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形だけのカップルってありですか?

叶わない恋でもいいんです

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 月曜の朝、望は早めに家を出て、リゾートウエディングに出社した。
 昨夜、美麗が心配をして電話をかけてくれたので、望は志貴の兄の診療所で治療をしてもらったことを話した。
 ただ、志貴と兄夫婦が三角関係だった過去を話すのはためらわれたので、そこをかいつまんで、志貴とつきあうことになったとどうやって説明すればいいのか分からず、結局は足の腫れがひいたので、明日の月曜は出社すると伝えただけに終わった。


 望の勤めるリゾートウエディングは、朝10時の開店で、大通りに面したビルの1階にある。まだ9時前では、通りから見えるショーウインドーはもちろんのこと、ショーウインドー越しに見える店内も明かりは点いておらず、誰も出社していないのが察せられた。
 望はビルの管理室から鍵をもらうと、静まり返ったフロアに入り、事務所や、相談カウンター、衣装が飾ってあるホールの明かりをつけ、パソコンの電源を入れていく。
 松葉づえをついていると、これだけの動きが結構大変で、ほんの少し屈むだけでも杖がじゃまになり、立てかけたつもりが、ずるりと滑って床に倒れるので、やっぱり休めば良かったかもしれないと、終業までの長い時間を思って、望は溜息をついた。

 2階の更衣室まで行くのに、望は普段階段を使うが、さすがに慣れない松葉づえを使って上るのは危ないと感じ、エレベーターで2階へ上がって更衣室に入る。
 片足でバランスを取りながら、何とか着替えをすませたが、それだけで体力を使い果たした気分になった。
 1階に降りた時に、美麗が通用口から入って来るのが見えたので、望はようやく頼れる相手を見つけてほっとした。

「今日は来るの早いね。まだみんなが来るまでに30分以上あるわよの。足は大丈夫?」

「うん、大丈夫。心配してくれてありがとう。更衣室が混むとこの足じゃ着替えづらいから・・・。あっ、でも、美麗だって早くない?」

「望はいつも早く着て、カウンターやホールを整えているから、手伝おうと思ったんだけど、いつも以上に早く来るとは思わなかったわ。役に立てなくてごめんね」

「ううん、できれば、カウンターの水拭きしてもらえると助かる。杖ついてちょこまか動くのって、慣れないと結構疲れるの」

「いいわよ。すぐに着替えてくるから、カウンターに座って待っていて」

 言うが早いか、美麗は望の後ろに停まっているエレベーターに乗り込んだので、望も美麗の言葉に甘えて、オフィス内に入り、全面ウィンドーの一角にある出入口に一番近いカウンター席に腰掛けた。そして、パソコンの画面に今日の相談客のリストを呼び出すと、内容をチェックし始める。
 ふと画面に映った電灯が黒い影に遮られたので、美麗が来たと思って振り向くと、長身にぴったり合ったスーツを着た佐久間が立っていて、望を見てにっこりと笑った。


「おはよう。望、早かったな。 足は大丈夫か?」

「び・びっくりした~。おはようございます。佐久間リーダー」

「また、佐久間に逆戻りか?」

「だって、ここは会社ですよ。誰かに聞かれたら困るんじゃないですか?」

「今は誰もいないだろ?」

 いや、いると望が言おうとした矢先に、廊下に面した入口に立っていた美麗が、つかつかとカウンター席までやってきた。

「佐久間リーダーどういうことです?望って呼び捨てにしていいのは私だけですよ!それに志貴って名前で呼べって一体……」

 望は首をすくめて、志貴の顔を窺った。志貴も頭に手をやって参ったなという顔をしている。二人の様子でピンときた美麗は、鬼のような形相で志貴を睨みつけた。

「佐久間リーダー、手が早すぎませんか?確かに望を応援しましたけれど、あの時、まだ本命を作る気ないって言っていませんでしたか?」

 望があたふたとしながら、美麗の袖をひっぱり、志貴に突っかかるのを止めさせようとした。

「美麗、あのね、勘違いしてるから!ちょっとショッキングな事情があって、佐久間リーダーは動揺しただけだと思うんだ。ただ、今は誰かに慰めてもらいたいっていうか……」

「最低!そんなことで望の純粋な気持ちを利用するなんて、佐久間リーダーを見損ないました」

 美麗の強い視線を真っ向から受けても、志貴はひるまず、堂々と言い返した。

「確かに、土曜日の時点では誰とも付き合う気はなかった。望から何があったか聞いてもらっていいが、その時の望の言葉に俺は打たれたんだ。
まだ恋愛感情だとかじゃないかもしれない。でも望なら信じられるし、一緒にいたいと思ったのは確かだ。それだけで付き合うのはいけないか?」

「もし、やっぱり友情しか感じませんでしたって結果になったら、望がどれだけ傷つくか考えましたか?異性だからって、望と簡単につきあえるからって、その場かぎりの慰めにするなら私が許しませんから!」

「異性ということに甘えてはいないつもりだ。望の人間性に惹かれたから申し込んだつもりだが、告白する勇気も持てずに、陰で邪魔をする人間と、俺とではどちらが望の側にいるのがふさわしいと思う?」

 望は二人の間で、困り果てていた。交互に二人の顔を窺うが、どっちも引かず、バチバチと火花が散りそうな視線を交わし、激しく言い争っていて、なかなか割り込めない。

 それに、割り込もうにも、美麗の言っている意味は分かるが、志貴の言う意味はいまいち分からない。告白もできずに、陰で邪魔をするって誰のことだろうと望は考えた。

 まさか、村上ではあるまい。そのほかに自分と接点がある男性は思い浮かばない。何かの比喩かもしれないけれど、あとで聞くとして、社員たちが来る前にこの二人を止めなければ・・・

 それにしても、客に対してはもちろん、社員たちに対しても、いつもは親切で面倒見の良い志貴が、美麗に対してこの厳しい口調はどうしたんだろうと望がいぶかしんだ時、志貴が突然美麗に頭を下げた。

「すまない。山岸。つい、熱くなってしまった」 

 美麗は怒るどころか、ものすごく冷めた眼で志貴を見つめ、フンと鼻をならした。

「佐久間リーダーは、頭の回転が速くて、どんな無理な要求を突き付けられても、事を荒立てずにそつなくこなす人ってイメージだったんですが、どうも違うみたいですね」 
 
 血気盛んだったころに失敗した志貴にとって、感情をむき出しにするのはもってのほかで、二度と失敗を繰り返さないように表面上は冷静に振舞っていたはずだった。
 ところが、美麗に望のことで挑発されて、他愛もなく、カッとなって仮面が剥がれてしまったので、言い返す言葉もない。
 
「あのね、美麗。佐久間リーダーは、本当はものすごく情熱的で、その反面で繊細なところも・・痛っ」

 志貴にデコピンされて、望は額を押さえて大げさに痛がるフリをした。

「恥ずかしいから、俺の説明はしないでくれ」

「分かりました。でも、二人とも私を物のように見て、勝手に所有権を主張しないでよ~。どうせ荷物もちか、聞き役くらいにしかならないけど、二人が喧嘩するのは見たくない」

 望の泣き言を聞いて、ふくれっ面が視界に入ると、志貴も美麗も睨みあうのをやめて、お互いバツの悪そうな顔を合わせないように、そっぽを向いた。
 やれやれと首を振った望が、もうすぐ他の社員たちが来るからと二人を追い立てて、ようやく途中だった顧客のチェックを再スタートした。

