を持ち、実家の両親に久々に会った時は、やはり嬉しく思ったものだと昔を思い出した。何時まで経っても、幾つになっても、親は親であり、会えば安心するものだから。

「ふふっ。私の願いが、嬉しい形で叶いました」

 何時もくたびれた顔をしていた彼女が、ハツラツとした良い顔で笑った。
 特に気にして見ていた訳では無いのだが、すれ違ってよく見かけていた人物が幸せそうにしているのは、こちらとしても喜ばしい事である。不幸より、幸せの方がずっといいから。

「そうか。それは神頼みでもしたのかね? いいなあ。儂なんか正月すっぽかしたから、願いもクソもありゃしないよ。アハハ」

「あら。そうしたら、梅谷さんにも幸せのお裾分けです」

 睦美はハンドバックの中から、お守りを取り出した。「お守りごと差し上げます。幸せのお守りです」

 彼女が手にしたのは、四葉のクローバーの守り袋に『幸せ守』と書かれていたものだった。中から小さく折りたたまれた白い用紙を取り出し、恵三に手渡した。

「梅谷さん、この坂を上りきった所に、アカシヤという小さくて不思議なカフェがあるんです。とても素晴らしいお店ですよ。ぜひ行ってみて下さい。お喋り好きの男の子がいます。脩君に、美人のウェイトレスの牡丹さん、マスターの右京さんです。梅谷さんもきっと気に入りますよ。私、このお店をある人から紹介してもらって、本当に幸せになりました。北海道へ帰省できるのも、このお店のお陰なんです」

 恵三が渡されたチラシを開いて見た。

 カフェ『アカシヤ』で、憩いのひと時を。
 珈琲ソムリエの淹れる、薫り高い珈琲、マスターの手作りケーキと一緒にいかが。

 このチラシをご持参の方、ご飲食代半額に致します――


 チラシには、そんな風に書かれていた。

「へええ。行ってみようかな。どうせ暇だしなぁ。当分家無きジジイは健在だから」

「アハハ。梅谷さん、面白い」

「袖振り合うも他生の縁だ。睦美さん――むっちゃんでいいかな? むっちゃんがお勧めしてくれたカフェ、行ってみるよ。ありがとう。でもその前に、ちいちゃいこの赤ん坊、抱っこさせて貰ってもいいかね?」

「あ、どうぞどうぞ。心菜って言います。元気いい女の子ですよ。人見知りしないんです。沢山抱いてやって下さい」

「どれどれ。おおー、まあ、何と可愛らしい」

 恵三は皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにして、心菜を抱いて喜んだ。ミルクを飲んで散歩中だった心菜はご機嫌で、しきりに手をパタパタさせていた。

「こんなに、こんまい(小さい)時が誰でもあるんだなぁ。ジジイになったら、やれ腰が痛いの、膝が痛いの、どこどこの病院へ通っているだの、暗い話ばかりだから、小さい子と触れ合う事で元気を貰えるからね。ああ、心菜ちゃんを落とすといけない。むっちゃんに返すよ」

 しっかりと抱いているが、あまりに腕の中でパタパタするものだから、責任感が強い恵三は心菜を落とさないように気を付けて、ベビーカーに戻した。

「ありがとう。とても良い触れ合いをさせて貰った。今から何処かへ行くのかね?」

「はい。散歩して、旅行代理店が空いていれば、帰省と旅行を兼ねて、北海道行の飛行機のチケットや宿を予約してしまおうと思いまして。だからこのまま、駅前に行こうと思っています」

「それはいい。気を付けて行きなさい。むっちゃん、また会おう」

「ええ。梅谷さんもお気をつけて。さようなら」

 手を振って睦美と別れた恵三は、さっそく坂を上った。年寄りにこの坂はキツイ、とぼやきながら。
 杖をつき、ようやく上りきったその先には、雰囲気のある森の入り口小さな社、狐を祀った銅像が数体あった。そしてその隣に、小さく佇むカフェがあった。

