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17.親公認の仲(咲也視点)
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俺、町田咲也は女が苦手だ。
「町田さん、今日もカッコ良いよね。来週からシンガポール行っちゃったら何を励みに会社に来たら良いのか」
「アイドルに推しでも作るか。正直、町田さん見てると、周りの男が同じ人類とは思えなくなるよね」
エレベーターホールに行くと、今日も女性社員が俺の噂話をしていた。
(本当に女って嫌だ)
噂話が好きで、恋に依存気味で、承認欲求が強い女が特に無理。
サッと非常階段の扉を開けて、階段で降りる。
(ここは一人になれる素敵な逃げ場だ)
女が苦手でも、世界の約半数は女。
自分の母親さえも苦手なのに、俺には大切な女がいた。
ーー篠山久子、十年付き合った俺の彼女で俺にとって自分よりも大切に思える唯一の人だ。
父親が検事で転勤族だったので、母親はCAをしていたが航空会社を辞めて専業主婦になった。
検事の転勤は、支部になると島に行く事もあるハードなものだ。
島というと左遷のようなイメージがあるが、検事や裁判官といった仕事では栄転だったりする。
その為、父は喜んで行くのだが、帯同する家族は大変だ。
二年、三年おきに日本各地を転勤する中で、母は次第に病んでいった。
モデルのように美しい容姿を持つ母はずっとチヤホヤされてきた。
しかし、ド田舎に転勤になると母の容姿の派手さは決して称賛の対象にはならなかった。
『スーパーに行くのに、ファッションショーするみたいな格好してる人でしょ』
『ブランド物のバッグ持ってたけど、夜のお仕事してるんじゃない?』
『あの爪見た? いかにも家事してなさそうよね』
男どもが騒ぐ程に、すっぴんで体型も気にしなくなった小太りの主婦たちが毎日のように母を揶揄する。
母は耐えきれず、SNSに居場所を求めるようになった。
そして、その被害を被ったのが俺だ。
転校初日から、母が発信する情報により住所も特定されストーカー被害に遭い続けた。
ある地方に引っ越した小学校六年生の春。
俺は女の恐ろしさを知る。
その時も、いつものように転校初日にクラスの半数以上の女子から告白された。
俺のことを何一つ知らないのにと虚しい気持ちになる。
いつものように出来るだけ男と過ごし、頭の良さや運動神経の良さを見せつければ嫉妬されることもないと思った。
実際、平和な日々を過ごしていたが、事件が起きたのは一学期も終わりかけのことだった。
俺が女に興味がないという噂が広まり居心地が良くなっていたのに、諦めず俺にいつも付き纏ってくる女がいた。
皆川まどかは同じクラスだが、大人しく声を聞いたことのないような子だった。
肩までのボブカットで、病的な程に痩せている彼女は座敷童と呼ばれ揶揄われていた。
「そんな風に女の子を呼ぶのは良くない」と周りを諌めたのが良くなかったようだ。
俺は完全に彼女にロックオンされた。
友達とサッカーの帰りに、その日も物陰から皆川まどかが隠れるようについてくる。
「皆川さん、何か俺に言いたいことあるの?」
俺が何気なく近づくと彼女は震えながら、愛の告白をしてきた。
「ただ、町田君が好きなだけなの。見てるだけで良いの」