 そして、10時になり、開店の時間が訪れると、最初の客である今井里奈(28歳)がドレスの試着をしにやってきた。婚約者は仕事で来られないと聞いていたが、代わりにセンス良くきめた男性が里奈をエスコートしている。
 望は好んで着る服の雰囲気が、その男性の着ているものに似ているので、すかさず着こなしをチェックした。

「いらっしゃいませ。今井様。お電話でお話し頂いた3タイプのドレスをご用意してありますので、どうぞこちらにいらしてください。お連れの方は、カウンターのお席でお待ちいただけますでしょうか?」

「あら、和倉さん、足どうしたの?大丈夫?」

「ちょっと転んで捻挫してしまって・・・。お見苦しいところをお見せしてすみません」

 望が松葉づえをつきながら挨拶をすると、連れの男性がまるで値踏みをするように、望を上から下までじっくりと見てくる。
 不躾な視線に気が付いた今井里奈が、連れの男性の背中をバシッと叩いて注意をすると、改めてその男性を望に紹介をした。

「和倉さん、弟の今井たけるです。ドレスの展示スペースに女性のお客さんがいなければ、一緒に入ってもいいかしら?これでも若手デザイナーでは有望視されてるみたいだから、アドバイスをもらおうと思って連れてきたのよ」

 望が猛に視線を移すと、軽く会釈をした猛が、シルエットのきれいなジャケットのポケットから革製の名刺入を取り出して、その中から抜き取った一枚の名刺を望に渡した。
 【Take・I】と名刺に書かれたブランド名を見て、望はあっと声をあげた。

「このブランド大好きなんです。カッティングがとてもきれいで、シンプルに見えるけど、着ると絶妙な丈で、プロポーションがよく見えるんですよね」

「女性なのに、知っているってことは、彼が着てくれているのかな?気に入ってもらっているようで、デザイナーとしては嬉しいです」

「えへへ。実は私が着るんです。この通り背が高いし、パンツルックの方が多いから、カットソーを愛用させてもらってます。デザイナーさんに会えるなんて感激です」

「いや、そんな風に言われると照れるな。うん、でも、和倉さんは【Take.I】のどのカットソーも似合いそうだ。ここへ入って来て和倉さんを見た時、俺が作る服のイメージにぴったりとだと思ったんだ。今度女性ブランドも立ち上げるんだけど、和倉さん、俺のイメージモデルになってくれないかな?何だかすごくインスピレーションが湧きそう!」

 デザインの話になると止まらなくなる弟の背中を、里奈がまたパシッと叩いて注意すると、猛が舌を出して頭をかいた。

「和倉さんが困ってるでしょ。今は私に有名デザイナーの恩恵を恵んでちょうだい。和倉さん、中断させてごめんなさいね。ドレス見せてもらっていい?」

「ええ、どうぞこちらに。靴はここで脱いで頂いて、このスリッパに履き替えて頂けますか?弟さんもどうぞご一緒に中へ入ってください」

 細長いカウンターの向かいには、薄いボードに仕切られた床から天井までの壁があり、中央に設えた幅1mの入り口から中に入ると、そこから先がドレスの展示室になっている。
 所せましと並べられたドレスの一番奥には、壁にミラーが張り巡らされ、その一角が更衣室となっている。更衣室の前に、あらかじめ用意されていた違うタイプの3着のウェディングドレスがかけられているのを見て、里奈の目が輝いた。

「素敵!どれも着てみたいわ。私はこのウェストが絞ってあるマーメード型が好きだけど、猛はどう思う?」

「だめだな。姉さんは背がそんなに高くないから、マーメードはやめた方がいい。もし着るなら、ハイウェストのこれかな」

「やっぱりそうだよね。じゃあ、和倉さん、これ着て見ていいかしら?」

「ええ、どうぞ、ドレスはお持ちしますので、この試着室にお入りください。中にペティコートがありますから、先に穿いて頂いて、ドレスを上からかぶってくださいね」

  試着室のアコーディオンカーテンを閉めた望の後ろで、猛がぎっしりと詰まるように吊り下げられたドレスの前を行き来していたが、顎に手を当てて、うんと頷くと、1着を引っ張り出して望の身体にあてた。

「和倉さんは、これを着て見せてよ」

「ええっ!?私ですか?それはちょっと…。このドレスはお客様の試着用の物なので、仕事中に社員が着用することはできません」

「いいじゃない。今はドレスを試着しているのはうちの姉だけなんだし、このドレスのフィットの仕方で、和倉さんのサイズが大体わかるから頼むよ」

 ずずっとドレスを押しつけられて、背を反らした望は、片足と松葉づえで立っていたバランスを崩して後ろによろめいてしまう。
 驚いた猛がすぐさま腕を伸ばして、望の背中を抱き込むように前屈みになり、望の転倒を防いだが、松葉づえが倒れて床に打ち付けられ、大きな音が響いた。
 
 途端にパタパタと複数の足音がして、パーテーションで仕切られたドレスの展示フロアに、志貴と美麗が顔を出した。

「和倉、転んだのか?大丈夫か?」

 志貴が近くまで来てもお構いなしで、猛が謝りながらも望の肩と背中に回した手を放そうとしないので、志貴はわざとらしく咳をしてから、ようやく志貴を認めた猛に慇懃にお礼を言った。

「お客様、大変失礼を致しました。お怪我はありませんでしょうか?どうぞもう大丈夫ですからお手をお放し下さい。和倉に代って私がお話しを承ります」

 猛の手をどけて、望の脇から背中に手を回した志貴が、大丈夫かと聞きながら、望を助け起こした。その様子を冷静に観察していた猛が、ふ~んと面白くなさそうに呟き、側に立って二人を見守る美麗に問いかけた。

「ねぇ、あの二人って付き合ってるの?」

 望に並々ならぬ関心を抱く猛が、先ほど望にしたように、美麗は上から下まで猛を舐めるように見た。
 身長は望より5、6cmは高いだろうか。スリムな肢体と、襟足が長めの明るい髪に、毛先にランダムなパーマをかけたワイル系ベリーショートの髪型は、睫毛が長く少し吊り上がった目とまっちして、はっとするような男っぽさと洗練されたイメージを兼ね備えていた。
 
 やばいなと美麗は思った。この手の男性は女性の扱いに手慣れている。
 今まで望に近寄る男性を美麗が追い払っていたため、男性のアプローチに不慣れな望など、赤子の手を捻るくいらい簡単に落とせそうだ。
 望は志貴に好意を寄せているが、肝心の志貴がまだ態度をはっきりとさせていないので、望は志貴の傷をいやすための無償の奉仕のつもりでいる。
 そんな志貴に望を任せるのは不本意だが、この軽そうな男性よりはましだろう。
 覚悟を決めた美麗はいつも通り、望から自分に目を向けさせるように艶然とした微笑みを浮かべた。

「和倉は老若男女全てに頼られるタイプですが、なかなか恋愛関係は発展しないのです。どうぞカウンターへ、お飲み物をご用意致しますが、コーヒー、紅茶、緑茶、ウーロン茶どれがよろしいでしょうか?」

「なんか、煙に巻かれた気がするな~。二人は付き合ってるのっていう俺の質問に、なかなか恋愛に発展しないって答えたのなら、あの二人は恋人未満ってこと? それとも、俺が関心を持っても和倉さんが恋愛に無関心だから無駄ってこと?」

 美麗の眉がぴくりと動いた。二人の会話を聞いていた志貴も、猛の流行を追う外見とそのストレートな行動から、猛がもっと軽い人間だと思っていのに、今の答えから観察力もあり、頭の回転が速い男だと分かったので、猛を警戒して自然と望を隠す位置に立った。

