私の夫は救えないクズ〜別れた先に幸福が待ってました〜

専業プウタ

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5.寿退社

会議室で西園寺奈々と二人っきりになった。
もしかしたら、退社を促されるのかもしれないと思うと怖くなる。

コネ入社だが、これまで私は仕事に全力で向き合ってきた。
そして実家がどうなるか分からない中、私の職と収入は手放せない。

会議室はしんとしていて、西園寺部長が息を吸い込むのが聞こえた。

「篠山さん。出社して急な提案なんだけれど、総合職に転向してみない?」
「へっ?」

予想外の事を言われて私はおかしな声が出てしまった。
父親が亡くなって忌引きから出社したばかりの私に提案する事なのだろうか。

そもそも、西園寺部長は午後から大阪の視察があるはずだ。
いつもの彼女なら、東京本社には出社せず新幹線で大阪に朝イチで行きおひとり様ランチを楽しんでいる。


「篠山さん、仕事もできるし、語学力も堪能じゃない。私が推薦状を書くからどう? 挑戦してみない?」
「⋯⋯」
総合職へ転向するなんて考えた事もない。
総合職の転向には筆記試験と面接に加えて上司からの推薦状が必要だ。

西園寺部長が私をじっと見つめてくるから、何か言わなければと慌てて口を開く。
「すみません。考えた事もありませんでした。私、総合職に挑戦出来る程、仕事ができる訳じゃないと思います」

本当は少し前までは、総合職の男性社員に対して自分の方がよっぽど仕事ができると思っていた。
でも、西園寺部長のように年次が上の人や男性社員を追い越して出世するような方に「仕事ができる」と言われると居心地が悪い。

「そんな事ない! 入社一年目から全力だったじゃない。社内用語試験だって全教科満点よ。取引先の評判も抜群だし、私は篠山さんのことを十年に一人の逸材だと思ってる」
西園寺部長ほどの人が私に対して、そこまで褒めてくれるのは流石に不自然だ。

社内用語試験は確かに皆合格点が取れる程度にしか勉強しないが、私は手を抜くのが苦手で冊子が暗唱できるくらい丸暗記した。
取引先の人が私に好意的だったのも、今となっては私が老舗洋菓子店の社長令嬢だったからな気さえしてくる。

ふと脳裏に先程出社するなり、「なんで来たの?」と言う目で見てきた同僚たちの顔が過った。
思わず吐き気がして口元に手を当てると、西園寺部長が心配そうに見つめてきた。

「篠山さん。こんな時に急かして悪いんだけど、総合職の転向試験の申し込みが今日までなの」
「⋯⋯すみません。せっかくのお話ですがお断りします。私、結婚するんです」

(今すぐ逃げ出しい。今すぐ⋯⋯)

「結婚? もしかして、エネルギー事業部の町田さんと?」
私と町田咲也の関係はどうやら西園寺部長まで知る仲だったらしい。

「違います。彼とは別れました。整形美容外科のドクターをしている彼氏がいるんです。彼に結婚したら家庭に入って欲しいと言われていて⋯⋯」
自分がここまで痛い人間だとは思ってもみなかった。
同情されるのも、蔑まれるのも耐えきれず、口からでまかせを言っている。

「そうなんだ。寿退社か。寂しくなるけれど、応援するよ」
微笑みながら手を出してくる西園寺部長の手を握り返し握手する。
スッと手が離れた時に、私は自分のことを本当に心配してくれている人の手を離してしまった気がした。

結局、その日、私は退職届を根津室長に提出した。

「有給休暇余ってるんだから使ったら?」
困ったように彼から言われて、私は了承する。

本来なら引き継ぎ業務があるはずだが、皆も腫れ物の私がいると仕事がやり辛いだろう。
そうして、私は会社から逃げ出し富永スバルに連絡をとった。

その夕方、銀座の隠れ家フレンチで富永スバルと落ち合う。

薄暗い照明の中、手慣れた感じで彼がオーダーをしていた。

「久子さん。ワイン、どれが良いですか?」
「すみません。お酒はちょっとやめておきます」
父が亡くなってから、お酒やカフェインといった嗜好品の類のものを体が拒絶している。
通夜振る舞いでも私はお酒を一滴も飲めなかった。