「ここかな、むっちゃんが教えてくれたカフェは」

 店の傍には小さな看板が出ており、『アカシヤ』と書かれているので、間違いは無さそうだ。恵三はゆっくり歩いて、木製の扉を押し開けた。
 ちりんちりんと、鈴の音のような音が頭上で響くと、レジ付近にいた若いウェイターが声を掛けてくれた。


「いらっしゃいませ。アカシヤへようこそ! チラシをご持参のお客様ですね。どうぞ、こちらへ」


 老人だからだろうか、ワインレッドのエプロンを付けたウェイターがソファー席に案内してくれようとしたが、恵三は制した。

「カウンターでいいよ。カウンターの方が好きだから」

「了解! こっちだよ」

 恵三は驚いた。突然フランクに話し出す青年を、今までに見たことが無かったからだ。でも、彼の優しい雰囲気は憎めないし、嫌な気もしなかった。

 案内された木製のカウンター内に、目を見張る程に美しい銀髪の男性が立っていた。流れるように美しい銀髪、涼し気な目元に柔和な微笑みを浮かべるその姿は、さぞかし女性客にモテるのだろうと推測した。ギャルソンのような恰好で真っ白のシャツに、黒の短いベストを着用していた。
 先程までぼんやりカウンターに座っていた美しい女性は、黒くややパーマのかかったロングヘアに、切れ長の涼し気な目元に気怠さを滲ませていた。
 黒いAラインワンピースに白いエプロンという姿で、赤いハイヒールが特徴だった。

「こりゃまた別嬪さんだなぁ」

 恵三は感心して呟いた。後五十年若かったら頑張ったのに、と冗談を飛ばしたら、妖艶な微笑みが返って来た。
 店内を見回すと、モダンでアンティークな雰囲気の店内の右側に暖炉があり、薪がくべられていた。室内は温かく、適温に保たれていた。

「メニューはこちらです。どうぞ」

 目の前の銀髪の男性が、恵三にメニューを渡してくれた。手に取って見ると、少し古い木製板に、和紙で出来たメニューが貼られていた。

・珈琲 500円
・手作りケーキ 500円
・ドリームソーダ 500円

 メニューはたったこれだけだった。

「えらく少ないメニューだな。他に無いの?」

「小さい店ですので、多くを置くことが出来ません」

 悪びれた様子もなく、銀髪の男が言った。恵三は睦美の情報を思い出した。お喋り好きの脩、美人の牡丹、そしてどう見てもこの男が、マスターの右京だろう。

「えー、あんたが右京さん?」

「はい。左様でございます」

「実はね、さっき公園で仲良くなったお嬢さんに、この店の事を聞いてきたんだ。何やら幸せになれるとか」

「そうですね。美味い珈琲を飲めば、幸せになれますよ」

「そうか。うーん、でも儂、珈琲飲めないんだよ。専ら酒ばっかりで。せめてビール無いの?」

「ビールは置いておりません。勿論、アルコールも置いておりません」

「まあ、カフェなら仕方ないか。そしたらドリームソーダってやつ、くれる?」

 ドリームソーダと伝えた途端、目の前の右京が少し目を開いた。涼しげな眼もとに変化が現れたのだ。

「どうかした?」

「ああ、いえ。何でもございません。ドリームソーダですね。少々お待ちくださいませ」

 右京は優しい微笑みを浮かべると、手際よく恵三の為にドリンクを作り始めた。

「右京さん、この店は長いの?」

「いいえ、つい最近オープンしたばかりです。お客様の皆様、口コミで来ていただいております」

「ふーん。儂も釣り仲間に紹介しておくよ。あ、でも、アルコール無いもんなぁ。儂の知り合い連中、昼間からビール飲むやつばっかりでな。アハハ。この店には、ちょっと不釣り合いかな?」