「⋯⋯見てるだけで良いって言われても、こんな風に付き纏われるのはキツイよ」
俺の本音はずっと隠れるように見ていた彼女の心を抉ったようだった。
彼女は顔を真っ赤にすると涙を流しながら逃げ出し、次の日から学校に来なくなった。
それから一週間後、俺は担任に呼び出された。
最近、嫁に子供が生まれたと嬉しそうだった担任の男は困ったような顔で語り出した。
「皆川まどかと付き合ってたのか? 町田に無理やり体を要求されて襲われそうになって、怖くなって学校に来られないって主張してるんだ」
「はぁ? 何を言ってるんですか? 俺たち小学生ですよ。先生はそんな戯言信じてるんですか?」
俺は皆川まどかの虚言に驚いてひっくり返りそうになった。
先生も恐らく彼女が嘘を言っていると分かっている。
毎日の学校生活を見ていたら、彼女と俺がただのクラスメートだと分かってるはずだ。
「皆川の嘘だって分かってるよ。でも、このままだと皆川は不登校になってしまいそうなんだ。皆川の父親は市議会議員をやっていて⋯⋯」
そこからの先生の言葉は殆ど上の空に聞いていた。
皆川まどかは俺と学校で顔を合わせるのが嫌で嘘を言っている。
痴漢の冤罪ってこういう風に作られるのかとぼんやりと思った。
「町田、ご両親と今後について話し合いを持ちたいんだ」
頭を抱える担任に俺はため息をついた。
うちの両親は皆川の主張を信じないだろう。
当然、うちの息子がそんな事をするはずがないと主張する。
正義感の強い父と、プライドの高い母が引き下がる訳がない。
泥沼になることが目に見えてたし、もううんざりだった。
「転校できるか、両親に相談します」
「町田、本当にすまないな。でも、もう直ぐ中学生だから、お前みたいな賢い人間は東京に行った方が良いと思うぞ」
心底ホッとしたような担任に恨みなどない。
子供が生まれたばかりで妻のフォローをしたいのに仕事でトラブルを起こしたくないという気持ちが、子供ながらに俺には理解できた。
帰宅して母に学校であった出来事を上手く伝え、この際だから中学受験をしたいと伝えた。
「そうよね。咲也は頭も良いんだもの。私の実家からなら、良い中学に通えるわ」
母は転勤について行かないで済む「子供の教育のため」という大義名分を見つけた。
そして、二学期から母の実家の横浜に引っ越しをし、中学受験を突破し男子校に入った。
男子校はパラダイスだった。
男同士で恋愛する人もいたりしたが、俺は男に惚れられるタイプではなかったらしい。
恋愛という面倒ごとに巻き込まれずに済んだ。
好きなサッカーをし、勉学に励み有意義な学校生活が送れた。
しかし、パラダイスには終わりが来た。
大学までエスカレーターのその学校は、大学では男女共学だったのだ。
経済学部経営学科に入った俺だったが、気がつけば女子に囲まれていた。
そして同じように男に追いかけられている女の子がいた。
おとなしそうなその子は誰もが知る篠山洋菓子店の社長令嬢。
地元企業の社長の子は見たことがあったが、大企業の社長令嬢を見るのは初めてだった。
成金じゃなくて、本当の金持ちは質素だと言うのは本当だったようだ。
篠山久子は普通に電車通学しているし、謙虚な性格をしている。
俺を囲むケバい女子と違って、清楚な黒髪で育ちが良さそうな可愛い子だった。
たまに彼女と目が合うけれど、すぐに逸らされてしまい戸惑った。
(俺のこと好きにならない女なんていたの?)