「そんなに警戒しないでよ。俺はデザイナーなんだ。和倉さんを見てるとものすごくインスピレーションを掻き立てられるから、ちょっと先走ってしまったけれど、手を出そうとかそんなんじゃないって」
 
 志貴の大きな背中に隠されていた望が、ぴょこりと頭を覗かせて、くすっと笑った。

「今井さん、大丈夫です。誰も私なんかに興味を持つなんて考えないですよ。ただ、めったに風邪もひかない私がケガをしたので、みんな過保護になってるだけなんです。佐久間リーダーも山岸さんもありがとう。私の不注意で大きな音を立てて、心配させてごめんなさい。もう持ち場に戻ってください」

 ね?と首を傾げながら、志貴の顔を覗き込みながら背中を押す望に、強引に残るとも言えず、志貴と美麗が仕方なく頷いて、去り際に猛に軽く頭を下げた。
 旅行の相談ならいざ知らず、本来ならドレスの試着に男性社員が付き添うことはない。

 望が心配で交代すると言ったが、志貴には無理なことだと分かっているので退散するほかはなかった。
 美麗の仕事は手配などの事務全般なので、接客の訓練は受けていない。力になれず悔しそうな顔をして望を振り返ると、猛が面白そうに二人を眺めている。

 その顔を見て、美麗だけでなく志貴も同時に動いた。
 猛を挟んで両側に立つと、飲み物をご用意い致しますと言いながら、猛の背中を押してカウンターへと連れて行く。
 不満気な猛に、美麗が蠱惑的な笑みを浮かべ、イメージモデルは私ではどうかと誘いかけると、猛は目を眇め、美麗に一瞥をくれただけで首を横に振った。

「残念だけど、俺の服のイメージじゃない。フェミニンな服が欲しいなら市場に沢山出回ってるだろ?俺が作りたいのは、シンプルだけど、着た人自身の良さを引き出し、存在感を浮き出たせる服だ」

 美麗が本気でモデルにして欲しいと言ったのではないことを、猛はとうに見越していて、ばっさりと切って寄こしたので、美麗はいらいらしながら事務所に戻り、猛のオーダーしたコーヒーを入れた。
 思わず気持ちが動作に出て雑になり、受け皿にコーヒーをこぼしてしまい、美麗が近くに置いてあったティッシュボックスからティッシュを勢いよく引き抜いてコーヒーを拭き取り、カンターへ持っていこうとした。
 その時、40歳近くになってもすっきりとした体形を保っている店長の佐藤郁美が、美麗を呼び止めた。

「山岸さん。さっきの音は和倉さんかしら?大丈夫だった? 今日は一組のお客さまの対応を済ませたら、午前中はイベントを決める会議に入るから、ケガをしていても大丈夫だと思っていたけれど、他の社員と交代したほうがいいかしら?」

「店長、和倉は大丈夫ですが、和倉のお客様のお連れ様に少し手を焼いておりまして、カウンターで相談中の他のお客様にもご迷惑をおかけするといけませんので、休憩室を少しお借りすることができますか?」

 佐藤は、美麗から猛のことを聞くと、休憩室に飲み物を運ぶように美麗に指示を出した。そして、接客予定表を見て、望が相手にしている客の名前を確認すると、名刺を持って店長自らカウンターへと出向いて行った。

 そこには、ドレスの試着を終えた今井里奈と望もいて、パソコンの画面に映し出されたハイウェストのドレスの種類を見ながら、オーダーの場合とレンタルの場合の違いを、望が里奈に説明しているところだった。

 ドレスの展示場の出入り口から、後片付けを手伝った佐久間が出てきて、里奈と望に会釈をすると、事務所へ去っていく。すれ違いざま、店長が佐久間に視線で客の様子をどう?と眉をあげて尋ねると、佐久間が無言で眉をしかめて手こずりそうなことを伝えた。

 佐久間に了解の意味で頷くと、佐藤は他の客にも一声ずつ挨拶と祝いの言葉をかけながら、入口付近にある望の席へと近づいて行った。

「今井さまこの度はおめでとうございます。店長の佐藤と申します。今日のご試着はいかがでした?お好みのドレスは見つかりましたか?」

「ええ、ありがとうございます。今日は弟にも意見を聞こうと思って連れてきました。弟は【Take.Iテイク・アイ】のデザイナーなんです」

「まぁ、それは、それは・・・もし宜しければ、弟様のお話をあちらでお聞かせ願えませんか?お飲み物もご用意させて頂きましたので」

 望は心の中で焦っていた。店長が出てきたということは、先ほどのやりとりを美麗が伝えて、助っ人に来てくれたということだ。
 猛の申し出は唐突だったが、別にセクハラをされたわけでもないし、あのくらいさばけなくては一人前のプランナーとは言えない。
 なんだか、猛を悪者にしているように感じ、罪悪感にかられた望は、いつも以上に饒舌になって、店長に向かって猛を褒めてしまった。

「店長。今井さまの弟さんはすごいんですよ。今、20代、30代の男性に指示されるインディーズブランドでは注目の的なんです。私も何着か持っているんですが、とっても着やすくて、服に自分を支配されないっていうか、自然でいられるんです。今は人気がありすぎて、ネットやお店の品もすぐなくなって手に入らないんです」

「まぁ、そんなに有名な方だったの?もっとお話しをお伺いしてもよろしいですか?どうぞこちらへ」

 店長がしゃしゃり出てきたことに、自分が問題視されたと気分を害しかけた猛も、望が自分のブランド服を褒めてくれたので、途端に気持ちが上昇した。
『服に自分を支配されないで自然でいられる』 猛は望の言葉が嬉しかった。
 これこそ、服をデザインするときに、猛がいつも念頭に置いていることだったからだ。

 ふと視線を感じて後ろを振り返ると、佐久間と呼ばれる男性社員が、表情を硬くして猛を見ているのに気が付いた。
 猛は店長の後について行きながら、志貴の横を通り過ぎる時に、ぼそっと呟いた。

「なぁ、さっきのやっぱり取り消すわ」

「何のことだ?」

 一瞬訝しんだ志貴は、更衣室で聞いた猛の言葉を思い浮かべて、まさか?と猛を窺い見た。確か猛は、デザイナーとして望を見ているだけで、女性として口説くつもりはないというようなことを言ったはずだ。
 そのことを指して、取り消すと言ったのかと表情を変えた志貴の肩を、猛が軽く叩いて、にんまりと不敵に笑った。

「だって、お宅ら恋人未満なんだろ?俺にもチャンスありだよな?」

 志貴が何かを言い返す前に、猛は先に行く店長との距離を大股で歩いて詰め、休憩室がある廊下へと消えて行く。
 志貴は焦って佐藤店長を呼び止め、自分が猛の相手を務めるというと、佐藤もあっさり承知した。

「そう?じゃあお願いね。11時のイベント会議まであと20分ほどあるから、和倉さんもそれまでに受け付けを終えるでしょう。もし、突然の来客があって、カウンターの人手が足りなくなったら、また声をかけるわね」

 佐藤が扉を閉めた途端に、テーブルに手をついて身を乗り出した志貴が、向かい側に座る猛の顔を睨みつけた。

「望に手を出すな!俺たちはまだ付き合い始めたばかりなんだ。邪魔をしないでくれ」

「ふ~ん。でも付き合い始めって、一番幸せ一杯な時じゃないか?なのに、何で和倉さんは、あっ、望ちゃんっていうのか、私なんかに興味を持つ人はいないなんて悲しいことを言ったんだ?付き合おうって言ったのはどっちの方?」
  猛が望ちゃんと名前で呼んだことは癪に障ったが、続いた猛の言葉に状況を思い出して、咎める気が削がれた。

