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前編

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1.俺、告られたよね? 告ってきたよね? 丹波さん!

「んにゃむにゃ~」

 和歌紗わかさ県立湯江ゆえ高等学校、ほとんどの生徒が授業に集中し黒板をリズミカルに叩くチョークの音だけが響いている、五限目の二年三組の教室。
 最後尾窓側から二つ目の席で机に突っ伏して、ロングポニーテールにした黒髪を廊下側に垂らした丹波たんばさんが夢の住人になっている。
 要するに、ただの居眠りだ……。

 丹波さんのもごもごむにゃむにゃという寝言は、幸いなことに彼女が顔を向ける先の俺にしか聞こえていない。

(相変わらず寝てばっかだな……丹波さん。でも、寝顔はマジ天使っ!)

 先生は気付いているだろうけど、彼女を注意したりしない。俺も頬杖を突きながらただただ彼女を眺めている。
 『いつものこと』ってこともあるけど……『成績は学年トップ』、でも『将来の目標はハッキリしていて難関進学校へは行く気がない』って周知の事実だからだ。
 丹波さんは、地元の幼稚園の先せ――


 ――「中峰瑛寿なかみねえいじゅきゅ~ぅん、だいしゅき~。おちゅきあいしましょ?」


 不意に響いた少し鼻にかかったとろとろの甘え声に、みんなの背中がピクリと反応した。普段の澄んだ落ち着いた感じとは全く違う、お隣の丹波さんの声……。

 先生の板書の音も止まり、ババババッと教室内の俺以外――あと寝言の張本人である丹波さん以外、全員が俺を見に振り返る。

 ……中峰という姓はこの教室に俺だけ。瑛寿という名も俺だけ。
 女子は瞳を輝かせ、男子は睨むように、俺を見てくる。

 『丹波さん』は、丹波ももか。彼女は黒髪ロングポニーテール、全校でも珍しい琥珀色の瞳、誰から見ても美人と称される見た目に柔らかな性格で、女子含め全校人気ナンバーワンの子だ。

「…………」
(ど、どど、どんな夢見てんだよぉ?! 丹波さんっ!)

 寝言を御発し賜うた張本人は未だ寝息を立てておいで。
 すぴー。

 陰で生徒達から『QRコード』と言われている――どこがとは言わない――社会のお爺さん先生が、近眼とも老眼とも知れない眼鏡の奥の白濁した瞳をキラリと光らせて、俺にチョークを向ける。

「中峰君。授業中ですよ」

(俺ぇえ?)

 頬杖を解いていくらか姿勢を正して、自分の顔を指差しながら「俺?」と問う顔をすると、クラスメイトは再びババババッと先生に向き直る。
 先生が「そうそう」と頷く。

 ババババッ!

「……すみません」
 すぴー。

「授業に戻りましょ。……あと、よく考えてから返事をしてあげなさい」

 黒板に向き直りながら呟いたQRコードの言葉に、女子は顔を赤らめ男子は睨みを強めてきた。

(俺、直接告白されたわけじゃないぞ!)

 クラスメイト達は、今度はまばらに黒板に向き直り授業に戻っていく。
 その後、丹波さんは何も憂うことなく寝息を立て続け、普通に授業は終わった。

 ババッ! ドドドド――

「も~も~か~! さっきの何ぃ?」
「アタシ達、聞いてないんですけど!?」
「ちょっと! 寝てないで説明してよぉ!」
「……あれ? もう休み時間だよ? 起きなさい、モモ!」

 授業が終わるや否や、クラスの女子生徒が丹波さんの席まで駆け寄り、おのおの言葉の波を浴びせる。
 興奮を隠しきれない紅潮した表情で!