渋谷で語学のクラスの飲み会の後、駅に皆が向かう中で篠山久子が歩いて街中に消えて行こうとしていた。
俺は思わず彼女を追い掛けて手首を掴むと、思いっきり振り払われた。
「な、何?」
「篠山さん、駅、こっちだよ」
「私の家、ここから徒歩圏なんです」
俺は思わず目を瞬く。同級生相手に敬語を使う彼女に驚いてしまった。
(ガードが固いところもお嬢様だな)
篠山さんはほんのり顔が赤いし、この辺りは決して治安が良くない。
「家まで送ってくよ。この辺り、女の子が一人で歩くには物騒だし」
「⋯⋯じゃあ、お願いします」
ペコリと頭を下げられて、なんだか気恥ずかしくなる。
話した事もない俺に家まで送ると言われても断られると思ったので、受け入れられて嬉しかった。
実家通いらしいから送り狼の心配はないが、自宅の場所がバレるのは怖くないのだろうか。
「篠山さんと話すの初めてだよね」
「はい。クラスで唯一町田さんと話した事ない女が私です。名前、覚えていてくれたんですね」
「そりゃあ、覚えているよ。篠山さんも俺の名前覚えてくれてたんだね。ありがとう」
目線が合っていたのに、また目を逸らされた。
十分くらい歩くと、見た事ないような高い塀に囲まれた高級住宅街に入る。
「篠山さん、松濤に住んでるんだね」
「はい。もう、安全なので大丈夫です。送って頂きありがとうございます」
「家の前まで送るよ」
提案を断られるかと思ったが、彼女はそっと手を繋いできた。
繋いだ手が少し震えていて、俺は彼女が自分に気があるのかと期待してしまう。
「篠山さん、いつも男に囲まれてるから話し難かったんだけど、これからはもっと話したいな」
「それはこちらのセリフです。町田さんこそいつも女の子たちに囲まれて大変そうですね」
彼女の指摘に俺はドキッとした。
大変というか面倒だし、「女、うざい」とさえ思っていた。
そんな俺の本音を彼女は見抜いているのかもしれない。
「良かったら、私と付き合います? 女避けになりますよ」
酔っ払っているのか彼女は意外な提案をしてきた。
そんな提案をされるのは初めてで、彼女の真意を知りたくて俺は彼女と付き合うことにした。
付き合って一年で、久子の提案でお互いの両親に挨拶に行った。
彼女も結婚を意識してくれているのか、篠山家のお祝い事には俺も彼女の実家にお呼ばれするようになった。
付き合って五年経ったあたりから、俺は年末年始は篠山家で過ごすようになる。
『もし久子とこの先も付き合って、結婚も考えてるなら絶対苦労をかけたりはしないで欲しい』
『はい。勿論です』
久子の父親と二人で晩酌した時に言われた言葉は、このまま久子と付き合い続ける絶対条件だと思っていた。
俺は久子と付き合って直ぐに結婚を意識し始めていた。
噂話が好きで、恋愛に依存気味で、承認欲求が強い女が苦手だったが、久子は真逆だ。
人は人、自分は自分という芯の強さと優しさを持った子だった。
駐妻コミュニティーは狭く、奥さんがメンタルを壊す話はよく聞いていた。
シンガポール駐在の話がきた時、久子が苦労するのが目に見えた。
上司の奥さんに媚を売ったり、気を遣ってる彼女が全く想像できない。
皆が就職活動に苦労する中、おねだり一つで就職を決めた彼女。
小学校受験の失敗が人生最大の失敗だとアラサーになっても言っている甘ちゃんお嬢様。
でも、俺は彼女の苦労知らずで、どこか万能感を持っている所も好きだ。
だから、俺は彼女をシンガポールに連れて行かないことにした。
久子は俺と一緒に渡星するつもりだったようで「別れる」と口にする。
女は喧嘩するとすぐに、「別れる」と言うと聞いていたが本当だったのかと彼女の言葉を軽く考えていた。
久子はお付き合いするのは俺が初めてだと言っていたが、実は俺自身も久子が初めての彼女だ。
人から聞いた話やネットの情報で手慣れた彼氏を演じていたが、久子が他の女と違うことを忘れていた。
彼女の「別れる」は本当に「別れる」だったという可能性を考えると怖くなった。
篠山洋菓子店の不祥事に加え、久子の父親が亡くなったニュースが流れる。
辛い時こそ側にいて支えてあげたいのに、久子が捕まらない。
渡星する前には彼女の家に押しかけてでも会って話したい。
できれば後からでもシンガポールについてきて欲しい。
久子が世間の色々な雑音に傷ついているんじゃないかと思うだけで、胸が苦しくなって仕事に集中できない。
引き継ぎ業務に追われていると、突然、着信がかかってくる。
その日は大学時代のゼミのメンバーで会うはずだったが、仕事が終わらず断っていた。
『町田! 篠山と別れたって本当か?』
ザワザワ騒がしい場所からの電話は今晩お祝いされる男、菅野誠太郎からだった。
彼は大手運送会社の御曹司という下駄もあり、俺並みにモテる。
そして、チャラそうに振る舞いながらも、俺の恋人になった久子にずっと片想いしている不憫な男だ。
人には自分と似たタイプを好きになる人間と、全く違うタイプを好きになる人間がいる。
菅野誠太郎は自分と同じように、純粋で優しく育ちの良い久子に惹かれた。
しかし、久子は自分とは全く違う人生を歩んできた俺を好きになってくれた。
ーー俺はこの時まで久子を守ってあげなければいけない繊細で浮世離れした子だと本気で思っていた。
俺は久子が持っていた強かさや賢さに、一番側に居たのに十年も気がつけなかった愚か者だ。
彼女は無自覚に人の心を奪っていく天才で、経営者としての才を持っていた。
ひらめきを直ぐに実行にうつしてしまう行動力とスピード感。
可愛らしい小柄な彼女が隠し持っていたエネルギーの爆発力。
俺が久子に対して初めての強い感情を抱く頃には、彼女は俺に対して全く興味を失っていた。
『久子、今日来てるのか?』
『質問を質問で返すなよ。今の篠山から手を離すなんて見損なったぞ。篠山が泣いてるんだよ⋯⋯』
(久子が泣いてる?)