 あの時志貴は、猛が望に手を出すのを警戒して、望を背中に隠して猛の前に立ち塞がり、望を更衣室から連れ出そうとしていた。
 それに対して猛が、望を口説こうとしたのは女性としてではなく、モデルとしてであり、インスピレーションを与えてくれる存在だからと言い分けたのを、望が当たり前だと肯定したのだ。

『今井さん、大丈夫です。誰も私なんかに興味を持つなんて考えないですよ。ただ、めったに風邪もひかない私がケガをしたので、みんな過保護になっているだけなんです』

 恋人のいる望が、自己否定をすることを猛が不思議がるのは当然で、志貴の気持ちが真剣に望に向いていれば、望にそんなみじめなセリフを吐かせることはなかっただろうと思うと、志貴には堪えた。

「俺から申し込んだ。だが、望は色々なことがあって、自分に自信がないんだ。俺がこれから持たせられたらいいと思っている」

「何?そのあやふやさ。俺なら望ちゃんの個性を、俺の作る服で引き出して、自信を持たせてやれるぞ。だいたい、あんたは彼女に女を感じたり、抱きたいとか思ったことがあるのか?」

「なんだと!?」
 
 志貴が急に立ち上がり、机越しに猛のジャケットの襟元を掴んで引き寄せたので、猛が座っていたパイプ椅子が転倒し、ガシャーンと派手な音を立てた。
 客の連れに対して取る態度ではないと分かりながら、猛が望を女として見たことや、志貴よりも猛の方が幸せにできると言ったことに対して、志貴は猛烈に腹が立ち、ブレーキが利かなくなった。

 睨み合う二人の間に入ったのは、いつの間にかドレスの相談を終えてやって来た望だった。イベント会議が始まることを知らせに来たのだが、けんか腰の二人を見て驚いて部屋の中に駆け込んだ。

「佐久間リーダー、何してるんですか!今井さんの襟を離してください。一体、二人とも何をやってるんですか?」

 望みの声を聞いて力を緩めた志貴の手を、思いっきり払いのけた猛が、皺を伸ばすようにパンパンと襟元を叩いた。その間も不敵な笑みを絶やさないで志貴を睨みつけている。

 望は状況が読めず、おろおろしながら、猛に里奈のドレスが決まったことを告げ、遠回しに帰ることを促したが、猛は聞く耳を持たなかった。
 それどころか、志貴に向けていた不敵な笑みを収め、望には優しい笑みを浮かべながら、姉のドレスの件に対して礼を述べると、猛はイベントが何か訊いてきたのだ。 

「リゾートウエディングを宣伝するためのイベントです。今から、社員全員が企画のアイディアを出すのですが、採用された人のアイディアを元に、関連会社を含めて大きなイベントをする予定なんです」

「へぇ~、面白そうだね。望ちゃんはどんな案を出すの?」

 望が喋るよりも早く、志貴が望を止めた。
「申し訳ないのですが、これから会議が始まりますので、部外者の方はお帰り頂けますでしょうか?」

「じゃあ、俺が望ちゃんのために企画用の何かをデザインするって言ったらどうする?イベントに関わらせてくれるか?」

 時間になっても姿を見せない志貴を、呼びに行った望までがなかなか帰ってこないので、仕方なく様子を見に来た佐藤店長が、猛の言葉を聞いて手放しで喜んだ。

「まぁ、素敵!有名なデザイナーさんが参加して下さるなら、イベントも盛り上がりそうね。今井さま、もしお時間おありでしたら、この後の会議に一緒に参加して頂けますか?佐久間の知り合いの雑誌編集者も参加して下さるので、お話によっては今井さまにとっても、良い宣伝になるかもしれません」
 
 さすが店長と望は顔を輝かせたが、志貴の眉間の皺が伸びるどころか、より深く刻まれたのを見て、これから先が思いやられると複雑な気持ちになった。

 店長の後について望たちが接客ロビーに入っていくと、既に他の社員が細長いカウンターにイスを並べて座っていたので、部外者の猛は一斉に注目を浴びることになったが、慣れっこなのか、猛は堂々と社員たちの顔を見まわしている。

 自分の力で成功の道を上っている人は違うんだと、猛の自信に溢れる姿に望は感心し、その反面、自分とはあまりにも違う性格に羨望を抱かずにいられなかった。

 里奈は入口付近で猛を待っていたが、会議に参加させてもらうことを猛から聞くと、望にお礼を言い、猛には迷惑をかけないように釘を刺すと、社員たちに会釈をしてから先に帰っていった。

 佐藤店長が、猛が【Take.I】というブランドのファッションデザイナーであることを紹介すると、若い社員たちは知っていると感嘆して呟き、知らない者はスマホで調べて、【Take.I】が有名なことに驚きの表情を浮かべ、その場が興奮に包まれた。

 志貴の心境を知らない雑誌編集者の鈴木が、志貴が隣に座るやいなや、面白そうな企画ができそうだなと声をかけてきたので、志貴は黙って頷いたが、心の中では、猛が畑違いのウェディング企画の参加を諦めて、直ちに帰ってくれることを願っていた。

 社員が一人ずつ、またはグループでアイディアを出す中、望が出したアイディアはダントツにみんなの人気を集め、多数決の票も一番多く獲得して、リゾートウエディングの宣伝企画は望のプランでいくことになった。

 志貴が結実神社には能舞台があることを話し、ミッションをこなして頂上に集まったカップルの前で、ウェディング衣装のファッションショーを行うことを提案すると、それも素晴らしいアイディアであると全員の賛同を得た。

 社員たちが湧く中、望から渡された結実神社のパンフレットを、腕組みをしながらじっと見ていた猛が、おもむろに顔をあげて志貴に質問をした。

「雨天だったらどうする?それと、海風が強い日だと頭の飾りが飛ぶかもしれないだろう?対策は考えてあるか?」

「いや、この企画がまだ通るかどうか分からなかったから、細かい点はこれから考える。能舞台には屋根があるから多少の雨なら凌げるはずだ。風が強い場合は、ティアラはとにかく、ベールはまずいな」

 いがみ合っていたと思ったら、仕事のこととなると二人とも、疑問点と解決策をどんどん出していくので、この二人は案外気が合うのかもしれないと望は思い、込み上げる笑いを、二人に見えないようにそっと掌で隠した。

「あの、今井さんは先ほど、企画用のデザインをしてくださるとおっしゃったのですが、本当にご協力頂けるのでしょうか?もし、して頂けるとしたら、どんな感じのものをデザインして頂けるのでしょうか?」

 みんなが湧いている気持ちを更に盛り上げて、企画への協力を強固にするため、望は猛の力を借りることができるか確認をすると、猛はとんでもないことを言い出した。

「望ちゃん、モデルやってよ。俺、望ちゃんに似合う、カジュアルドレスっていうのかな、ガーデンウェディングで着られそうなライトドレスをデザインするから、モデルになって着て欲しい」

「えっ!?猛さんがドレスをデザインするんですか?てっきり、ブライダルショーの後で 【Take.I】の新作を発表して下さるのかと思っていました」

「それじゃあ、俺がブライダルショーに咬む意味が無くなるでしょ?望ちゃんの答え次第だよ。どうする?モデルをやるかい?」

「今井さんがドレスをデザインなんて、それだけで話題を呼びそうで、嬉しいです。でも、私が着るなんてもったいなくてとんでもないです。本当のモデルさんに着てもらった方が……」