 机は一人ひとり離れていて両側が通路になっているけど、あっという間に丹波さんの席はぐるりと取り囲まれ、俺の机――俺自身も――は、女子の“けつあつ”に座ったまま窓際まで押し流されてしまった。
 丹波さんの姿は女子垣――女子の人垣――のほんの僅かな隙間からしか見えなくなる。

 男子連中は、女子垣の後方から遠巻きに俺を睨みつけてくる。

(いや、確かに丹波さんは“湯江いち”の可愛さだけどさ……男子どもよ、机の上に立ってまで俺を睨んでくるなっ! 俺から何かしでかしたワケじゃないからっ!)

 当の丹波さんは、俺から見えた限りでは、まだ机に突っ伏して眠ったままだった。

「すp……ん? ん? どうしたのみんな?」

 流石の彼女も、友達に取り囲まれているという状況に驚いて目をしばたきながら、ゆっくりと身体を起こす。
 丹波さんが起きたことで女子垣の言葉の波は止まったけど、それはほんの一瞬のことだった。

「どうしたの? じゃないでしょ?!」
「そうそう!」
「で! さっきのは何だったの?」

「“何”ってなに?」

 全然ぴんときてないようだな……。
 女子垣が「はあっ?」と呆れながらも、授業中の丹波さんの寝言を一斉に口にする。中にはそっくりに真似る奴もいた。

『中峰瑛寿きゅ~ぅん、だいしゅき~。おちゅきあいしましょ?』

「え……?」

 丹波さんは固まったようだ。

「……そんなことは言わないよ? いくら寝言でも絶対に言ってないよ!」

 手を振りながら否定する丹波さんの声色は、普段の声。

「いやいやいや! 先生にまで届くくらいのおっきい声で言ってたから!」
「そんなことないって。そんな大きい寝言言う人、いるわけないじゃん」

「いやいや! い・た・の! ももか、アンタだよっ!」
「私こそ、いやいやっ! 私からそういうこと言わないってぇ」

 完全に言った言わないの押し問答になる。
 だが俺は見逃さなかった。
 女子垣の僅かな隙間から覗く丹波さんの口が動いたことを。

「○○○○」

 声には出していないけど、その口の動きからは「そのはず」と言っている動きだった。

 誰にも聞こえていないので、丹波さんの周りはやいのやいのと騒がしいままだけど――
 女子垣の内の一人が、不意に俺の名を出す。

「“お相手の”中峰にも聞いてみなっ! ねえ、言ったよね? 中峰!」


2.俺、隣で聞いてたから!

「ねえ、言ったよね? 中峰!」
「そうそう! 言ってやんな、中峰!」

 気配を消していたつもりだけど、存在までは消せないわけで……。
 一人の女子のせいで、女子垣が一斉にこちらを向く。

(げっ! 怖ぁ……)

 丹波さんも背中を押されて女子垣に組み込まれ、「ほら、ももかが自分で聞きな」と促されている。

「わ、私……瑛寿君のこと……大好きって、付き合おう……って、言ってないよね?」

 女子垣からズイっと一歩進み出た丹波さんが、上半身だけ逃げるように引いて座っている俺を腰に手を当てて見下ろして、琥珀色の瞳に圧を滲ませながら聞いてくる。
 どう答えるべきか……。

 キィーン

 六時限目の開始を報せるチャイムが鳴り始める。

 コォーン

 丹波さんの圧に屈して『言ってない』って答えるか、女子垣のワクワクしているような視線に応えるように『言った』って答えるべきか……。

 カァーン

 迷っている俺にむくむくとイタズラ心が湧いてくる。
 六時限目の先生は、いつもチャイムの鳴り終わりぴったしに入ってくるから……。

(よしっ! ここは――)

 コォーン

「言ったよ」
「ふぇっ?」
「言ってたよ」
「なっ!?」

 大事なことだから、二回言ってやったよ。

 ガラガラガラ!

