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音沙汰
しおりを挟むアイヴァンが来る…
レオから告げられた言葉を何回も頭の中でライラは反復する。
あの夜…思い出すたびに顔が赤くなるが、どこか胸がいっぱいになると同時に、エルメレにやってくる一行の事でライラの体は緊張し、硬くなった。
アイヴァンが怖いのか、はたまた欺いて逃げた罪悪感なのか…
それはまだライラには分からない。
休日の朝方、ライラは狭い部屋の窓際に置いた2つの植木鉢をより日光の当たる場所へ動かす。大爺様から分けてもらった赤い実だ。
バイラム殿下からどうにかならないかと文を貰い、こうしてとりあえず育てている訳だが…
ウーゴが許さないのをバイラムは見越していたらしい。わざわざ大爺様では無く、ライラに文を出したのだから。
ライラとしても、皇族に気に入られて悪い事は無い。
出来るだけ、自分の評判が良ければあるいは…手も足も出ない身分の人の近くに、ほんの僅かでも居られるかもしれない。
あり得ない事だと分かっているが…
自分が擦り切れるまでは足掻くことにした。
正しく病気と言っていいだろう。
レオと会った日以来、差し出し人の名前の無い手紙や小さな花束が時折届く。
内容は誰に見られても困らない、簡単な文章だ。
それでも、誰が送ってくるのか、ライラには分かる。
その品よく可愛らしい花達が届く度、いつかのアイヴァンの屋敷がまるで花畑のようになったことを思い出した。
瑞々しく麗しい香りに、気持ちは自然と和らいでいく。あの屋敷の中でも、この手狭な部屋でも…それは変わらない。
花の香りに包まれながら、一言二言しかない手紙の丁寧な文字を、ライラは何度も指でなぞる。
そうすれば、緊張した体も少し楽になった。
『…これを、レイモンド殿に?』
フィデリオは人払いをした自らの屋敷で、レイモンドと向かい合わせに座っている。
レオは、フィデリオのすぐ後ろに控えて、フィデリオと共にレイモンドの話に耳を傾けていた。
『私がこれをフィデリオ殿下にお渡しするのは、エルメレの方々に謂れ無き疑いを持たれない様にしていただきたいからです…』
レイモンドは大きな体の背を丸めて、気まずそうにそう溢す。
『誰もレイモンド殿を疑う訳は無い。クレイグ…殿は勿論、我々はフォーサイスの皆様に感謝している』
フィデリオがそう言っても、お互いの纏う空気にはどことなく緊張感があった。
腹の探り合い…
皆家門を背負い、国も違う。
信頼しているが、油断は出来ない。
とはいえ、フィデリオはレイモンドの行いに、確かな誠実さと忠義を感じた。
『…噂が出回っている様なのです。真実を知る者が漏らすとは余り考えられません。…死亡確認をしたのは、他でも無い兄ですから。面倒ごとに巻き込まれたい方は居ないでしょう。
手紙の送り主は、カマを掛けてお戯れなのかもしれませんが…。そして、既にご存知の様に…』
『…エドガー殿の事か?』
フィデリオの言葉に、レイモンドは喉を鳴らし、ゆっくりと頷いた。
『私達も既にそれは把握している。もし彼が噂の出所であっても驚く事は無い。
この手紙にエドガー殿の名があるのも不思議では無い。フェルゲイン侯爵家と北の氏族は切っても切れない縁…
何せ、エドガー殿はフェルゲイン侯爵家の嫡男、アイヴァン殿の兄君だ。
フェルゲイン侯爵家も、新しい家族をあんな風に失えば疑いたくもなるだろう。 ザイラ殿の亡骸を最後に見たのは我がエルメレの医師とフォーサイス医師だからな。
だが…ザイラ殿は既に墓の下に眠られている。噂は噂に過ぎない。そうだろう、レイモンド殿?』
フィデリオは柔らかな表情でレイモンドにそう問いかけた。
『それは、勿論。そのつもりでおります。 …エドガー様がこちらに居るとは風の噂程度に私も聞いておりました。とはいえ直接の交流も無いので、まさか帝都に居るとは私も思ってもみませんでしたが…』
レイモンドの額に汗が滲む。
エドガーとは、フェルゲインとは親しいわけではないとなんとかレイモンドはフィデリオと…レオに伝えたい。
『心配する事は無い。だが、この文をレイモンド殿に送った相手は…どうやらエドガー殿とは別に、ライラ殿を餌にして何かを引き出したい様に見える。
…まぁ、難しい立場に居るのはよく理解できる。突っぱねても勿論良いが…』
さて、どうしよう…とフィデリオは微笑みを浮かべながら頭の中で考える。
後ろから何やら圧を感じていて落ち着かないが、それを顔に出す訳にはいかない。
レイモンドは先程からその圧に屈してチラチラとレオの表情を伺っている。
フィデリオも勿論気付いている。
気が利く故だ。そしてこのフォーサイスの弟は心根が優しく善人…とフィデリオが視線をレイモンドに向けた。
レオとライラの事は既にレイモンドには察して余りある。主に、レオがライラを…という所でレイモンドの推測は途切れているが、レオの心境を推し量るとレイモンドは余計に落ち着かない。