「ほら、また自分を否定する。俺はウェディングドレスのデザインは2度とする気はないから、特別中の特別。望ちゃんが着るならこの企画に参加するし、着ないなら降りる」

 女性社員たちから、いいな~という羨ましさ半分、応援半分の声が上がると、望は自分に課せられた責任を感じて、思わず斜め前に座る志貴に縋るような視線を送った。

 ちらりと望の顔を見た志貴が、犬顔とぼそっと呟くのを聞いて、望のその表情はご主人さまの顔色を窺う犬みたいだと志貴が言ったのを思い出し、望は急におかしくなって、すっかり緊張が解けてしまった。
 ふふっと笑んだ望はかわいくて、これなら行けると踏んだ社員たちが、やりなよ~と声援を送る。

 和気あいあいとする雰囲気の中、雑誌編集者の鈴木が志貴に断り、席を立って電話をかけに行ったので、社員たちはその動向が気になって急に静かになった。
 再び社員たちの気を盛り上げようとして、佐藤店長が望に、モデルをやれるかどうか確認を入れると、一同の視線が、期待を込めて望に向けられる。

 イベントは2カ月後の6月末で梅雨も明けて、ウェディングドレス一枚で戸外に出ても申し分ない気候だ。成功のカギを自分が握っているというのなら、企画を発案した責任上、受けるべきだと望は思った。モデルなんかやる自信はないけれど、みんなの期待を裏切りたくはない。

「店長。私やってみます。でも一つ質問があります。他のウェディングドレスはレンタル品や、新製品のサンプル品を使えばいいと思いますが、今井さんのドレスのデザイン料と製作費はどうすればいいでしょう?経費では賄いきれないかもしれません」

 誰もが思っていて言い出せない質問だったので、その場にいた社員たちの目が、戸惑いがちに猛に集まる。猛は一同を見渡してから望に視線を戻すと、安心させるようににっこりと笑った。

「デザイン料はいらない。俺から言い出したことだし、望ちゃんが着るなら俺もやりがいがある。ただ、俺はドレスは専門外だから、パタンナーと生地代、製作を知人に頼むことになる。姉の婚約者だから、無理は聞くと思うけれど、こちらの繋がりで頼んだ方が安ければお任せする」

 猛の話が終わるや否や、いつの間にか席に戻ってきていた雑誌編集者の鈴木が、話に割って入ってきた。

「その件で提案があります。出版社に電話をかけて編集長と話してきたのですが、今回は広告の依頼ではなく、こちらから取材をさせていただく方向に変えさせて頂きたいと思います。広告代を頂かない代わりに、今井さんの工房での仕事やドレスができあがるまでと、イベント当日の独占取材を希望しますがいかがでしょう?」

 鈴木の話はまさに、願ったり叶ったりの内容で、志貴と望は目を合わせ、やった!と小さなガッツポーズを机の上で作った。
 話を終えて着席した鈴木の肩を、軽く叩いて志貴が握手を求めると、鈴木は照れ笑いをしながら、志貴の手を握り返す。

「鈴木さん感謝する。広告費がドレスの制作費に回せれば、予算内でイベントが行える」

「ああ、こっちも自分のウェディングの件で、佐久間さんに世話になってるし、割り引いてもらってるから、返すことができて嬉しいよ。それに今話題の若手デザイナーの特集記事は、僕たちにとっても美味しい話だし、一石二鳥だ」

 二人のやり取りを見ていた猛が、そろそろ口を挟んでいいかなと茶目っ気たっぷりに聞いたので、社員たちの間に笑いが起きた。

「俺の方も取材してもらって構わない。それで製作費が浮くならもってこいだ。じゃあ、決まりってことで、望ちゃん、今度の休みはいつ?ドレスのデザインをするからアトリエに来てくれる?」

 周囲がイベントの成功をイメージしてわいわいと騒ぐ中で、モデルを受けたものの、本当にできるのだろうかという不安な気持ちがありありと顔に出ている望と、さっそくアトリエに来させようとする猛を、イベントのために止めることもできず、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている志貴を見て、猛はくっくっと喉で笑いながら、当然来てくれるよね?と望に誘惑するような目を向ける。

「今井さん、スケジュールが滞りなく進むかどうか、まだ2年目の和倉には荷が重いと思われますので、指導社員だった私が、責任をもって付き添わせて頂きます。スケジュールなどの調整も私を通してお願いします」

 志貴が猛の視線を遮るように、自分の連絡先を書いた名刺を猛の目の前に差し出すと、猛は面白くなさそうに一瞥して、仕方ないとでもいうように片手で受け取った。

「じゃあ、俺はこの後仕事があるから、これで失礼します。急な参加を快く引き受けて下さってありがとうございました」

 志貴には辛らつな態度を取る猛も、他の者には礼儀正しく挨拶をして帰って行った。その後ろ姿を見送ってから、イベントを盛り上げるためとはいえ、モデルの件で、望に負担をかけないかどうか店長が心配をして声をかけたが、嫌ならやめてもいいと絶対に言わないことは望にも分かっていた。
 この支店を任されているトップの立場からしたら当然だろうと思うし、望は自分が言い出した企画に乗ってくれた人たちの期待を、今更裏切ることができなかった。

「佐久間リーダーが付いていて下されば、安心して臨めますので、休日などのスケジュールが合うように調整をお願いします」

「分かったわ。じゃあ、この件は佐久間リーダーに一任します。頼むわね」

「はい、任せてください。イベントを成功させるようにみんなで頑張りましょう」

 ほっとして拍手をした社員たちに、店長が会議の解散を告げ、短くなったランチタイムに向かう者と、予約をした客の来店に備えて、店内を片付ける者とで急にフロアが騒がしくなる。

 望の次の予定は2時からで、時間に余裕があるために片付けに回った。松葉杖を突きながら椅子を移動させていると、志貴が積み上げて運んできたイスの上に、望が片手で抱えているイスを載せて運ぼうとする。
 
「佐久間リーダー有難うございます」

 色々な意味を込めて望が志貴の背中に声をかけると、志貴が立ち止まって椅子を床に置き、望のところに戻ってくる。急に方向転換をした志貴に驚いて、何か変なことを言ったのかとあたふたする望に、志貴が他の社員たちに聞こえないくらいの声で告げた。

「言っておくが、俺は雰囲気に流されて付き合ってくれと言ったわけじゃない。今回は仕事だから、望があいつの要望に応えたのは仕方ないが、横から入って来た邪魔ものに、やすやすと望を渡す気はないから、そのつもりでいてくれ」

 望の気持ちがぐらつかないように釘を刺すと、志貴はくるりと踵を返した。
 だが、その途中で視界に入ったのは、ぼっと赤く染まった望の頬で、効き目を確認した途端、志貴はついにんまりとしてしまった。
 そして、緩んだ口元を誰も見られないようにするため、積み上げた椅子を持ち上げて隠すと、片付けるためにフロアを後にした。
 

 メールでやりとりをした3日後の木曜日に、望は志貴の車に乗せられて、猛のアトリエへと向かった。
 めったに穿かないスカートを身に付けた望に、志貴がとても驚いてから、似合うよとぼそっと言ったので、望は採寸のためとはいえ、無理をして穿いてきてよかったと心が浮きたった。今なら彼のために綺麗になりたい女心が良くわかる。

 会議の日に、志貴が雰囲気に流されてつきあったんじゃないと言ってくれたことは、望みとっては思いもよらないことで、それだけでものぼせそうなくらい嬉しかったのに、夜になってから志貴のメールが届いた時には、心臓がばくばくして倒れるかと思うほど緊張した。
  
[今日はお疲れ様。望の企画が通って良かったな。できる限り手伝うから頑張れよ]

 付き合う以前の指導社員と新入社員の関係なら、後輩に向けた激励の文面に、望は飛び上がって喜んだかもしれない。
 でも、恋人としてもらうには、ちょっと物足りない。
 今まで、期待しないように言い聞かせ、自分を抑えていた反動なのか、もっと言葉が欲しくなる。

[志貴さん、ありがとう。志貴さんがついていてくれるから心強いです]

[今井猛から、木曜日の午後2時に【Take.I】のアトリエに来て欲しいと連絡があった。予定は空いてるかい?]

