22 / 22
第二十二話 花咲く丘で
しおりを挟む薄紅色の花が一面に咲き誇るその丘は、まるで夢の中のようだった。
なだらかな曲線を描く丘陵地帯を、満開のアーモンドの花が埋め尽くしている。春の訪れを告げる、小さな薄紅色の花。柔らかな花は薄雲のように丘を下り、やがてその向こうには古めかしい王宮が見えてくる。
ここにはかつて、『ラスティカ王国』という小さな国があった。
それはずっと昔のことのようでもあり、つい昨日のことのようでもある。郷愁にも似た不思議な切なさに、セラスティアは珊瑚色の瞳を細めた。
ふと、小高い丘の上に立つセラスティアを呼ぶ声がする。
「お母さま!」
振り返れば、風に飛ばされそうな帽子を片手で押さえながら娘が一人やって来る。絹糸のような長い黒髪が、薄紅の花弁混じりの風に揺れている。
娘はセラスティアの姿を見つけると呆れ返ったように顔を顰めた。
「もう! こんなところにおひとりで!」
「ごめんなさい。探させてしまったかしら?」
「だってお父さまったら、お母さまがいないと『殿下は何処だ、何をしている』ってすぐにご心配なさるんですもの! だったらご自分で探しに行けば良いのに」
セラスティアは思わず苦笑する。年頃の娘らしい憎まれ口を叩く表情にも、そしてその心配の矛先は娘が思うのとは若干のずれがあるということにも。この年になってもまだ昔みたいに、目を離すと無茶無謀をやらかすと思われているらしい。
アーモンドの花を見に行くと、ザカリアスには勿論告げてきた。
けれど彼本人がここに来なかったのは、おそらく何か名状しがたい複雑な心情のせいだろうということは、セラスティアには分かっていた。
ラスティカ王国が故国に攻め滅ぼされた戦の最中。
戦火が迫るラスティカの王宮からセラスティアを助け出す手引きをしたのがザカリアスだったと知ったのは、随分後になってからだった。
その思惑通りに、セラスティアは生き残った。そうして、ザカリアスの妻になった。
「随分と回りくどい花盗人ね?」と笑うセラスティアに、ザカリアスは苦々しげに口元を歪めたものだ。
「ねぇ、お母さま。何をなさっていたの? もしかして、また何か新しい思い付き?」
「ふふ、そうよ。園遊会でお披露目する新作のね。アーモンドの花弁が入った、甘いお茶はどうかしら?ミルクを注ぐとカップの中で薄紅色の花が咲くの」
「ふーん……そうね、どうかしら。乙女趣味全開で、パティが喜びそう」
娘は然程お気に召さなかったらしい。セラスティアと同じ珊瑚色の瞳を軽く瞬くと、肩を竦めた。
かつて、『ラスティカ王国』と呼ばれたこの場所は、今では聖王国領一の高級茶葉の産地である。
ここで採れた茶葉は聖都へ運ばれ、女たちの手によって丹念に選別される。そして、離宮の庭園で育てたマリーゴールドやバラや、四季折々の花と共に調合され高級茶葉として市場に並ぶのだ。
セラスティア皇女御用達のその茶葉は『ラスティカの華』と名付けられた。花の香りの優雅で美しいお茶は、聖王国の貴族たちは勿論、異国の貴族たちの間でも愛されている。セラスティアとザカリアスが手がけた事業は、雇用を生み出し、教育の機会を与え、下町の女達の生活を支えた。
そしてこの春。海を越えて、セラスティアの見たこともない遠い東の果ての国へも輸出されるという。
ラスティカの名は、茶葉の名前として歴史に残るだろう。
いつだったか、ザカリアスの言った通りに。
セラスティアは感慨深く、吐息を零す。
「ねぇ、もう良いでしょう? 戻りましょう、お母さま」
思い出にふけるセラスティアの腕をとり、娘はさっさと歩き出した。
歩きながらも、娘は小鳥の囀りのように絶え間なく喋り続ける。若い娘らしいとりとめもない世間話に、時折難しい政治の話題が混じる。
「お父さまったら、テウローアとの自由貿易交渉なんて一体誰が言い出したんだって、またぼやいていたわ。老いぼれを心労で殺す気か、って。この交渉がひと段落したら、お暇を頂戴してお母さまと海辺の別荘でのんびり暮らすって息まいてらしたけれど……あの調子では暫く無理そうね」
「そう思うならあなたが少しは手伝ってあげれば良いのに……」
「私は視察に立ち寄っただけよ。交渉はお父さまのお仕事ですもの」
