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第1章 Departure for the Fantastic World

第28話 Ancient Lost beasts(6)

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 我に返った時点で時すでに遅し。
 手を振りながら、ハルは霧の中に姿を消した(ちなみに、アルマはとっくにいなくなっていた)。
 そしてこの場に、わたしとドラゴンだけが残った。

「…………」

《………………》

 とりあえず、ドラゴンの方を向く。

 ――こ、こっちを見てる……。

 エメラルドグリーンの双眼が、わたしをじっと見つめている。だけど何か言葉を発するというわけでもない。ただじっとわたしに視線を向けるだけ。

 無機質な視線だ。何を考えているのか全く読めない。わたしに理解できるのは、わたしを見つめるのは恐ろしく巨大な怪物だということ、わたしなんか簡単に捻りつぶされてしまうということ。

 ねこの前にいるネズミは、きっとわたしみたいな感情を抱くんだろう。
 唐突に、ドラゴンが言葉を発した。

《…………立ってばかりでは疲れるだろう。座ったらどうだ》

「あ、はい。じゃあ、お言葉に甘えて……」

 まさかの座れという指示。そう言ってくれたということは、わたしを食べるつもりではないんだと思う――その可能性に賭けて、ドラゴンの目の前に少し離れて腰を下ろす。ちょうど対面する形だ。

「………………」

《………………………》

 ……気まずい。

 ――な、何か話題を……っ。

「素敵な、ところですね」

 言ったそばから後悔した。

《……やけに唐突だ。なぜそう思う》

 だけど、思いのほか受けは良かった。片目を潜め、ドラゴンはそう返してくる。
 色々考えてももう遅い。そう思ってわたしも素直に答えることにした。

「声が聞こえるんです。ここは薄暗いですが、声は楽しそうなので」

 嘘偽りの無い、わたしが感じたままの感想だ。
 マナが知覚できるようになったわたしの眼は、基本的にマナ体のものなら何でも見えるみたいだ。それはつまり、身体の一部(又はほとんど)がマナで構築されている妖精たちも見えるようになったということ。この眼になってようやく、今までわたしに聞こえていた声が彼女たちのものなんだということを知った。

 彼女たち妖精の声は、音というよりも念波に近いというのがわたしの捉え方だ。風の音や人の声、その他の雑音にかき消されることがなく直接頭の中に響いてくる。しかも声にはひとつひとつ確かに個体差があって、誰がどんなことをしゃべっているのかちゃんと聞き取ることができる。

 いまここで話しているのは、たぶん十二人。まだ感覚の制御ができないわたしには、彼女たち全員の声が聞こえている。
 その全員が、楽しそうに笑っているのだ。

 とても気持ちよさそうに木々の間を飛び回っている。霧の向こうにいるから姿は分からないけれど、彼女たちの感情はわたしにも伝わってくる。
 わたしがそう話すと、ドラゴンは少しだけ意外そうに目を開いていた。

《この一帯は命が特別満ち満ちている。精霊や妖精がわたし同様住処に選ぶのは自明ともいえよう》

 言葉を切った。目を向けると、ドラゴンは遠くを見つめるように斜め上を向いていた。
 少しだけ目を細めて、何かを思い出すように。

《しかし狭くなった。我ら竜族が王だった時代は、どこもかしこも過ごしやすく、自由に空を飛んだものだ……》

 回想していたのは、遥か昔、彼らが空を支配していた時代の風景。
 彼は、いったいどんな風景を見ているんだろう。

 そう思った時、森の中だというのに一陣の風が吹き抜けた。

 目を開けると、わたしは空を飛んでいた。

 視界の両端には黒を少し混ぜた暗い青の翼。ドラゴンの翼だ。目を前に向ければ、真っ青な世界が広がっていた。
 いまよりももっと澄んだ空気で空は青く、雲は真っ白。透き通るような空気を翼が裂いて、巨体が縦横無尽に空を飛びまわる。

 山を越えて、海に出て、足でしぶきを作るくらいの低空飛行。しぶきは白い泡になって、空よりも濃い海の青に雲より白い線を一筋描く。水面の向こうではイルカたちが泳いで、まるで彼らの仲間になったように錯覚してしまう。

 水平線を越えて、島の影が見えなくなったところで引き返す。島に近づくにつれてマナの濃度が濃くなって、翼が受ける揚力が増していく。水平線の向こうから山が姿を現す。大地は今よりももっと緑に満ち満ちていて、そこかしこで生命の源が凝縮した妖精たちが踊っている。