 文面を読んで、期待する気持ちがまた萎んでしまう。う~ん、甘い返しが欲しい。仕事の話じゃなくって・・・。
 よしっ!こっちから誘っちゃえと、望は勇気を出してお願いをしてみることにした。

[大丈夫です。もし、よかったら、午前中も会えませんか?]

[残念だけど、その日はスケジュール調整がつかなくて、午前中は仕事なんだ]

 望はスマホの画面をピンと指ではじいた。
 う-そ-つ-き…雰囲気に流されて付き合ったんじゃないなんて……
 きっと、今井猛さんのプッシュのせいで、ちょっとだけ張り合いたくなっただけじゃないのかな。あんなことを言ったのを、本当は後悔してたりして……

 望はふ~っと大きく息をついた。
 付き合う前より寂しいって感じるのはどうしてだろう?

 ごろんとベッドに寝っ転がって、変わらない文面とにらめっこをしていると、次のメールが届いた。今度は気持ちにロックをかけてから開く。

「俺も会いたかった。13時に迎えにいくから、待っていて」

 つんと鼻の奥が痛くなる。何度も瞬きながら、フェイントなんてずるいよと口を尖らせた。

 あの後、なかなか眠れなくて、翌日は寝不足の癖に、気持ちだけがハイになって、美麗に胡散臭そうな目で見られたんだっけ…あっ、そうだ、美麗も今日は電車で来るって言っていた。
 
 そんなことを思っているうちに、志貴の車は、幹線道路から少し住宅街へ入ったところにあるアトリエに着いた。
 1階は【Take.I】と看板がかかったショップになっていて、案内表示によると、どうやら2階が制作アトリエになっているらしい。

 古民家を改造したらしく、【Take.I】を知らない人でも、何のショップだろうと外観に興味を引かれるに違いなく、望は雰囲気のあるこの店をとても好きになった。 
 ショップの中には太くて大きな梁が渡り、開放的な窓を設えた店内は、薄めのアースカラーでまとめられて、服の素材や色を引き立てている。
             
「で?なんであんたまで来るの?」

 望を守るために志貴がついてくるのは分かるとしても、美麗までが地下鉄を乗り継いでやってきたので、猛は不機嫌な顔を隠さない。

「いいじゃない。ファッションデザイナーのオフィスなんてめったに見られるものじゃないし、今日は採寸なんでしょ?佐久間リーダーが付き添えなくても、私が側についているつもりよ」

「ふん、恋人同士なら、見たって構わないんじゃないか?それとも、付き合い始めたばかりだから、刺激が強すぎるかな?まっ、いいや、2階に上がって」

 望みがスカートを穿いただけでも、進展したと感じる二人には、猛の辛らつな言葉が突き刺さる。もの言いたげに望を見る志貴の視線に気づかないフリをして、何てことを言ってくれるんだと内心焦りながら、望はあたふたと猛の後に続いた。

 外付けの階段を上って大きな木製のドアを開けると、ダークブラウンの木目が美しい床と木の引き戸が目に入る。
 望たちが靴を脱いでスリッパに履き替え、引き戸から中に入ると、作業台が中央と窓際に置かれているのが見えた。その上には様々な布や糸、裁ちバサミなどが置いてあり、猛が普段そこで作業していることが察せられる。
 
 奥の壁際には、はめ込みの棚が天井近くから腰の高さまで並び、人二人がすれ違えるほどの幅を挟んで、天然木の一枚板で作った長いカウンターが置かれている。その上には、パソコンやスケッチブック、資料などが所狭しと置かれていた。
 
 望は興味深く辺りを見回して、この造りが最初はデザイン事務所とは違う目的で作られたのではないかと思った。
 段々に連なった棚には、きっと酒類が置かれていたに違いない。
 
 その証拠に目の高さに設置された棚の下には、グラスをかける金具が付けられ、カウンターの端にはシンクが隠れている。
 望みの視線を見越した様に、猛がここは隠れ家風のバーだったことと、ここで仕事を始めた理由を説明した。

「従妹夫婦が趣味で始めた店なんだけど、旦那が海外転勤になってさ、
 建物が傷むといけないから後を任されたんだ。
 二人は日曜大工が得意だったから、休日の度にこつこつと手を入れて、古家を改造していったんだけど、念願かなって店を開いて約2年で転勤になった。今では他の趣味にはまって、ここを買えって催促されている」

「そうなんですか?いいな~。こんな雰囲気のあるアトリエなら、ファッションだけでなく、全てのデザイナーさんが欲しがるかもしれないですね」

「ああ、それにはメジャーにならないといけないな。だから、今回の宣伝も大いに利用させてもらうよ。その代わり最高のドレスを作るから望ちゃんも協力してくれ。じゃあ、あっちの部屋で採寸するから来て」

 次の部屋の扉を開けかけて、猛が望の全身を見てう~んと唸る。
 アトリエ内は土足厳禁のため、望は外でついていた松葉づえを入口に立てかけ、今は痛めた足は添えているだけで、ほとんど片足で体重を支えている。
 当然身体は足を庇う形で歪んでいるので、まともな採寸ができそうにない。志貴にあんたも入ってと猛が首で指図したので、望が慌てて首を振った。

「待って、今井さん。美麗に手伝ってもらいますから、志貴さんにはちょっとここで待っていてもらって・・・」

「あのね、美麗さんの力では、望ちゃんの体重をずっと支えていられないだろ?分かったら、さっさとこっちへ来て、時間を無駄にしたくない。メールしたけれど、望ちゃんはブライダルインナー着てるよね?よし脱いで」

 あまりにもさばさばと指示を出されて、望は猛の押しを警戒していた自分がおかしくなった。
 そうだよね、今井さんはファッションデザイナーなんだから、採寸なんて慣れているものねと納得し、上着、カットソー、を脱いでビスチェ姿になる。
 さすがにスカートのウェストに手をかけた時には、脱ぐのをためらったが、猛がトントンとつま先で床を叩いて催促をするので、ビスチェとお揃いのフレアパンツ姿になった。

「恥ずかしがる必要はないよ。今、俺は仕事モードで望ちゃんは単なるモデルにすぎないから。医者に診察される時に、脱いだり触診されるのに、恥ずかしさは感じないだろ?それと同じだと思って」

 そうは言われても、猛の視線は仕事だと割り切れても、望はもう一つの視線が気になって、思わず志貴の顔に目をやってしまう。ばちっと視線が合い、望は志貴の視線の熱さに焼かれそうになった。

 志貴の視線が望の顔から、首、胸とだんだん降りてくる。
 心臓が高鳴って、望は頬に熱を持つのが分かり、思わず俯いて志貴の視線から逃れ、気持ちを必死で落ち着かせようとした。

「望ちゃん両腕を水平に上げて。佐久間さん、望ちゃんが真っすぐ立てるように後ろで腕を支えてやってくれ」

 志貴は頷いて、望の後ろに立ち、望の二の腕を、下から支えるように包み込んだ。志貴の掌が熱くて、望はびくりとしたが、顔には出さずに呼吸を平静に保とうとする。
 だが、背中が大きくあいたインナーでは、少し離れた志貴の体温すら伝わってきて落ち着かない。

