主を待つスリッパ

マスカレード 

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主を待つスリッパ

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 玄関にきちんと並べられたスリッパ。それが私。
 いつも誰か出入りするときに、ぶつけられて乱れたりするけれど、
この2週間は誰も私に触らない。
 私を気に入って履いてくれていたあるじはどこに行ったのかな?

 確か2週間前の真夜中に、私を洗面所で脱いでお風呂に入った主が、
すりガラスの向こうで倒れたんだ。
 主が捕まろと手を伸ばした先のシャンプーボトルが落ちて、
洗面器や床にぶつかった音が、お風呂に響きわたった。
 真っ青な顔で出てきた主が、脱いだ服を着ようとしてバランスを崩し、
洗濯機にぶつかってドゴンってすごい音がしたんだ。
 それでも主は、もがきながら服を着て、必死で助けを呼んでいた。
 主が倒れたはずみで廊下に弾き飛ばされた私は、
目が回るのを堪えて階段を見上げたけれど、他の家族はもう休んだ後で、2階は物音一つしなかった。
 もし、私が自分で動けたら、すぐに階段を駆け上がって家族を起こしにいったのに…
 主が叫ぶのを聞いても、私は早く助けてあげてって願うしかなかったんだ。
 突然、バタンとドアが開く音がして、家族がドタバタ階段を下りてきた。
「救急車!電話を早く」って叫び声が上がった。


 やがて、甲高い音と共に車が停まり、何人もの知らない男の人たちが家に入って来て、
脱ぎ散らかされたように転がる私の側を通り、主を取り囲んだんだ。

 もう、あれから2週間も経つ。
 主はどこに行ったのかな?
 今朝も、出かける家族が私を見て、切なそうに眼をしばたかせた。
 今夜家族が話してるのを聞いたけど、検査の結果、追加手術が決まって、
また入院が延びるって言っていた。
 手術って何だろう?
 元気かな?早く帰るといいな。
 しーんと静まり返った暗い玄関で、今夜も私は主を待っている。

 どのくらい日にちがたったのだろう。
 誰も構ってくれないせいで、私はうとうと眠ってた。
 ガチャリと玄関の開く音がして、眩しい光が降り注ぐ。
 逆光で影になって顔の見えない人物が、ただいまって懐かしい声で言ったんだ。

 私は何にも言えなくて‥‥
 お帰り。待っていたよって言いたかったのに、何にも言えなくて‥‥

「ああ、懐かしい。私のスリッパがある。…家に帰って来たんだね」
 主が目を細めて微笑んで、私の上にそっと足を載せた。
 軽くなったね。血管が浮き出るほどに…
 でもまた主の体温を感じられて、私はとっても幸せなんだ。
 そっと包むからね。履き心地良くするからね。
 だから、もう長く家を空けないでね。
 そんな呟きが聞こえたように、主はもう一度私を見て、にっこりと満足そうにほほ笑んだ。

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