 ああ、なんてきれいな世界なんだろう。
 こんなにきれいな世界が、昔はずっと向こうまで広がっていたなんて。

 前方に雲。だけどそんなものはドラゴンにとって関係ない。減速なんかせずに真っ白な世界に突入する。蒸気の風が目に叩きつけられ、思わず視界を閉じる――、

「…………っ。…………?」

 瞬き一回。

 たったそれだけで、次に映ったのは元の森の中だ。

 ――今の景色って……。

 わたしの、ただの想像だろうか。それとも、目の前の彼の記憶なのだろうか。
 もし後者だとしたら……、

「あ、あの……人間のわたしが言っても腹が立つだけかもしれませんが、」

《…………。》

「すみません。あなた達の住む場所を奪ってしまって」

 口を開いた理由は、強迫観念に近い。

 した方が良いとか、そんな計画じみたものじゃない。
 するべきだと思った。しなくちゃいけないと思った。今ここにいるわたしが言わなくちゃと下から何かにつつかれた。

 だって、
 もしいま見た世界が彼の記憶なら、あのきれいな世界を壊してしまったのは他でもない、わたしたち人間なのだから。

《……………………》

 すこし、目を丸くしたのが分かった。
 同時に、クツクツと低い声で唸るように笑われた。
 堪えるような笑い声が、木々を揺さぶるほどの大笑いになるまで大して時間はかからなかった。

《ハッ、フハハハッ、お前が謝るか。人間というだけで何の責任も無いに等しいお前が! ンフフフ、面白い娘だ。分を弁えている。だが勘違いをするでない。ヒトの娘よ》

 ひとしきり笑った後、彼はわたしに語り掛けてきた。さっきまでとはずいぶん違う口調――傍若無人な話し方ではなく、大人が子供を諭すような低くて、でも穏やかなもの。

《わたしは何も、いまの人間に憤っているわけではない。自然の摂理でヒトが選ばれた、生存競争に我々は負けた、ただそれだけのこと。あ奴らが隔離されたこの場所へと強引に扉を繋ぎ、踏み荒らしたことに思うところがあるだけだ》

 拘束が緩んできた首が、見渡すようにゆっくりと左右に振られる。最終的に首が向いたのは、不自然に渦を巻いている霧の方向だ。

《この場所は昔から境界が緩くてな。しばしば人間の世界とつながってしまう。無論、こちらの世界同士をつなぐこともある。此度はそれを利用されたのだろうよ》

「さっきの話、ですよね。魔術師ですか?」

 もちろん、わたしと同じ立場にいる魔術師たちのことじゃない。彼らの組織から外れ、独自の徒党を組んでいる者たちのことだ。水面下深くに潜り込んで、今は禁じられている黒魔術や悪魔の召喚儀式についての研究を重ねている者たちのことだ。もちろん、人の法も、魔術師たちの定めた法も守っていない。〝はぐれ魔術師〟もしくは〝咎人〟の意を込めて〝クリミナル〟と呼ばれている。
 彼らを見分けるのはそう難しくないらしい。ハルが言うには、悪魔の力を憑依させるために身体には複雑怪奇な刺青が刻まれているとのこと。

 だけど、彼はわたしの言葉を首を振ることで否定した。

《あ奴らではない。この地の魔術師たちが基礎もなしにあのような術式を組めるはずもない。本当の計画者はおそらくもっと近くの者だ》

「じゃあ……内通者が……」

《あくまで可能性の話だ。だが、魔法使いどもも一枚岩というわけではない。あながち的外れというわけでもないだろうよ。魔法を使えぬ魔術師たちが、自力で侵入するとも考えにくい……どちらにしても、こちらの世界に生きるお前には関係の無いことだがね。故に気に留める必要はない》

 この話はここでおしまい。そう言わんばかりに、彼は目を閉じて頭を地面につけた。わたしにとってはこれでお終いという話でもないけれど、きっとこれ以上わたしが訊いても彼は答えてくれない。

《ああ、そう言えば》

 と唐突に呟き、ドラゴンが薄眼を開けた。

《わたしもひとつ気になっていたことがある。お前のことだ。アレのことをどう思っている?》

「『アレ』? ……ハルのことですか?」

《無論。他に誰がいる》

「どう思っている……ですか……」

《アレはつい一年前に現れた。歳は十四になると言っていたか。だが、小童こわっぱ にしては魔法の扱いが長けていた。気にはなったが、本質的なところはいつもはぐらかす》

「確かに、そうかもしれません。わたしもハルのことを何も知らないので」

 やっぱり、わたしの抱いていた違和感は当たっていた。
 ハルは、自分のことを頑なにしゃべらない。普通に話していたら喋ってしまうようなわたし生活のちょっとしたことだって喋らない。まるで、話したくないと言外に伝えられているみたいだった。

 避けている、そのことに気が付いてはいたからわたしもできるだけハル個人の話題に行かないようには気を付けていた。そう感じていたわたしの勘は間違ってはいなかったみたいだ。