 突然、うわっと志貴が叫び、望の腕が強く引っ張られた。望はバランスを崩して後ろへと倒れ、志貴に抱き込まれる。

「何をするんだ!この変態野郎!」

 真っ赤になって怒る志貴を、望は抱き留められたまま、斜め後ろに傾いた状態で見上げ、一体何が起こったんだろうと、視線を志貴が怒鳴った方向に向けると、横に立った猛がにやにと笑っている。 

「いや、悪い!あんまり取り澄ましているから、どっか悪いのかなと思ってさ。それなら俺にも勝ち目があるかなと思ったんだけど、ちゃんと反応…」

「うるさい!黙れ!望がケガをしたらどうするんだ?俺に触るな!」
 
 志貴がこんなに狼狽えるのを初めて目にして、望のどきどきはだんだん激しく大きくなる。
 反応って…触るなって……ええ~~~っ!?
 猛が志貴のどこに触ったのか想像をした途端、望は顔と言わず、全身が真っ赤になった。

 志貴に背中を預けているだけに、余計リアルに想像してしまい、うずうずと得体の知れない蠕動ぜんどうが身体の中心に湧き起る。

 助けを求めて美麗を見たが、一部始終を見ていた美麗はつぼにはまってしまったらしく、身体を折って笑いこけている。 
 そうだよね、冗談で流せばいいんだよね。まだ笑いの止まらない美麗を見ているうちに、望はほっと一息をつくことができた。

「う~ん、もうちょいで、殻から抜け出した望ちゃんを見られそうだったのにな……残念だ。ちょっとそのままでいてくれ」

 傍らのテーブルにあったスケッチブックを手に、猛がサラサラと何かを描き始める。真剣に望を見つめたかと思うと、次の瞬間には望を通り抜けて遠い所を見ているような顔をする。

「おい、デザインをするのに、俺たちをからかったのか?」

 志貴は知られたくないことを、望の前で暴かれたので機嫌が悪い。
 やりたいだけやって、自分の世界にこもった猛に、文句の一つや二つも言いたくもなる。

「望ちゃんにぴったりのドレスはどんなものがいいか、色々な角度から見たいんだ。感情もオープンにした生き生きとした望ちゃんを表現したい。
でなければ、その辺のトルソーにでも着せておけばいい布になっちまう」

 猛の言った人の胴体部分だけを模ったディスプレイツールに目をやった望は、鏡に映った自分と見比べて、果たして猛の要求に応えられるかどうか不安になってきた。

「あの、今井さんが言いたいことは分かるんですが、どうして垢ぬけない私をモデルにしたいなんて思ったんですか?」

「自分で垢ぬけないなんて言ってちゃだめだ。人は自信次第で、印象がぜんぜん変わってくるんだから・・・」

「それは、今井さんみたいに、ファッションデザイナーとしての才能があって、自分のブランドを立ち上げているから言えるんです。私なんか、志貴さんと付き合うまでふられてばっかりだし、女性としての魅力があるなんて思えないのに、ドレスのモデルなんてハードルが高すぎます」

「えっ?ふられてばっかりって?ほんとかそれは?」

 猛が驚いて質問すると、きまり悪そうな素振りを見せたのは望だけではなく、美麗がもじもじしながら、望の代わりに言い訳をする。

「望はもてないんじゃなくて、周りの男が浮気症で、根性無しのどうしようもない奴ばかりだったのよ。女性から見たって、望は中性的で目鼻立ちもはっきりしてきれいだもの。プロポーションだっていいし、もっと自信をもって欲しいわ」

「美麗さんは、友達思いなんだな。俺に向けるつんけんした態度とは大違いだ。望ちゃんはあまり流行に敏感じゃなさそうだから、知らないかもしれないが、今はジェンダーレスが流行してるから、望ちゃんの顔はモテ顔なんだぞ」

 へぇ、そうなのと望が目を丸くしている後ろから、志貴が渋い顔で猛をにらむ。

「他のやつにもてる必要はないから。そんなことに自信を持てとそそのかさないでくれ」

「いや、だめだ。根本的に自信が無い望ちゃんには、外見からでもいいから、自分は周囲から認められる人間なんだと思えることが自信に繋がるんだ。そうすると、人に働きかける時に説得力が出るし、またそれが自信に繋がる。俺は自分がデザインしたドレスで望ちゃんにきっかけを与えたいんだ」

「今井さんの言葉は嬉しいです。でも今がモテ顔だからって、今まで男女おとこおんなとか言われてフラれ続けた記憶は残ってるから、そう簡単に自信を持てと言われても難しいです。でも、今井さんの服は好きだから、私のためにデザインして下さるドレスが似合うように、当日は頑張って演技します」

 仕方ないなと溜息をついて肩をすくめた猛が、壁際に置いてあった机の引き出しから、写真立てを引っ張り出して机の上に立てかけたので、望はそこに写っている少年に目を留めた。
 もっさりした髪に黒縁眼鏡、歯並びの悪い少年は、いかにも自信がなさそうに立っている。

「これ、俺だから」

「ええっ!?」

 望だけでなく、美麗も、志貴も目をまるくして、写真と成長した今のスタイリッシュな猛をまじまじと見比べる。

「顔って、変化するって知ってた?もちろん原型は変わらないかもしれないけれど、気持ちが顔を作っていく。今の俺だって決してパーツ全部が良いわけじゃない。でも、歯の矯正もしたし、眼鏡からコンタクトにして、顔かたちに似合う髪型を研究して努力もした。仕上がりに強い意志を持てば、顔だけでなく態度までこの写真の人物とは違って見えるだろ?」

「ええ、びっくりしました。正直言って、聞いた今でも、写真の人が今井さんだとは思えません」

「これに比べたら、望ちゃんは恵まれている。流行は変わるから、また男女と言われる時代が来るかもしれない。でも、それがどうした?これが私だ!と打ち出せるくらいに、今の自信のない望ちゃんを壊して、叩き直して強くしてやりたくなる」

 志貴が横暴だと反論しかけたが、望が身体を捻って志貴を視線で止め、今度はまっすぐに猛に向かって答えた。

「今井さんは、自分で自分を変えたから、自分のやることに自信が持てるんです。私は今井さんに壊されたいとは思いません。でも、今井さんがデザインした服は好きです。着ている時に違う自分になるのではなくて、自分らしくいられるからだと思います」

 ふんと鼻を鳴らした猛は、まぁ見てろよと言いながら、描いていたデッサンを終えて机に置く。今度はクリップボードを取り上げて、美麗にそれを渡すと、測った数字を上から順に書いていくように指示を出した。
 首にかけたメジャーをシュッと伸ばして望に巻き付け、望の頭部の大きさから、首の長さ、肩幅などを細かく読み上げていく。

 胸囲を測る時も余分な所に触れることもなく、さっさと測ると、美麗のボードを取り上げて、猛自身が数字を記入する。
 志貴の前で言わないでいてくれたことに感謝した望は、少し余裕が出てきて、猛の無駄のない仕事ぶりを観察して、さすがプロだと感心した。
 
「美麗さん、ここに来てウェストのところでメジャーを押さえてて、望ちゃんの脚を測るから。うわっ、長いな。これはドレスにいいラインが出せそうだ。望ちゃんは本当にプロポーションがいいよな?」

 望のウェストにメジャーの端を当てながら上半身を少し倒した美麗に、床に屈んで手をついたままの猛が同意を求めて振り仰いだが、ん?と一瞬動きを止めて、頬を少し紅潮させた美麗をしげしげと見つめる。

 猛の視線に気づくまで、美麗は望がモデルに請われた意味を目の当たりにしていた。店から借りてきたビスチェには細かい刺繍やレースがふんだんに施され、キュッとウェストが絞られ、胸を繰り出された望は、そのまま雑誌に載っていてもおかしくないほど美しかった。