「いいえ。ご友人等にご紹介頂けると助かります。見ての通り、暇な店ですので」

「あっはっは。正月早々頑張って開けていてもボウズ(来客がゼロの事)じゃ、立つ瀬無いわなぁ。でも、今日は儂が来たからボウズじゃないな」

 恵三は愉快そうに笑った。恰幅の良い体形が、笑った瞬間にゆさゆさと揺れた。

「お待たせいたしました。ドリームソーダで御座います」

 会話の間に右京がドリームソーダを完成させ、恵三の目の前に置いた。赤いストローに輪切りのレモンが付いており、美しい虹色の不思議な飲み物が、目の前で輝いている。

「こりゃまた、牡丹さんに負けず劣らずの美人飲み物じゃあ」

 恵三は驚いて声を上げた。

「お褒め頂き光栄ですわ。有難うございます」牡丹が恵三の後ろから声を掛けた。「この店は、どなたからご紹介を?」

「ああ」恵三は早速ストローでぐるぐる中身をかき回しながら言った。「えーと、確か、牧だったな。牧睦美さんからだよ。むっちゃん。仲良くなった女性に聞いた。これ、チラシ」

 小さく折りたたまれたものを開いて見せた。「半額にして貰えるなんて、嬉しいねえ。年金暮らしのジジイには有難いよ」

「そうでしたか。睦美さんですね。また彼女がご来店の際には、礼を言っておきます。恵三さん、他の方をご紹介頂ければ、何度でも半額でご提供致しますよ。是非、恵三さんの人脈で、アカシヤを広めて下さい」

「ははは。茶飲み友達なら、カフェで珈琲とケーキもいいな。お、美味い。このドリンク、美味いぞ。アンタ、良い腕してる」

「有難うございます」

「何でまた、ここで店を?」

「この土地が好きだからです。この丘から見る、京都の町が大好きでして。私や牡丹、勿論脩も、生まれも育ちもこの小さな町なのです。だから、ここで店をやりたいと思いまして。でも、駅前は家賃が高いでしょう。メニューも増やせないので、町はずれの小さな店舗を借りることにしました。口コミが広がっていて、辺鄙な割にはお客様に支えられております」

「ふうん。そうかあ。応援するよ」

 恵三はそれから、右京と暫く会話を楽しんだ。
 楽しい時間はあっという間に過ぎた。帰宅しようと思ったのは恵三の腹の虫が鳴り、時計を見て慌てたからだ。

「おお、もう昼をゆうに超えているぞ。こりゃ、そろそろ帰らにゃ、鬼婆に叱られる」

 恵三は身支度を整え、慌てて席を立った。会計の為に傍にやって来てくれた脩に、五百円玉を渡した。

「恵三さん、また来て下さい。貴方とのお話、大変楽しかったです」

「うん、また来るよ。儂が紹介して声を掛けられるのは、ジジババばっかりだけどいいかな?」

「勿論です。どなたでも、お幾つの方でも、大歓迎です。それより恵三さん、ひとつお伺いしたい事があるのですが、よろしいですか?」

「ああ、何でも聞いてくれ」

「もし、貴方がひとつ願いを叶えるとしたら、どんなことを願いますか? 何でも叶うとしたら、何を叶えたいですか?」

「あ、うーん。そうだな。孫に会いたいなぁ。さっきも話しただろう? 孫に会えなくて元気半減だ。鬼婆には邪険に扱われるし、とんだ正月だ」

「そうでしたか。これはあくまで噂なのですが、このカフェに来ると、一つ願いが叶うらしいのです。貴方の願い、叶うといいですね」

「ありがとう。そっちこそ、この店が繁盛するといいな」

 脩から釣銭を受け取り、恵三は店を出た。昼の十二時半なので、そろそろ帰っておかないとヨネの雷が落ちそうだが、どうせここまで遅くなったのなら、正月に参拝に行けなかったので、ついでに手を合わせて行こうと思い、傍の社に立ち寄った。
 祠からぶら下がっている鈴緒を鳴らすと、先ほどのアカシヤと同じ音色が鳴った。

「不思議なものじゃ」

 先程のアカシヤで貰った釣銭を投げ入れ、一礼二拍手で手を合わせ、恵三は神に祈った。


――今すぐ孫に会えますように。常識の無い義理両親や、うるさい息子夫婦には引っ込んで貰って、儂だけが孫と遊べますように。


 そう願っていて、恵三はハッと思いついた。
 そうだ。会えないなら、義理両親と同じ様に、自分から会いに行けば良いのだ。
 どうして気が付かなかったんだろう!
 娘婿の住まいは、山梨県だ。新幹線に乗って、こちらから出向けば良いだけの事。