久子が泣いていると言いながら、電話先で咽び泣く菅野からの電話を切る。
俺は一途な片想いを経験したことがなかった。
だから、アラサーの菅野がどれ程の気持ちで俺に電話をしてきたか、彼の気持ちは理解できなかった。
ーー十年恋人のいる女に片想いしてきた男が、突然片想い相手から泣いて頼み事をされた。
それは片想いが報われたような感覚を引き起こし、やがて執着に変わる。
そして、この時の俺は久子が別の男からの二十年以上煮詰めた執着愛に捕まり結婚までしてしまった事を知りもしなかった。
もっと知らなかったのは自分の気持ちだ。
女性が苦手な自分が唯一十年も付き合えた女が離れて行こうとしている。
気付かない内に俺も久子にどんどん執着していっていた。
愛を諦め仕事に邁進する彼女を苦しめる一人に自分がなるとは、この時は想像もつかなかった。
俺は仕事を切り上げ、久子に会いに走った。
「町田さん、今日もカッコ良いよね。来週からシンガポール行っちゃったら何を励みに会社に来たら良いのか」
「アイドルに推しでも作るか。正直、町田さん見てると、周りの男が同じ人類とは思えなくなるよね」
エレベーターホールに行くと、今日も女性社員が俺の噂話をしていた。
(本当に女って嫌だ)
噂話が好きで、恋に依存気味で、承認欲求が強い女が特に無理。
サッと非常階段の扉を開けて、階段で降りる。
(ここは一人になれる素敵な逃げ場だ)
女が苦手でも、世界の約半数は女。
自分の母親さえも苦手なのに、俺には大切な女がいた。
ーー篠山久子、十年付き合った俺の彼女で俺にとって自分よりも大切に思える唯一の人だ。
父親が検事で転勤族だったので、母親はCAをしていたが航空会社を辞めて専業主婦になった。
検事の転勤は、支部になると島に行く事もあるハードなものだ。
島というと左遷のようなイメージがあるが、検事や裁判官といった仕事では栄転だったりする。
その為、父は喜んで行くのだが、帯同する家族は大変だ。
二年、三年おきに日本各地を転勤する中で、母は次第に病んでいった。
モデルのように美しい容姿を持つ母はずっとチヤホヤされてきた。
しかし、ド田舎に転勤になると母の容姿の派手さは決して称賛の対象にはならなかった。
『スーパーに行くのに、ファッションショーするみたいな格好してる人でしょ』
『ブランド物のバッグ持ってたけど、夜のお仕事してるんじゃない?』
『あの爪見た? いかにも家事してなさそうよね』
男どもが騒ぐ程に、すっぴんで体型も気にしなくなった小太りの主婦たちが毎日のように母を揶揄する。
母は耐えきれず、SNSに居場所を求めるようになった。
そして、その被害を被ったのが俺だ。
転校初日から、母が発信する情報により住所も特定されストーカー被害に遭い続けた。
ある地方に引っ越した小学校六年生の春。
俺は女の恐ろしさを知る。
その時も、いつものように転校初日にクラスの半数以上の女子から告白された。
俺のことを何一つ知らないのにと虚しい気持ちになる。
いつものように出来るだけ男と過ごし、頭の良さや運動神経の良さを見せつければ嫉妬されることもないと思った。
実際、平和な日々を過ごしていたが、事件が起きたのは一学期も終わりかけのことだった。
俺が女に興味がないという噂が広まり居心地が良くなっていたのに、諦めず俺にいつも付き纏ってくる女がいた。
皆川まどかは同じクラスだが、大人しく声を聞いたことのないような子だった。
肩までのボブカットで、病的な程に痩せている彼女は座敷童と呼ばれ揶揄われていた。
「そんな風に女の子を呼ぶのは良くない」と周りを諌めたのが良くなかったようだ。
俺は完全に彼女にロックオンされた。