彼女は今や、官吏として宮廷に職を得ている。
そしておそらく数年のうちに、ミストリアス侯爵家の爵位と資産を相続する。聖王国史上初めての女侯爵となるだろう。
最早、時代は変わりつつある。
新しい御代となったのだ。
聖王国に新王が即位してこの春で一年。
新王はまだ若く、だがそれだけに進歩的で開明的な思想の持ち主であった。
長い冬を耐え抜いた草木が、春の日差しを受けて一斉に芽吹きだすように。
セラスティアとザカリアスが手を取り合い駆け抜けた、厳しい冬のような時代は終わろうとしていた。
※※※
アーモンドの花咲く丘の下で、その人は待ち構えていた。
淡い薄紅色の花のただ中に、墨を垂らしたような黒々とした存在感。
うららかな春の日に似合わぬ、気の滅入りそうな陰鬱な表情。
けれど、もう。
何を考えているのか、セラスティアにはすぐに分かる。
「…………殿下」
低く物憂げなその声さえ、耳に心地よい。
嗚呼。
あなたと二人なら、何処へでも行ける。
何を為すにしても、共に歩いて行きたいと願ったのは、生涯ただひとり。
「貴女様がなかなかお戻りにならぬから……お迎えに参りましたよ。セラスティア様」
その想いは間違いでなかったと、胸を張って言える。
セラスティアは夢見るように微笑むと、恭しく差し出された手を取った。
<終>
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
私達、婚約破棄しましょう
アリス
恋愛
余命宣告を受けたエニシダは最後は自由に生きようと婚約破棄をすることを決意する。
婚約者には愛する人がいる。
彼女との幸せを願い、エニシダは残りの人生は旅をしようと家を出る。
婚約者からも家族からも愛されない彼女は最後くらい好きに生きたかった。
だが、なぜか婚約者は彼女を追いかけ……
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
異世界召喚されました。親友は第一王子に惚れられて、ぽっちゃりな私は聖女として精霊王とイケメン達に愛される!?〜聖女の座は親友に譲ります〜
あいみ
恋愛
ーーーグランロッド国に召喚されてしまった|心音《ことね》と|友愛《ゆあ》。
イケメン王子カイザーに見初められた友愛は王宮で贅沢三昧。
一方心音は、一人寂しく部屋に閉じ込められる!?
天と地ほどの差の扱い。無下にされ笑われ蔑まれた心音はなんと精霊王シェイドの加護を受けていると判明。
だがしかし。カイザーは美しく可憐な友愛こそが本物の聖女だと言い張る。
心音は聖女の座に興味はなくシェイドの力をフル活用して、異世界で始まるのはぐうたら生活。
ぽっちゃり女子×イケメン多数
悪女×クズ男
物語が今……始まる
冷徹と噂の辺境伯令嬢ですが、幼なじみ騎士の溺愛が重すぎます
藤原遊
恋愛
冷徹と噂される辺境伯令嬢リシェル。
彼女の隣には、幼い頃から護衛として仕えてきた幼なじみの騎士カイがいた。
直系の“身代わり”として鍛えられたはずの彼は、誰よりも彼女を想い、ただ一途に追い続けてきた。
だが政略婚約、旧婚約者の再来、そして魔物の大規模侵攻――。
責務と愛情、嫉妬と罪悪感が交錯する中で、二人の絆は試される。
「縛られるんじゃない。俺が望んでここにいることを選んでいるんだ」
これは、冷徹と呼ばれた令嬢と、影と呼ばれた騎士が、互いを選び抜く物語。
【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。
たまこ
恋愛
公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。
ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。
※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
本当のお兄さんなの?身内に対する愛情なんて微塵もなく道具の用に扱うマジないわ
思わず断罪されて転げ落ちろと思った(笑)
わー!感想ありがとうございます!
皇女と兄王は異母兄妹です。
兄王は自分以外は全員都合の良い手駒と思ってそです~!