 そうと決まれば、善は急げ。恵三は早足で家路を急いだ。


 遅い昼食を家で食べ、恵三は早速ヨネを説得して旅行の用意を頼み、とりあえず一人で駅前の旅行代理店、スター・トラベルに向かった。
 今日の夜、すぐに宿泊できる宿と新幹線の手配をして貰う為だ。

 旅行代理店は一月四日から仕事を始めており、開業していた。ここへ寄ると言っていた睦美がいるかと思って探したが、すでに彼女は帰ったのか、もういなかった。
 正月明けなので店はさほど混雑もしておらず、すぐに自分の順番が回ってきた。番号を呼ばれたので専用の席に行くと、目の前に『岩里』と名札のついた若い女性社員がおじぎをしてくれた。
 ふんわりとしたミドルボブの黒い髪に、愛嬌のある目の大きな可愛らしい女性で、好感が持てた。

「いらっしゃいませ。本日、お客様の担当をさせて頂く、岩里と申します」

 スター・トラベル お客様窓口担当 岩里恵津 と書かれた名刺を渡された。

「早速ですが、本日は如何させていただきましょうか。行き先等はお決まりでしょうか?」

「あ、えーっと、山梨県まで。切符とレンタカーとホテルの手配をして欲しいな。儂と妻の二人分」

「承知致しました」

 希望を伝えると、恵津が専用のパソコンで調べ、あっという間に二人分の新幹線の切符、予算に合わせた宿泊ホテル、レンタカー全てを手配してくれた。

「お二人でご旅行ですか?」

「うん。まあね。孫に会いに行くんだ」

「おじいちゃまやおばあちゃまが来てくれたら、お孫様も喜ばれますよ」

「そうかな」

 恵津の言葉に、恵三は嬉しくなった。

「あら。お鞄に付けられたお守り、素敵ですね。幸せ守りですか」

 先程睦美から貰った、四葉のクローバーが描かれたお守り袋を見た恵津が、笑顔を見せてくれた。
 
「うん。これさっきね、公園で会った女性に『幸せのお裾分け』だって、貰ったんだ。面白いカフェも紹介して貰って、さっき美味しいドリンク飲んで来たんだよ」

「そうなんですか。もしかしてそのカフェって、坂の上にある、小さなお店のアカシヤですか?」

「そうそう。アカシヤ! 口コミで広めてくれってさ。岩里さんも知っているの? へえー。あんな小さな店で暇そうだったのに、結構人気なんだなぁ」

「そうですね。あのお店に行ったお陰で、私も幸せになれました。もうすぐ大好きな彼と結婚するんです」

 恵津が幸せそうにはにかんだ。幸せ溢れる笑顔だった。

「おお、そりゃおめでとう。幸せになるんだよ」

「はい。ありがとうございます。梅谷さんのように、お年を召してもご夫婦で旅行ができるような、仲の良い夫婦を目指して頑張ります」

「はっはっは。儂のカミさんは鬼婆だから、岩里さんも亭主に雷を落とさないよう、気をつけなさい」

「まあ」

 ふふふ、と恵津が笑った。
 他愛もない事で談笑し、提示された金額を支払って店を出た。
 店を出る際に、恵津が教えてくれた。アカシヤに訪れた者はみんな幸せになるから、梅谷さんもきっと幸せになれますよ、と。
 家に帰って旅行の用意ができている事を確認し、タクシーを呼んで京都駅まで向かい、早速新幹線に乗って山梨を目指した。
 突然行って驚かせる作戦だが、流石に夜の訪問は非常識だと考えたので宿を取り、翌日の朝に息子夫婦の家を訪ねた。
 彼らの家を訪ねると、早速息子の恵二に迷惑そうな顔をされたので、恵三はムッとなった。
 連日両親たちの相手をする身にもなってくれよ、アポ無しで来るなんて非常識すぎるだろ、と言われたので、ますます義理の両親を疎ましく思った。
 二度とこの家に来ないで欲しい、と、そんな風に考えてしまったのだ。