 普段ボーイッシュな服しか着ない望を見慣れている美麗が、見とれてしまったのは無理のないことで、悟られぬように顔を背けたものの、目ざとい猛に見つかってしまった。
 美麗がさっと表情を隠したのに気が付き、猛が目を見開く。

「美麗さん、まさか……」

「おいっ、無駄口叩いてないで、早く済ませてくれ」
 志貴が怖い顔で猛を急かすが、猛の興味は美麗に移ってしまっている。

「どうりで、俺がちょっかい出そうとすると邪魔したわけだ」

 能面のように表情を無くした美麗の顔は、心無しか青ざめ、睫毛が震えているように見える。猛の訳の分からない言葉で、美麗どころか、望の腕を支える志貴にも緊張が走ったように感じて、望はぴんと張り詰めた空気にチリチリと肌をなぶられるようで不安になった。

「おい、今井さん、聞いてるのか?早く採寸を済ませてくれ。望が風邪をひいたらお前のせいだからな」

「うるさいな、さっきからごちゃごちゃと……あっ、ひょっとすると佐久間さんも知っていて、黙認していたのか?」

「ごちゃごちゃうるさいのは、お前の方だ。これ以上憶測でものをいうなら、今回の企画への参加は取りやめてもらう。当然雑誌の取材も無しだ」

 猛は望を支えたまま動けない志貴を横目で睨み、望をぐるりと迂回して志貴の横に並んだ。

「俺を脅すわけ?知られちゃまずいからだよね?ふ~ん。やっぱりそうだったんだ」

「望、ちょっとここに座って待っていてくれ。俺は今井さんと話をしてくる」

 志貴は望を傍らのパイプ椅子に座らせると、今井の手を取って別室に引っ張ってこうとするが、猛はその手をふり払った。

「守られてばかりだから、このお姫さまはいつまでたっても眠ったままなんだよ。自信が無いと言いながら、こんなにも周りを振り回していることを自覚させた方がいい」

「私が振り回しているってどういうことですか?」

 望がパイプ椅子の背に掴まりながら立ち上がる。自分が悪いなのら反省するが、知らないことで非難されるのは敵わない。
 はっきり原因を教えて欲しいと猛を強い眼差しと共に問い詰めると、猛が答えるより早く、今まで黙っていた美麗が口を開いた。

「望が振り回したんじゃない。何も知らないで望を責めるのは間違ってるわ。それに、もし真実を言ったとして、誰がどう救われるの?」

「別に隠すことじゃないだろう?俺たちの世界じゃあ、LGBTなんて珍しくないし、異性だけじゃなくて同性にももてるんだと知ったら……わっ!」

 猛が志貴に突き飛ばされて床に転がり、志貴がいい加減にしろと怒鳴りつけるのを、美麗が慌てて止めようとする。
 今までの会話から考えて、望はありえない考えに辿り着きそうになり、首を振ってその考えを追い払うと、誰かが後を引き取って答えてくれるように願いながらそれを口にした。

「LGBTって……」

 だが、今まで勢いの良かった猛も、床に座ったまま望の視線を避けるように横を向くだけで、誰も答えようとしない。望が懸念を抱いて美麗を見つめると、苦渋にゆがんだ美麗の目に涙が浮かんだ。

「望には…知られたくなかった」

「美麗?…同性にもてるって…そんな……」
 
 望の驚いた顔に一瞬怯んだものの、美麗はすぐに諦めたように、望に悲し気な目を向けた。そして、望が絶句した空白に続くだろう言葉、気が付かなかったことへの悔恨や、謝罪を聞かずに済むように、一気にぶちまけた。

「一緒にいられるだけでよかったのに……気持ち悪いよね?ごめんね。
 嫌われついでに言っちゃうと、望と両想いになりそうだった男の人を誘惑して、くっつかなくしたのは私なの。望はもてなかったんじゃない。悪いのは私で、望は悪くないんだから……」

 望みが手痛い過去の呪縛から解かれて自信を持てるなら、いくらでも自分を憎めばいいと思うのに、話すそばから後から後から涙が湧いてきて、美麗はしゃくりあげながら何とか言い終えると、その場を逃げるように走り出した。

 望は聞いたことがあまりにもショックで、これが本当に現実なのかと疑ってしまい呆然自失で立ち尽くし、我に返ったのは、美麗が部屋から出ていくためにドアを開けた時だった。待って!と呼び止めたが、美麗は振り返りもしないで去っていく。追いかけようとしたが、松葉づえが無い脚では無理だった。

 望が単に人の好意に甘えていたのではなく、美麗の嫉妬が望の自信を奪っていたと知った猛は、全く間違った部分を自分が突っついたことを知り、立てた膝に肘をついて頭を抱えこんだ。
 消沈した猛を見下ろしながら、志貴が追い打ちをかけるように、だからやめろと言ったんだと詰る。

「自分のいる世界が常識だと思うな。情熱だの真実だのが評価されるのは芸術などの特殊な世界の中だけだ。俺たちが社会面で求められるのは、相手の意向を汲む協調性だ。お前みたいに自己主張を繰り返せば、波風を起こして、まとまるものもまとまらなくなる」

「でも、望ちゃんは騙されてたんだぞ?それで自信を失ったなら、真実を知って、自分の価値を見直した方がいいんじゃないのか?」

 美麗を追おうと片足で扉まで行きかけた望が、猛の言葉に反応して振り返り、強く首を振った。

「本人が望んでいないのに、関係のない人が気持ちを暴いちゃいけないと思います。今井さんから見たら私は騙された被害者かもしれないけれど、美麗だって苦しんでいたと思います。もしかしたら、時期を見て、いつか自分から打ち明けてくれたかもしれないのに、美麗を追いつめて、言わせたくなかった」

 片足を上げたままの様にならない恰好なのに、望からは心から人を信じる気持ちが内面から滲み出ていて、猛には美しく感じられた。
 皮肉なことに、普段整い過ぎて冷たく感じられる表情は、悲しみで歪んで人間味を増している。

 性癖と望への気持ちを暴かれた美麗も、望に負担にならないようにと考えたのか、過去を晒し、望に嫌われるように仕向けていった。
 ああ、こういう相手を思い合うってやつは、服じゃあ表せないなと猛は感動したが、芸術家としての好奇心が収まりどころを知らず、まだ追求をやめられない。

「望ちゃんってさ、自己否定が強いじゃん。それって美麗ちゃんのやったこともあるけれど、容姿のコンプレックスから来てるんだろ?もし、綺麗だと認められていたら、もっと自分を解放して楽しい思い出があったと思わないか?」

「今井さんは私に自信を持てと言うけれど、もし、きれいだとちやほやされて変に自信を持っていたら、私は人の痛みも知らない傲慢な人間になっていたかもしれません。コンプレックスとか悩みがあるから、人って深みがでるんじゃないかなって、最近あることを知って、そう思ったんです」

 志貴の顔をじっと見つめながら、望は最後の言葉を投げかける。
 その視線を言葉ごと受け止た志貴は、兄のところで知られた過去の話だと察した。
 そして全てを知って、志貴を守ろうとした望を思い出す。
 望はしなやかで強い。美麗のことだって、元通りとまではいかなくても、乗り越えていくに違いない。そんな予感に口元をほころばせ、志貴は望を抱き寄せた。

「帰ろう。望。こんな姿は他の奴に見せたくない」

 望も同じ気持ちだったので、早々に身支度を整えると、無口になってしまった猛への挨拶もそこそこに、志貴の車へと乗り込んだ。


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