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第一章
第八話「煙雨(一)」
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空を覆う鈍色の雲が抱えきれなくなった雨を大地に落としていた。
須磨は江戸を出るために品川宿に向かって街道を歩いていた。笠は被っていたが、左手に広がる江戸湾からの生温い潮風が雨に濡れた着物を肌に張り付かせている。
雨にけぶる街道の先に黒い影が佇んでいた。
影の足元に何か散乱している。それが人の手足、胴体と分かった時、須磨は身を固くした。しかも見たところ切り刻まれた人は一人ではない。三、四人だろうか。さらにそれがすべて女だということまで判別できたのは、仕事人の元締めをしている須磨であればこそであろう。
「深川の元締めか」
昏い目をした男であった。雨で蓬髪が顔に張り付いている。無造作に体に巻きつけた鼠色の着物が濡れて真っ黒になっていた。右手には大きな鉈を持っている。
「蛇崩」
須磨は掠れた声で呟いた。
「ああ、やっぱりか」
男はひと房の髪を顔からはがしながら血で赤く濡れた地面に目をやった。
「あんたが早く来ないから、それっぽい女を無駄に殺しちまったよ」
再び須磨を見た。
「まあ、いいか」
蛇崩亜印に違いない。思っていたより若い。年は二十四、五といったところか。
蛇崩が須磨に向かって歩いてくる。水溜まりを踏みしめるたびに飛沫があがる。
「宵闇帳はどこにある」
「知らないよ」
「箕作省吾を殺ったのは誰だ」
「てめえで探しなよ」
蛇崩は首を横に振った。
「おれの欲しい答えじゃない」
蛇崩は手首を捻って鉈を回転させた。
須磨は身構えた。
「あー、あー。こりゃひでえな」
須磨の背後からのんきな声が聞こえてきた。声の方に振り向いた。
肩が逞しく盛り上がった屈強な老人。右目には抉られたような古傷がある。
「牙逸さん! どうしてここに」
牙逸は右の小指で耳の穴をほじくる。
「銀次に借りがあってな。元締めが江戸を出るまで守ってくれって野郎が言うからよ」
蛇崩は黙って二人の様子を見ていた。
「おめえさんが蛇崩か。若えな。すまんが、わしの相手になってもらうぜ」
牙逸は懐から匕首を取り出した。柄の両端から波を打つ形状の刃が付いている得物だ。
「元締め、行け!」
牙逸の鋭い声に須磨は駆けだした。
「牙逸さん、ごめんよ!」
蛇崩は須磨が通り過ぎて行くのを目で追っていた。
「おい、どこを見ている。殺ろうぜ」
牙逸が素早い動きで蛇崩に襲いかかる。二人は交錯してすれ違ったあと、すぐさま振り向いてお互いに向き合う形になった。
蛇崩が右の前腕に目を向ける。浅い切り傷から流れた血が雨で洗われている。
「わしはおめえさんが生まれる前から仕事人をやってるんだ――」
笑おうとした牙逸の顔が固まった。左肩が深く割れて血が吹き出ていた。
「江戸一番の仕事人て噂は伊達じゃねえか」
蛇崩は右腕を口に持っていって傷口をひと舐めして、初めて唇の端を吊り上げて笑みの形を作り、牙逸に向かって来る。
「銀次よう。今の借りだけでは足りねえよ。こいつは貸しだぜ」
牙逸は顔の前に得物を構えた。
須磨は江戸を出るために品川宿に向かって街道を歩いていた。笠は被っていたが、左手に広がる江戸湾からの生温い潮風が雨に濡れた着物を肌に張り付かせている。
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影の足元に何か散乱している。それが人の手足、胴体と分かった時、須磨は身を固くした。しかも見たところ切り刻まれた人は一人ではない。三、四人だろうか。さらにそれがすべて女だということまで判別できたのは、仕事人の元締めをしている須磨であればこそであろう。
「深川の元締めか」
昏い目をした男であった。雨で蓬髪が顔に張り付いている。無造作に体に巻きつけた鼠色の着物が濡れて真っ黒になっていた。右手には大きな鉈を持っている。
「蛇崩」
須磨は掠れた声で呟いた。
「ああ、やっぱりか」
男はひと房の髪を顔からはがしながら血で赤く濡れた地面に目をやった。
「あんたが早く来ないから、それっぽい女を無駄に殺しちまったよ」
再び須磨を見た。
「まあ、いいか」
蛇崩亜印に違いない。思っていたより若い。年は二十四、五といったところか。
蛇崩が須磨に向かって歩いてくる。水溜まりを踏みしめるたびに飛沫があがる。
「宵闇帳はどこにある」
「知らないよ」
「箕作省吾を殺ったのは誰だ」
「てめえで探しなよ」
蛇崩は首を横に振った。
「おれの欲しい答えじゃない」
蛇崩は手首を捻って鉈を回転させた。
須磨は身構えた。
「あー、あー。こりゃひでえな」
須磨の背後からのんきな声が聞こえてきた。声の方に振り向いた。
肩が逞しく盛り上がった屈強な老人。右目には抉られたような古傷がある。
「牙逸さん! どうしてここに」
牙逸は右の小指で耳の穴をほじくる。
「銀次に借りがあってな。元締めが江戸を出るまで守ってくれって野郎が言うからよ」
蛇崩は黙って二人の様子を見ていた。
「おめえさんが蛇崩か。若えな。すまんが、わしの相手になってもらうぜ」
牙逸は懐から匕首を取り出した。柄の両端から波を打つ形状の刃が付いている得物だ。
「元締め、行け!」
牙逸の鋭い声に須磨は駆けだした。
「牙逸さん、ごめんよ!」
蛇崩は須磨が通り過ぎて行くのを目で追っていた。
「おい、どこを見ている。殺ろうぜ」
牙逸が素早い動きで蛇崩に襲いかかる。二人は交錯してすれ違ったあと、すぐさま振り向いてお互いに向き合う形になった。
蛇崩が右の前腕に目を向ける。浅い切り傷から流れた血が雨で洗われている。
「わしはおめえさんが生まれる前から仕事人をやってるんだ――」
笑おうとした牙逸の顔が固まった。左肩が深く割れて血が吹き出ていた。
「江戸一番の仕事人て噂は伊達じゃねえか」
蛇崩は右腕を口に持っていって傷口をひと舐めして、初めて唇の端を吊り上げて笑みの形を作り、牙逸に向かって来る。
「銀次よう。今の借りだけでは足りねえよ。こいつは貸しだぜ」
牙逸は顔の前に得物を構えた。
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