「飛成と遊んだら、すぐ帰るから」

「ご両親が、三日まで居たんだ。流石に連日だから、悪いけど今回は飛成と遊んだら、帰ってくれ。正月が全然休めなくて、クタクタなんだ」

「すまんな」

「こっちも京都に帰るつもりだったのに、悪かったよ。でも、こういう事情だから、解ってくれよ、親父。そんで、来るなら一言でいいから言ってくれ。こっちの都合も聞いて欲しいし」

 恵二に説教された。
 だから言わんこっちゃない、アポ無しで来るなんて、非常識だ、とヨネにも叱られた。
 こうなったら、ウルサイ親族は全員いなくなれ、と恵三は心の中で悪態をついた。


 暫くして飛成が、三輪車に乗りたいと言い出した。恵三が面倒を見るのを引き受けたので、ヨネを買い物へ息子夫婦が連れ出してくれた。
 暫く公園で飛成と遊んだ。想像以上に幼児の相手は疲れたが、やはり可愛さには勝てない。少々しんどいのは辛抱できたが、膝や足はかなり限界だ。
 
「じぃじー。ぶー、しい(欲しい)」

 三輪車に乗った飛成が、近くのおもちゃ屋で売っている車のおもちゃが欲しいと言い出した。飛成が三輪車に乗り、先導して案内をしてくれているのだが、公園を出て少し坂のある道を下っていると、酷使して限界を超えた膝に、ズキリと痛みが走った。
 あまりの痛さにもんどり打ち、恵三はそのまま蹲った。しかし、飛成は止まれない。坂をそのままコロコロと三輪車で転がって行った。

「飛成っ、ひなり――っ!」

 あれだけ鍛えたのだ。十二月、飛成に会いたい一心で、散歩にウォーキングを頑張ったのだ。

 動け!
 動け!

 しかし必死の願いも空しく、足は動かなかった。無駄だと解っていても、三輪車の妨害になるかもしれないと思い、杖を思いきり投げた。しかし明後日の方向に飛び、電柱にぶつかって持ち手が少し欠けただけだった。
 飛成が乗った三輪車は坂を勢いよく転がって行き、コントロールを失って歩道を乗り越えた。車道に出てしまった途端、坂の下から走ってきた猛スピードの車に衝突して止まった。


 急ブレーキの音が耳に張り付いた。
 カラカラと乾いた車輪の回る音だけが、辺りに響き続けた。


 倒れてしまった恵三の、目の前での出来事だった。
 想像を絶する恐ろしさで、立ち上がって孫の無事を確認する事ができなかった。



「ひなりっ、飛成――っ、うわああああ――――っ!!」



 恵三はその場で泣き崩れた。
 その時、恵三は激しく後悔した。



――飛成に会いたい。邪魔な家族には引っ込んで貰って、自分だけが孫と遊びたい。



 どうしてアカシヤで、あんな事を思ってしまったのだろう。
 ポンコツの身体では、元気な孫と遊ぶには間に合わなかった。
 正月を台無しにされたから、不貞腐れていた。
 孫とただ、少し触れ合いたかった。それだけなのに。


 もしも。
 もしも本当に、願いが叶うというのなら。



 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 恵三はひたすら懺悔し、強く願った。



 会いたいと思わなければ良かった。
 息子夫婦にも迷惑をかけてしまった。
 孫をこんな目に遭わせるつもりは無かった。
 ジジイは家で、大人しく待っていれば良かったのだ。


 神様、どうかお願いです。




――あのつまらない願いを、どうか取り消しにしてください。アカシヤに行って幸せになるというなら、自分は要らない。孫を助けてください。大切な孫が助かるなら、なんでもします。老いぼれジジイの命を持って行ってください。惜しみなく差し出します。だからどうか、どうかお願いします・・・・。





――――――・・・・・・・・





 


