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第十三夜 王女の歌声

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「姫や、パリヤール姫や。儂の可愛い妖精よ。自慢の声で歌っておくれ」

 父王にうながされ、王女パリヤールは進み出た。
 縞大理石で出来た大広間の真ん中には、金の瞳のような模様が浮かび上がっている。
 その中心まで来て、王女は軽く腰を落としてお辞儀をする。磨き上げられた床の上に、金銀の刺繍が施された淡い珊瑚色のスカートがふわりと広がった。豪華な衣装は、小国とはいえ一国の姫君に恥じぬ見事なものであった。
 
 王女は、歌い出す。

『大陸諸国を見渡せば、蜂蜜以上に甘いのは 
北の水蜜桃、南の薔薇の砂糖漬け 
それより何より一等は、イズファハーンの恋人たち

大陸諸国を比ぶれば、天の国より美しいのは
東の輝く絹の織物 西の小麦畑の女王
それより何より一等は、イズファハーンの王の庭園

美しさに満ち溢れた 薔薇の咲く庭よ
その庭園には 天よりの風が吹く
太陽と月の神々が出逢う
嗚呼 麗しき イズファハーンよ──』

 砂漠の国では良く知られた、シャムザ神聖王国の王都イズファハーンを称える詩歌だ。
 その愛らしい歌声と見事な暗唱に、大広間は大きな拍手に包まれた。

「ルスラン王子殿下。これなるは我が娘、パリヤール姫じゃ。ご覧の通り気立てもよく、妖精の如き美しい歌声。儂の自慢の娘よ」

 国王は満面の笑みで先程の銀髪の青年──ルスラン王子に王女を引き合わせた。その様子を、再びサヨナキドリに変じた魔導師は大広間の窓辺から嘲笑った。
 従者に踏まれたせいでまだ翼がズキズキ傷む。イライラと小さな爪先を窓辺に打ち付けた。

─チチッ!……

(フン……つまりこの機会に、大国シャムザの第二王子に王女を押し付けようという魂胆か。浅はかなあの連中の考えそうなことよ)

 シャムザ神聖王国の第二王子なら、王女の嫁ぎ先としては申し分ない。こうして皆の前で王女をお披露目することで、堂々と見合いをさせようという算段であったのだろう。さすればきっと、王子も王女を気に入るに違いない、と。
 だが、国王夫妻の思惑は外れたらしい。

「えぇ、素晴らしい歌声でした。ですがこの国には、もうおひとり姫君がいらっしゃるとか」
「それは………」
「ハティーシャ姫。 どうぞ、こちらへおいでなさい」

 王子は、広間の隅っこにひっそりと立っていたハティーシャに手を差し伸べた。王と妃の、そして広間に居並ぶ貴族たちの視線がハティーシャに注がれる。

 ハティーシャは息も出来ないほど驚いた。まさか自分が名指しされるとは思ってもみなかったのだ。

 こちらへ、と差し出されたルスラン王子の小麦色指先に眩暈さえ覚えた。

 壁を背に立ち竦むハティーシャに、次いで声をかけたのはなんと王妃であった。

「……ハティーシャよ。そういえば、そなたの母はウードの名手であったとか」

 鷲鼻の妃はいかにも意地悪い笑みを湛えてハティーシャを見下ろし、そう言った。

「国王陛下をも虜にしたというウードの名手のその娘ならば、さぞそなたも良き弾き手であろう。是非わたくしも聞いてみたいものよ。ちょうど良い。恐れ多くもこの国の姫を名乗るなら、ウードでも詩歌の暗唱でも良い。一曲、この場にて披露せよ」
「…………ゎ、私は……」

──ヂュンッ!

(……何だと!?)

 魔導師は呻いた。
 王座の隣では、王女が栗色の瞳を見開きハティーシャを見つめている。ハティーシャが一国の姫に相応しい教養など何も身に付けていないことを、かの王女が母妃に告げ口したに違いなかった。
 
(パリヤール! あの愚鈍な羊め、やはり母親の手先であったか! 居並ぶ者共の前で恥をかかせ、ハティーシャを辱めようとは!)

 ハティーシャは、石化の術にかかったかのように動けずにいる。

 見守る誰かが、扇の影で囁いた。
 「やはり野育ちの落とし子よ」
 「この伝統ある国の姫君と呼ぶには相応しくない」
 「幾らウードの名手でも、しょせんは庭師の娘の手慰み。その娘ともなればたかが知れている」
 「何処のものとも知れぬ庭師の孫娘が、姫を名乗るなどおこがましい」
 その場にいた誰もが、ハティーシャを侮っていた。
 
 ハティーシャをその場に引き出した王子も、事の成り行きに戸惑っているようだった。
 変幻自在の魔導師でさえ、成す術なく見守るしかなかった。
 
 ハティーシャには、知っている詩歌など何もない。勿論、楽器も弾けない。
 それは事実だ。そんな自分が笑いものにされるのは仕方ない。
 けれど、愛する母までも貶められるのは許せなかった。王宮の庭でよくこの曲を弾いたのだと懐かしそうに語った母の思い出までも汚されるのは、どうしても我慢がならなかった。

 母の名誉の為にも、今の自分に出来ることをするしかない。
 ハティーシャは意を決して、大広間の中央まで進み出た。
 深く、深く、息を吸い込んだ。

 覚えているのは、母が幼い頃にウードを弾きながら歌ってくれた歌だけだ。
それも、歌詞さえないただの旋律。

『る、らら────ラ、ララ──………』


 だがその歌声に、心無い囁きはしんと静まり返った。

 狂おしくも美しい歌声は、時に天から降り注ぎ、時に地の底から湧き上がり、伸びやかに響く。

 ハティーシャの歌声が美酒のように大広間を満たす。
 その場に居合わせた誰もが強い酒をあおったかの如く高揚し、酩酊し、眩暈を覚え、そうして尚、溺れた。

 魔導師は震えた。
 今まで何度も、ハティーシャが歌うのを耳にしていた。洗い物をしながらのご機嫌な鼻歌もベッドの中で歌われる子守歌も、その声は確かに心地よく心蕩けるような歌声だった。
 だが、この歌声はそれらとは異なる。上手い下手という次元ではない。
 
 心臓を直接鷲掴みにされ魂を揺さぶる歌声の前では、自分の鼓動と吐息さえも声を邪魔する無粋に感じる。そうなれば呼吸をすることさえままならない。
 
 最早、歌というよりは魔術に近い。
 まるで魔神の用いる魅了の魔法チャームのような歌声に、その場にいる誰もがハティーシャから目を逸らせなかった。
 魔導師もまた、サヨナキドリの真っ赤な瞳でじっとハティーシャを見つめていた。

(なぜ、これほどまでに……)

 心惹かれるのか。

 嗚呼、歌が終わる。
 名残惜しい、と誰もが思った。
 いつしか大広間は不思議な空気に包まれていた。

 歌い終え、ハティーシャは、ほぅ、と大きく深く吐息を零す。いつの間にかスカートの裾を強く握りしめていた手をようやく解いた。そして、息を飲んだまま取り囲む者たちをゆっくりと見渡した。己の歌がどのように受け止められたのか、まるで分からないという素振りだった。
 微かに不安げに揺れる金の瞳には、誇り高い意思が宿る。
 そこにいるのは確かに、魔導師のよく知る優しくも跳ねっかえりな娘であった。

 ひとつ、ふたつ。それから大きく何度も。
 最初に手を打ち鳴らしたのはルスラン王子だった。

 それを皮切りに、大広間に割れんばかりの拍手が響き渡った。
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