 自分のことを話すのが恥ずかしいとか、そう言った感情ではないような気がする。恥ずかしいというよりも、話すことを恐れているようなそんな気がする。

「でも、意外です。あなたがハルに興味を持っているなんて」

《興味などない。ただ、昔見た人間の姿が重なっただけだ》

「昔見た人……」

 不思議な男だったよ、とドラゴンが息を吐く。

《アレよりもよぽど年上だった。だが、まとう雰囲気はそっくりだ。何かとてつもないことを企んでいるような……何とも行け好かぬ雰囲気だった》

「その人とは、仲が良かったんですか?」

《良くはない。だが、悪くはなかった。機を見ては、わたしの元に現れて酒を飲む男だった。結局、決心がついたと言って二度と現れなくなったが……もう五百年も前の話だ》

 言葉では否定している。でも言葉以上に、その人と彼は仲が良かったみたいだ。
 昔話をするその口は、わずかに口角が持ち上がっている。目を薄く開いて、穏やかな口ぶりで話す。そして、現れなくなったという部分で少しだけ声のトーンが下がる。きっと、さみしかったはずだ。

「ぷ、ふふ」

 堪えきれずに笑いが漏れる。彼は怪訝な顔をしてわたしに突っかかってきた。
 でも、わたしには笑わずにはいられなかった。面白いとか滑稽とかそういう意味じゃなく、とても微笑ましかったから。

 確信した。このドラゴンは横暴でも傍若無人でもない。それが分かってしまったら、彼言動ひとつひとつが微笑ましくてならなかった。

《……なぜ笑う》

「いえ。あなたはやっぱり、優しい方だと思います」

 だって、そうでもなければそんなに優しそうに語るはずがないのだもの。

《……………………》

 何百歳も年上のはずなのに、今だけは彼の感情が手に取るように分かった。
 お互いに名前も名乗っていない、そんな稀薄以上の関係なのに。どうしてだろう、いまこの瞬間だけは、信頼する気心の知れた友人と話しているようなそんな錯覚を抱いてしまった。

 その証拠に、次の言葉はきっとひねくれた言葉だ。

《竜は気まぐれだ。次にその言葉を吐いたら命の保証はできぬ》

「はい。気を付けます」

 その時、

「――――?」

 座り込んでいるわたしの服の裾を、何かが引っ張ったような気がした。
 右の袖口だ。その方向に視線を向ける。

《―――――。……!》

 そこには、キノコがいた。

 緑色に光る水玉キノコ。わたしの手くらいの大きさで、短い腕と足が生えたキノコ――それがわたしの服を掴んで、わたしの顔を見上げていた。
 口はない。くりくりとしたガラスみたいな小さな瞳が、わたしに何かを訴えかけている。

《ほう、これは珍しい》

 それに気が付いたドラゴンが、少し上ずったような口ぶりでそう呟く。キノコがドラゴンの方を向き、器用に体を折り曲げ深々とお辞儀をした。そしてわたしを一瞥すると、今度は唐突に走り出す。

「あっ……えぇ?」

 何一つ、あのキノコの意図が理解できなくて困惑する。
 不意に、小さな足で精一杯走っていたキノコが立ち止まる。そしてわたしたちの方を向き、短い手を突き出して何度か上に曲げる。手のひら(に見える場所)を上にして手首を上に曲げていると言うことはつまり、こっちに来い、ということだろうか。

「そっちに何かあるの?」

 コクンと、キノコが頷く。こんどはわたしのことを待たずに、霧の向こうへと姿をくらませる。

「消えた……」

《あれはこの森の見張り番だ。あの向こうに何かあるのだろう。行ってやるといい》

「でも、……ぅわぷっ!?」

 フシューッ! っと、ミラージュ・ドラゴンが荒い鼻息をわたしにぶつけた。

《これでお前の位置は分かる。さあ行け。あれの行動にはすべて意味がある。妖精は厚意を無下にすると怒るぞ》

 もう一度キノコが走って行った方向に目を向ける。すると、律義に立ち止まってわたしを待っていた。

「ついて行けばいいの?」

 コクリ、キノコがまた頷く。そしてその場所に座り込む。わたしが行くまで動かないつもりだろうか。
 目をつむって、五秒だけ考える。この場合、どうするのが正解なのか。

 一、動かないでハルたちを待つ。
 二、ドラゴンの言葉を信じて、キノコの妖精について行く。

 ………。
 ……………………、
 ………………。
 ………………………………。

「――――分かった、もう少しだけ待って。ついて行くから」

 正解はきっと前者だ。
 でも、行けばきっと何かがあるような気がする。

「わたし、行ってみます」

《そうするがいい。ドラゴンは嘘をつかぬ》

「色々話してくれてありがとうございました――……えっと、」

《ウィグール》

「……!」

《わたしの名だ。お前なら知っていても悪さはせんだろう。片隅にでも覚えておくといい》

 少しつまらなそうな声色で名前が明かされる。
 だけどわたしを見る目は出会った時より少し優しかった。

 ちなみに、わたしも名乗ろうとして拒否されたのはまた別の話。
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