「やばっ! イイトコなのにもう先生来ちゃった」
「座ろ座ろ!」

 ざわざわと喧噪を残しながら、女子垣がばらけていく。
 丹波さんは、動揺の表れか口をはくはくさせ、目を魚並みに泳がせながら後退り、膝カックンされたみたいにトスッと自分の椅子に腰を落とした。

 その表情が面白いので、「起立きり~つ、礼」の掛け声に合わせて立ち上がりながらも、丹波さんを観察続ける。

 彼女は相変わらず視線を彷徨わせていて、かろうじて「着席」の声に合わせて席に着くと――
 ハッと我に返り、同時にぶわっと顔を赤らめた。

(おおっ! 時間差赤面! 耳まで赤くなってるっ)

 ここでようやく俺が見ていることに気付くと、彼女は驚きに目を見張り、机に突っ伏してしまった……。
 表情が見えなくなってしまったけど、彼女が顔を埋めている腕とうなじの間から覗く耳は真っ赤っ赤なまま。

 俺も授業なんか上の空で、突っ伏したままの丹波さんをチラチラと見ていたら、そのうちに耳の赤みは無くなり、気持ち良さそうに寝息を立て始めた。

(おおっ! さすが丹波さん。睡魔には勝てなかったか……)


 丹波さんは、そのまま帰りのHRの終盤まで寝ていた。
 六限とHRホームルームの五分ほどの合間に、女子垣に揺すられようと叩かれようと、頑として起きなかった。

(思いっきり寝たフリだろうけど、正解だな。この女子どもにひとたび捕まったら、まず解放されないだろうからな……)

 そのHRも終盤。
 そろそろ終わって部活に行く、とかチャイムダッシュに備えて通学バッグを机の上に準備していたりと、クラス中がソワソワ感に包まれていたその時――

 丹波さんがむくりと起き、おもむろに今日家に持ち帰る物を机の上に並べ始める。
 そして、さっきのことなんて全く気にしていない素ぶりで俺の方に身体を近づけてきて、囁く。

「これ、お願いね」

 俺は「お、おう」と頷く。彼女の言わんとしていることは理解できた。

 キィーン

 HR終了のチャイムが鳴り始め――

 コォーンが鳴る前。
 先生の口が「はい、おわ――」
『ります』の前。

 丹波さんは低い姿勢を保ったまま、サササッとくのいちの如く後ろドアへ駆けだし、バッピシャと出ていった。

(職人芸……)

 コォーンカァーンコォーン
「――ります。運動部組は怪我の無いように、帰宅組は車に気を付けて帰るように」

 その瞬間に、未だ消化不良の女子垣が一斉に丹波さんの席に振り返る。

「ああっ~! ももかがいない!」
「え? モモ? はやっ」
「あ、さっきの音……」
「はあ? 逃げられたん?」
「ちっ! 部活前に取り調べしたかったのにぃ~」

 丹波さんに逃げられたと気付いた女子たちは、各々ひと通りブー垂れた後、散っていった。
 俺はその間、空気のように自分を押し殺し、空虚な目でただただジッと座り、クラスメイトが出ていくのをやり過ごしていく。俺は部活に入っていないし放課後は特にすることも無いから、ジッと待つ。


「……さてと」

 誰もいなくなった教室で、俺は自分の荷物をまとめ机に乗せると、隣の丹波さんの机へ。
 フックに吊るしてある丹波さんの通学バッグを外し、机の上の物を詰めていく。

「よし。帰るか……」

 自分と丹波さん、二人分のバッグを肩に掛けて教室を出て、昇降口で靴を履き替えて正門を出る。
 坂を下ること二分。家に着いた。

 ……といっても、下宿だ。学生マンションじゃない……下宿。
 二つ隣の市からは通えないってことで、下宿。
 アパートを借りて独り暮らしするってのは、学校の決まりで出来ないし、もしOKだったとしても自活なんてめんどくさいから下宿。

「ただいま帰りましたー」

 遠くからの「はぁ~い、おかえりなさ~い」という声を尻目に二階の部屋へと階段を上る。
 上りきって廊下に顔を向けると、部屋のドアの前には制服姿の丹波さんがドアに背を預けて立っていた。制服のままで。

「おかえり。えいくん♪」
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