コース料理が始まるが、食欲が湧かない。
パテを小さく切って口に運んで少しずつ食べる。

「久子さん。僕とお付き合いしてくれるって本当ですか?」
「はい。冨永さんと結婚したいと思ってます。仕事も辞めてきました」
自分でもおかしな事を言ってしまったと思ったのに、何故か彼は机の下でガッツボーズしていた。

「えっ? 本当に? やったあ。じゃあ、この後、時間外で婚姻届出しに行っちゃいます?」
「えっと今日ですか?」

私が驚きを隠せないでいると、彼がカバンから本当に婚姻届を出してきた。
彼が書くべき欄はすでに記入済みで、二つある証人欄も既に知らない人の名前で埋まっている。

「これ、本物の婚姻届ですか?」
私は初めて見る茶色のラインが入った婚姻届を受け取りまじまじと見た。

「ふっ、久子さん可愛い。もちろん区役所で貰ってきた本物の婚姻届ですよ」
「この証人欄の白岩さんと小堺さんはどなたですか?」
「うちの病院で働いている看護師です」

私は謎の恐怖を打ち消すようにグラスの水を飲み干した。

富永スバルの顔をまじまじと見る。
非の打ち所がない美形、整形美容外科のドクター、今すぐ私と結婚したいという男。
今、藁にもすがたい状況だが、この状況が不自然極まりなく怪しいと言うことは分かった。

(もしかして、保険金殺人とか。詐欺案件?)

「冨永さん⋯⋯結婚はご両親に挨拶が済んでからにしませんか?」
私の言葉に一瞬彼が怖い顔をした気がしたが、直ぐに笑顔に変わった。

「父は二年前に亡くなりました。母は認知症で、もう息子の僕が誰だかも分かりません」
「すみません」

苦しそうな彼の顔を見て思わず謝る。
親を失う苦しみは私も知ったばかりだ。

ずっと頭の中に「何で、どうして?」が渦巻いる。
息をするのも苦しいだろうに、彼は必死に前を向いているのだ。

「いや、僕の方こそすみません。初恋の久子さんと一緒になれると思ったら嬉しくて焦ってしまいました。先に久子さんのお母様には挨拶に行きましょう」
「ありがとうございます」

♢♢♢

母に冨永スバルを紹介すると、涙を浮かべて母は彼に頭を下げていた。
事前に町田咲也と別れた事を伝えた際、母を不安にさせてしまったが私は再び彼女を安心させる事ができたようだ。

「良かった、本当に良かった。スバルさん、ふつつかな娘ですが久子を宜しくお願いします」
「僕としては、久子さんと結婚できるなんて奇跡のように感じています。彼女の幸せの為には何でもしたいと思ってます」
富永スバルが柔らかく微笑むと、母は私が聞くのも初めてな実家の借金三千万円について語り出した。

(何で、今、そんな事を話すの?)

私は母の精神状態が通常とは違うことにその時に気がついた。
初めて会った人に、家の借金について語るなんて非常識だ。
結婚するにしても、実家の借金は私が返したい。

誰かに負の感情を吐き出したいのか、母は話しながら泣き崩れた。
富永スバルはそんな母を支えるようにして、嘘のような微笑みを浮かべる。

(どうして、今、笑うの?)

「お母さん。大丈夫です。僕は特に趣味もないしお金を溜め込んでます。この家の借金を返せるくらいの蓄えはありますよ」
「本当に? スバルさん、神様のような方ね。久子は十年付き合った男にも捨てられて、この家以上に崖っぷちだったの。そんな売れ残りを高く買ってくれるの?」

母が彼に言う言葉に私は羞恥で死にたくなり、母の口を塞ぎたくなった。
こんな私を辱めるような言動をする人ではなかったはずだ。

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