「・・・・三さん、恵三さん」



 心地よく低い声に呼ばれ、恵三は目を覚ました。目に一杯涙がたまっており、瞬きをするとボロボロと零れた。
 恵三の前には、アカシヤのマスターの右京が立っていた。

「お疲れの様ですね。おや、でも見られましたか?」右京が目を細めて微笑んだ。「こちらをどうぞ」

 タオルウォーマーから温かいおしぼりを出してもらい、手渡してもらった。顔を拭くと随分さっぱりした。

「おお、ここはアカシヤ・・・・?」

「はい。お喋りに疲れたのですね。少し、眠っておられました。そろそろ帰らないと、奥様が怒っていらっしゃるのでは無いですか?」

「ん? えーっと・・・・」

 恵三は腕時計を見た。時間だけでなく、日付も見られるタイプのものだ。デジタルウォッチの数字は、2020/1/4  PM12:31となっていた。

「やや!?」

 恵三は目を見張った。おかしい。確か1月5日の午前11時過ぎだった筈だ。孫の飛成と遊んでいて、恐ろしい事故を引き起こしてしまったと思っていたのだが――?


 
「そろそろお帰りの方がよさそうですね。また是非いらして下さい」

 狐につままれたように、恵三はしきりに首を傾げた。脩が会計に来てくれて、釣銭を貰って、右京が見送ってくれる――デジャヴだろうか?

「恵三さん」

 右京に呼び止められた。

「何かな?」

何よりで御座います。どうか、恵三さんが幸せになりますように。私たちはいつでも、貴方の幸せを願っています」

 右京の言葉に、恵三は目を見張った。一歩踏み出そうとして杖を握ると、先が欠けている事に気が付いた。



――これは飛成を助けようと、杖を投げた時にできたもの・・・・。



 恵三は全てを悟った。先程体験した夢は、不思議な夢であって、夢でないものなのだ、と。
 孫の幸せを願った時、恵三の本当の願いが叶ったのだ。
 自己欲を優先させるものではなく、誰かを思って心から願う事だけが、叶うのだ、と。

「ありがとう。また来るよ」

 恵三はそれだけ言うと、アカシヤを後にした。
 家に帰り、息子夫婦に会いに行こうと言い出す事だけは、絶対に避けようと思った。
 ただ、不安だったので飛成の声を聞こうと思い、遠慮がちに彼らの家に電話をした。

『はい、梅谷でございます』

 電話に取ったのは、恵二の嫁、実花(みか)だった。恵三が名を名乗ると、相手が慌てた。

『ああ、お義理父(とう)様。この度は帰省ができず、ご迷惑をお掛け致しました。本当に申し訳ございません』

「ああ、いや。いいんだ。実花さんのご両親も、飛成に会いたい気持ちは解る。こちらへはまた時間のある時に来てくれればいいから。あの、飛成の声を聞かせてくれないかな?」

『はい。すぐ傍におります。お待ちください。飛成、京都のじーじよ。声を聞かせてあげて』

 受話器からごそごそと音が聞こえてきた。

『じーじ』

 紛れもなく、愛する孫の飛成だった。それだけで目頭が熱くなった。

「おお、飛成! 元気か? また時間のある時に、じーじの家に遊びにきておくれ」

『いーよ』

「ありがとう。待っているよ。今度ママと一緒に、おもちゃ買いに行こう」

『ぶーぶ、ちい(欲しい)』どうやら欲しい車があるようだ。可愛くおねだりされた。

「おお、わかった、わかった。飛成の欲しいぶーぶを買いに行こう。また会いに来ておくれ」

『ばーばーい』

 電話が切られた。飛成が生きて、元気よく喋ってくれているだけで、十分幸せな事だと恵三は気が付いたのだ。
 無理に会いに行ったりせず、相手の家庭の事を考え、こちらはこちらで慎ましやかに彼らの幸せを願って暮らせばいいのだ。
 生い先短いジジイに出来る孫孝行は、これくらいしかできないから――そう思っていた矢先、恵三に幸せが突然訪れた。

 翌日の事。実花と恵二が飛成を連れて、恵三の家に遊びに来てくれたのだ。飛成が昨日恵三と話したものだから、どうしても京都のじーじとばーばに会いたいと言い出したことがきっかけだ。