友達とサッカーの帰りに、その日も物陰から皆川まどかが隠れるようについてくる。
「皆川さん、何か俺に言いたいことあるの?」
俺が何気なく近づくと彼女は震えながら、愛の告白をしてきた。
「ただ、町田君が好きなだけなの。見てるだけで良いの」
「⋯⋯見てるだけで良いって言われても、こんな風に付き纏われるのはキツイよ」
俺の本音はずっと隠れるように見ていた彼女の心を抉ったようだった。
彼女は顔を真っ赤にすると涙を流しながら逃げ出し、次の日から学校に来なくなった。
それから一週間後、俺は担任に呼び出された。
最近、嫁に子供が生まれたと嬉しそうだった担任の男は困ったような顔で語り出した。
「皆川まどかと付き合ってたのか? 町田に無理やり体を要求されて襲われそうになって、怖くなって学校に来られないって主張してるんだ」
「はぁ? 何を言ってるんですか? 俺たち小学生ですよ。先生はそんな戯言信じてるんですか?」
俺は皆川まどかの虚言に驚いてひっくり返りそうになった。
先生も恐らく彼女が嘘を言っていると分かっている。
毎日の学校生活を見ていたら、彼女と俺がただのクラスメートだと分かってるはずだ。
「皆川の嘘だって分かってるよ。でも、このままだと皆川は不登校になってしまいそうなんだ。皆川の父親は市議会議員をやっていて⋯⋯」
そこからの先生の言葉は殆ど上の空に聞いていた。
皆川まどかは俺と学校で顔を合わせるのが嫌で嘘を言っている。
痴漢の冤罪ってこういう風に作られるのかとぼんやりと思った。
「町田、ご両親と今後について話し合いを持ちたいんだ」
頭を抱える担任に俺はため息をついた。
うちの両親は皆川の主張を信じないだろう。
当然、うちの息子がそんな事をするはずがないと主張する。
正義感の強い父と、プライドの高い母が引き下がる訳がない。
泥沼になることが目に見えてたし、もううんざりだった。
「転校できるか、両親に相談します」
「町田、本当にすまないな。でも、もう直ぐ中学生だから、お前みたいな賢い人間は東京に行った方が良いと思うぞ」
心底ホッとしたような担任に恨みなどない。
子供が生まれたばかりで妻のフォローをしたいのに仕事でトラブルを起こしたくないという気持ちが、子供ながらに俺には理解できた。
帰宅して母に学校であった出来事を上手く伝え、この際だから中学受験をしたいと伝えた。
「そうよね。咲也は頭も良いんだもの。私の実家からなら、良い中学に通えるわ」
母は転勤について行かないで済む「子供の教育のため」という大義名分を見つけた。
そして、二学期から母の実家の横浜に引っ越しをし、中学受験を突破し男子校に入った。
男子校はパラダイスだった。
男同士で恋愛する人もいたりしたが、俺は男に惚れられるタイプではなかったらしい。
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好きなサッカーをし、勉学に励み有意義な学校生活が送れた。
しかし、パラダイスには終わりが来た。
大学までエスカレーターのその学校は、大学では男女共学だったのだ。
経済学部経営学科に入った俺だったが、気がつけば女子に囲まれていた。
そして同じように男に追いかけられている女の子がいた。
おとなしそうなその子は誰もが知る篠山洋菓子店の社長令嬢。
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篠山久子は普通に電車通学しているし、謙虚な性格をしている。
俺を囲むケバい女子と違って、清楚な黒髪で育ちが良さそうな可愛い子だった。
たまに彼女と目が合うけれど、すぐに逸らされてしまい戸惑った。
(俺のこと好きにならない女なんていたの?)