余りにもレイモンドがレオを気にするので、そちらの方がフィデリオは気になり、どこか可笑しさが込み上げて来た。
『レオよ、どう思う?』
不意に、フィデリオは後ろを振り向き、レオに声を掛ける。
『…どう、とは?』
思い人の元夫や厄介ごとがわざわざ海を渡ってやってくるのだから、苛立っているのは見て取れる。
首元の血管が浮き出ているので、歯をギリギリと噛み締めているのだろうとフィデリオは思った。
確かに、レオ本人からどうなったのかはフィデリオは聞いていない。
思い人の心のウチは覗けたのか…果たして2人はどんな関係なのか、レイモンドも1番気にしている所だろう。
『…不安や心配はあるか?ライラ殿について』
フィデリオはあくまで、揶揄う様に軽くそう言った。
レイモンドがギョッとしてフィデリオを見る。
『王国の御一行がご滞在中気は休まりませんが、…特段の憂慮はしておりません。何より、ライラ殿には関係の無い方達ばかりですので』
レオはただ真っ直ぐと前を見据えてそう言った。
『自信がある様だぞ、レイモンド殿』
フィデリオがレイモンドに笑みを向けると、レイモンドは気まずそうにキョロキョロと目を動かす。
『まぁこの話はこちらで一度預かろう。此度の報せ、感謝している。先日のトロメイの件に続き、心苦しい思いばかりさせてしまい申し訳無い』
『いえ…この上無い名誉です。日頃より、身に余るほど良くしていただいておりますので』
レイモンドはレオとフィデリオを交互に見ると、背を丸めて何度も軽く頭を下げた。
トロメイからの帰還以来、アクイラ卿はレイモンドをとても気にかけている、とフィデリオは知っている。
気にかけているというよりは気に入っていると言っていい。レイモンドが居なければ、恐らく皆無事には帰って来れなかったからだ。
そしてアクイラ卿のお気に入りと言う事は…キアラも同じだということもフィデリオは理解している。
元より、キアラはフォーサイスの一族を気に入っているが…
レイモンドが去った後、フィデリオは力を抜いてソファに体を預ける。
『随分自信があるんだな』
フィデリオはまた頭を逸せて後ろを見上げた。
『…』
またダンマリだ…まぁ詳細は言うなとフィデリオもレオに以前言ったので詰めるつもりは無い。
何より、レオは分かりやすい。
『御者も夜は寝かせてやれ。仕事に響く。
急いだ方が良いと言ったが、その足で行くとは私も思わなかった。情熱的で結構な事だ』
フィデリオが口の端を上げて揶揄うと、レオはフィデリオからの視線を逸らした。
『変装の仕方をよくよく指南してやる事だ』
『…っ私も最初は反対致しましたが、本人が仕事を全うしたいと仰るので……』
レオは不満気な気持ちを隠し切れていない口調でそう溢す。
『ほう。健気では無いか…王国に居た頃を思い出す』
フィデリオの言葉に、レオは微かに首を傾けた。
『分からないのか?』
フィデリオは大袈裟に目を丸くして見せる。
『今や身分も無い一介の教師と侯爵家の息子だぞ。事情を知らない者が見れば身の程知らず、不釣り合いだと思うだろう。 だが働きがそれなりに認められれば、かの婦人にもそれなりの地位が約束されるかもしれん。
お前に負担を掛けたく無いんだろう。 見合うようになりたいと、苦心してるように取れる。元はれっきとした伯爵令嬢であるのに』
横目で、レオを見るとレオの表情はいつもと変わらない。だがその耳がこれ以上無いほど赤くなっていた。
それに気付いてしまう自分に、フィデリオまでどこかこそばゆくなってくる。
一体どうなっているんだ…と見ていられなくなって、堪えきれずフィデリオはレオから視線を逸らした。
『…王国に居た頃、名ばかりの夫にもよく尽くす妻に見えた。婦人は献身が過ぎる性分のようだが、あれでは心身を削りすぎる。まぁ今はお前が婦人の為に寝食や心身を削っているが、私もよくよく気にかけておこう』
王国の一行が来ても、恐らく誰かの役に立とうとか、お人好しな事をされるとその身がバレてしまう可能性は一気に上がる。
『…先程の文の差し出し人、どうするおつもりですか?』
このタイミングでレイモンドに接触を図ろうとする人物について、レオは尋ねた。
『無論ザイラ殿は墓の下だ。
だが、向こうの目的はライラ殿では無いだろう。彼方も喉から手が出るほど此方とのパイプは欲しいはず…』
フィデリオは眉間に皺を寄せてそう答える。
『フェルゲインの内輪揉めは王国でやっていただきたいものです』
『…内輪揉めか。もう少しエドガー殿の事は情報が必要だな。文の差出人に聞くのが1番手っ取り早い。人選を誤らない様にしなければ』
フィデリオはレイモンドから預かった文にもう一度目を落とす。
王国の一行が来る…
余計な嵐をこちらに連れて来ない事をフィデリオは祈った。
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