上 下
12 / 29

第十一夜 歓迎の宴

しおりを挟む
 宴の夜がやって来た。

 ハティーシャが長い回廊を渡って王宮の正殿へ辿り着いた時、歓迎の宴は既に始まっていた。

 だがハティーシャが広間に足を踏み入れた瞬間。
 その場の空気が変わる。
 王宮に集う王侯貴族や来賓の誰もが、その美しさに息を飲んだ。

 ハティーシャは王女パリヤールから借り受けた中から、最も目立たぬ衣装を選んだ。
 砂漠の夜のような藍色の布地に銀の刺繍が施され、ゆったりと襞を取って身に纏う控え目な装束。それが寧ろ、ハティーシャの持つ美しさを際立たせていた。豊かに波打つ黄金の髪は光り輝き、月の女神が肉の器を得て舞い降りたようだった。
 
(ふはは、愚か者どもめ! ハティーシャの美しさに声もないと見える! 落とし子の姫と侮ったことを後悔するが良い!)

──チュンチュン、ピチチチ!

 魔導師は美しい鳴き声でさも自慢げに囀った。
 流石に大狼の宴への同席は許されなかった。その為仕方なく、広間の窓辺にとまった小鳥──サヨナキドリに姿を変えてこっそり様子を伺っていたのだ。

(しかし、ハティーシャの美貌に魅了され、有象無象の下賤の輩共が寄り付くとも限らんゆえな! 我がしっかり見張ってやらねばなるまい……)

 魔導師は相変わらずの高慢な自尊心で己のことはすっかり棚に上げ、使命感を新たにしていた。


 しかし魔導師の決意とは裏腹に、ハティーシャは緊張しきりであった。
 王宮に足を踏み入れるのは先日の謁見以来まだ二度目。ましてや、王侯貴族の集う宴など参加したこともない。

 王女パリヤールの話通り、宴は盛大なものだった。
 何せ今夜の主賓はシャムザ神聖王国の第二王子ドゥム・アミルである。

 無限砂漠を越えた西に位置する、シャムザ神聖王国。
 この国と同じく太陽の男神と月の女神を国教として奉じるその国は、太陽神殿の大神官と由緒正しき王家が統治する。古今東西の文化が交わる交易の中心地であり、中でも王都イズファハーンは大陸諸国に名だたる美しき都だという。砂漠のただなかにあるこの小国などとは、比べ物にならぬ大国だ。
 その大国の王子ともなれば、国を挙げてもてなすべき賓客である。

 
 縞大理石の広間には、色硝子のシャンデリアがキラキラと煌めいている。続きの部屋やテラスに続く扉は全て開け放たれ、自由に行き来出来るようになっていた。

 大広間では楽師が瓜実型の弦楽器ウードや台形の撥弦楽器カーヌーンを奏で、舞姫達が踊る。また別の部屋には絨毯が敷き詰められ、大皿に盛られた料理が所狭しと並べられている。その次の間にはお酒と山のような果実、また次の間にはお茶と砂糖菓子が用意されていた。
 男達の多くは頭に布を巻きつけ、長衣と長羽織姿。
 女達はたっぷりとした布地を巻きつけた色鮮やかな砂漠の装束に身を包んでいる。

 ハティーシャはあまりの眩しさに目が眩みそうだった。
 見渡すばかりの荒涼とした大地を行く行商人の天幕で育ったハティーシャにとっては、夢に見たことさえない光景だ。贅を尽くした宴に、普段は豪胆なハティーシャでさえ思わず気後れした。絶えず注がれる羨望とも好奇とも、それとも敵意ともつかぬ人々の視線も慣れぬハティーシャには耐え難い。

 せめてどこか落ち着ける場所を、と大広間から移動しようとした時。

「まだ夜の帳は下りたばかりだというのに、麗しき月の女神は何処へ行こうというのです?」

 行く手に立ち塞がり声をかけたのは、一人の美しい青年だった。
 薄い銀色の髪に、緑色の瞳。ハティーシャら砂漠の民とは異なる白い肌は、健康的な小麦色に日焼けしている。金糸の縫い取りが眩い長衣は、一目でその青年が高貴な身分であることが知れた。

「…………!」

 立ち塞がられて、ハティーシャは困った。王国に属する高貴な身分の者たちの顔などひとつも覚えていない。失礼があってはいけないとは思うものの、青年が何処の誰かも分からない。それより何より、この場から早く立ち去りたかった。
 ハティーシャの困惑が伝わったのかどうか。青年はおや、と小首を傾げた。

「もしかして、ご気分が優れぬのかな、月の君?」
「……はい、その、少し……人酔いをしてしまったようです」
「なら、冷たい夜風に当たると良い。静かな場所にご案内しよう」
「ぁ……ありがとうございます」

 整った顔立ちに柔和な微笑みを湛えたまま、青年はハティーシャの手を取った。
しおりを挟む

処理中です...