渋谷で語学のクラスの飲み会の後、駅に皆が向かう中で篠山久子が歩いて街中に消えて行こうとしていた。
俺は思わず彼女を追い掛けて手首を掴むと、思いっきり振り払われた。
「な、何?」
「篠山さん、駅、こっちだよ」
「私の家、ここから徒歩圏なんです」
俺は思わず目を瞬く。同級生相手に敬語を使う彼女に驚いてしまった。
(ガードが固いところもお嬢様だな)
篠山さんはほんのり顔が赤いし、この辺りは決して治安が良くない。
「家まで送ってくよ。この辺り、女の子が一人で歩くには物騒だし」
「⋯⋯じゃあ、お願いします」
ペコリと頭を下げられて、なんだか気恥ずかしくなる。
話した事もない俺に家まで送ると言われても断られると思ったので、受け入れられて嬉しかった。
実家通いらしいから送り狼の心配はないが、自宅の場所がバレるのは怖くないのだろうか。
「篠山さんと話すの初めてだよね」
「はい。クラスで唯一町田さんと話した事ない女が私です。名前、覚えていてくれたんですね」
「そりゃあ、覚えているよ。篠山さんも俺の名前覚えてくれてたんだね。ありがとう」
目線が合っていたのに、また目を逸らされた。
十分くらい歩くと、見た事ないような高い塀に囲まれた高級住宅街に入る。
「篠山さん、松濤に住んでるんだね」
「はい。もう、安全なので大丈夫です。送って頂きありがとうございます」
「家の前まで送るよ」
提案を断られるかと思ったが、彼女はそっと手を繋いできた。
繋いだ手が少し震えていて、俺は彼女が自分に気があるのかと期待してしまう。
「篠山さん、いつも男に囲まれてるから話し難かったんだけど、これからはもっと話したいな」
「それはこちらのセリフです。町田さんこそいつも女の子たちに囲まれて大変そうですね」
彼女の指摘に俺はドキッとした。
大変というか面倒だし、「女、うざい」とさえ思っていた。
そんな俺の本音を彼女は見抜いているのかもしれない。
「良かったら、私と付き合います? 女避けになりますよ」
酔っ払っているのか彼女は意外な提案をしてきた。
そんな提案をされるのは初めてで、彼女の真意を知りたくて俺は彼女と付き合うことにした。
付き合って一年で、久子の提案でお互いの両親に挨拶に行った。
彼女も結婚を意識してくれているのか、篠山家のお祝い事には俺も彼女の実家にお呼ばれするようになった。
付き合って五年経ったあたりから、俺は年末年始は篠山家で過ごすようになる。
『もし久子とこの先も付き合って、結婚も考えてるなら絶対苦労をかけたりはしないで欲しい』
『はい。勿論です』
久子の父親と二人で晩酌した時に言われた言葉は、このまま久子と付き合い続ける絶対条件だと思っていた。
俺は久子と付き合って直ぐに結婚を意識し始めていた。
噂話が好きで、恋愛に依存気味で、承認欲求が強い女が苦手だったが、久子は真逆だ。
人は人、自分は自分という芯の強さと優しさを持った子だった。
駐妻コミュニティーは狭く、奥さんがメンタルを壊す話はよく聞いていた。
シンガポール駐在の話がきた時、久子が苦労するのが目に見えた。
上司の奥さんに媚を売ったり、気を遣ってる彼女が全く想像できない。
皆が就職活動に苦労する中、おねだり一つで就職を決めた彼女。
小学校受験の失敗が人生最大の失敗だとアラサーになっても言っている甘ちゃんお嬢様。
でも、俺は彼女の苦労知らずで、どこか万能感を持っている所も好きだ。
だから、俺は彼女をシンガポールに連れて行かないことにした。