「ありがとう。ありがとう。よく来てくれたね。ゆっくりしていきなさい」

 恵三は神に感謝した。アカシヤでの願い、確かに叶った。
 小さな孫を膝に乗せ、優しい温もりに包まれた自分は今、こんなにも幸せに満たされているのだから――


 そんな恵三の様子を見つめていた右京の瞳が、赤色から元の瞳に戻った。ふう、とため息を吐き、首を回した。

「お疲れ様、右京。その様子だと、上手く行ったのね」

「ああ。良かった。さあ、そろそろ店じまいをしようか。脩、看板を下ろしてくれ。ケーキも焼いておいたから、牡丹の珈琲で一息つこう」

「オーケー」

 早速脩はアカシヤと書かれた木製の看板を店内に入れた。

「そういえば、前々から聞こうと思っていたんだけどさぁー」

 本日終了の札を上げ、扉を施錠しながら、脩が右京に向かって尋ねた。店内はすでに牡丹の淹れる珈琲の香りで充満している。脩はこの匂いが好きだった。
 この匂いを嗅ぐと、自然と鼻がピクピク動く。エプロンの下から覗く尻尾も、大きく左右に揺れた。

「このお店、どうして『アカシヤ』って言うの?」

「脩、気づいていないのか。これだからお前は・・・・まだまだ半人前だな。だから術を使うと疲れて文句が出るのだ」

 右京に呆れた顔をされた。

「どうせ半人前ですよーだ」

 プッと顔を膨らませ、奥のソファー席にどん、と身体を投げ出した。
 自分たちの毛で作ったソファーは触り心地も抜群で、気を抜くと昼寝をしてしまいそうになるのだ。

「珈琲入ったわよ。取りに来て、脩」

「やったー」

 カウンターの傍の棚から銀トレイを取り出し、脩は右京の手作りケーキと、牡丹の珈琲を三人分乗せてソファーの席まで運んだ。
 焼きたてのケーキの甘い香りと、珈琲の香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。

「早く食べよっ」

 幼い性格の脩は、尻尾を揺らしながら二人が来るのを待った。
 右京や牡丹はエプロンを外してカウンターの席に掛け、脩の待つソファーに向かった。

「今日もいい仕事ができた。牡丹の珈琲で乾杯しよう」

「カンパーイ」

 右京の乾杯の音頭は、何時も変わっている。必ず『牡丹の珈琲で乾杯しよう』と言うのだ。

「うむ。いい香りだ。味も申し分ない。仕事の後の一杯は格別だな」

「右京のケーキも美味しいわよ」

「最っっ高」

 三人で談笑しながら、ティータイムを楽しむのが、何時ものアカシヤの風景だ。

「そうだ。そうそう! 右京、さっきの話っ。どうしてこのお店、こんなに変わった名前なの? アカシヤなんて、ダサくない?」

「名前など、我々にとってはどうでも良い事に過ぎない。でも、人間がここを見つけるヒントになるだろうと思ってな」右京は笑った。「我々は何者だ、脩」

 脩は右京の質問の意図が分からず、頭にクエスチョンマークを浮かべている。
 
 腕組みをして、真剣に考えているが、一向に解る気配が無いので牡丹が助け舟を出した。

「妖、でしょ。バラしてみたら、解るわ」

「妖? バラす? あ・や・か・し・・・・あぁ――っ、成程ぉっ! 流石右京だね!」


 そう。ここは、妖が営むカフェ『アカシヤ』。
 京都盆地の、町はずれの坂を上がりきった森の小さな社の傍にある、不思議なカフェ。

 あなたがもし、何か困ったことがあり、大切な何かを忘れていたら、この扉が開くだろう。
 美しい鈴の音色が響くドアベルの音を聞き、ドリームソーダが見えたなら、きっとあなたの願いは叶うはず。


 彼らはいつでも困った人間の為に、
 不思議な術を見せ、
 あなたの願いが叶う手助けをしてくれるのだから――





 -完-





 
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