久子は俺と一緒に渡星するつもりだったようで「別れる」と口にする。
女は喧嘩するとすぐに、「別れる」と言うと聞いていたが本当だったのかと彼女の言葉を軽く考えていた。
久子はお付き合いするのは俺が初めてだと言っていたが、実は俺自身も久子が初めての彼女だ。
人から聞いた話やネットの情報で手慣れた彼氏を演じていたが、久子が他の女と違うことを忘れていた。
彼女の「別れる」は本当に「別れる」だったという可能性を考えると怖くなった。
篠山洋菓子店の不祥事に加え、久子の父親が亡くなったニュースが流れる。
辛い時こそ側にいて支えてあげたいのに、久子が捕まらない。
渡星する前には彼女の家に押しかけてでも会って話したい。
できれば後からでもシンガポールについてきて欲しい。
久子が世間の色々な雑音に傷ついているんじゃないかと思うだけで、胸が苦しくなって仕事に集中できない。
引き継ぎ業務に追われていると、突然、着信がかかってくる。
その日は大学時代のゼミのメンバーで会うはずだったが、仕事が終わらず断っていた。
『町田! 篠山と別れたって本当か?』
ザワザワ騒がしい場所からの電話は今晩お祝いされる男、菅野誠太郎からだった。
彼は大手運送会社の御曹司という下駄もあり、俺並みにモテる。
そして、チャラそうに振る舞いながらも、俺の恋人になった久子にずっと片想いしている不憫な男だ。
人には自分と似たタイプを好きになる人間と、全く違うタイプを好きになる人間がいる。
菅野誠太郎は自分と同じように、純粋で優しく育ちの良い久子に惹かれた。
しかし、久子は自分とは全く違う人生を歩んできた俺を好きになってくれた。
ーー俺はこの時まで久子を守ってあげなければいけない繊細で浮世離れした子だと本気で思っていた。
俺は久子が持っていた強かさや賢さに、一番側に居たのに十年も気がつけなかった愚か者だ。
彼女は無自覚に人の心を奪っていく天才で、経営者としての才を持っていた。
ひらめきを直ぐに実行にうつしてしまう行動力とスピード感。
可愛らしい小柄な彼女が隠し持っていたエネルギーの爆発力。
俺が久子に対して初めての強い感情を抱く頃には、彼女は俺に対して全く興味を失っていた。
『久子、今日来てるのか?』
『質問を質問で返すなよ。今の篠山から手を離すなんて見損なったぞ。篠山が泣いてるんだよ⋯⋯』
(久子が泣いてる?)
久子が泣いていると言いながら、電話先で咽び泣く菅野からの電話を切る。
俺は一途な片想いを経験したことがなかった。
だから、アラサーの菅野がどれ程の気持ちで俺に電話をしてきたか、彼の気持ちは理解できなかった。
ーー十年恋人のいる女に片想いしてきた男が、突然片想い相手から泣いて頼み事をされた。
それは片想いが報われたような感覚を引き起こし、やがて執着に変わる。
そして、この時の俺は久子が別の男からの二十年以上煮詰めた執着愛に捕まり結婚までしてしまった事を知りもしなかった。
もっと知らなかったのは自分の気持ちだ。
女性が苦手な自分が唯一十年も付き合えた女が離れて行こうとしている。
気付かない内に俺も久子にどんどん執着していっていた。
愛を諦め仕事に邁進する彼女を苦しめる一人に自分がなるとは、この時は想像もつかなかった。
俺は仕事を切り上げ、久子に会いに走った。
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