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第一章
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ありうべからざる御前試合が行われようとしていた。
将軍家兵法指南役である、柳生但馬守宗矩の柳生新陰流と、小野次郎右衛門忠明の一刀流との試合であった。
三代将軍徳川家光の気まぐれで開催の運びとなった。家光としては、二流派による日頃の厳しい稽古への仕返しの意図もあったかもしれない。
江戸城の吹上御苑に作られた試合場。そこで小野忠明の息子、忠常は鉢巻を締め、襷をかけ、股立ちを高くとった姿で立っていた。
将軍家指南役である宗矩と忠明がじきじきに試合をすることはさすがに憚られる。したがって、お互いになり代わる者を出すこととなった。
一刀流は小野忠常。身の丈は優に六尺(約一八〇センチメートル)あり、着物の上からも身体中に盛り上がった力こぶがうかがえる巨漢。将軍家指南役の後継として、天が与えた体躯であった。
--遅い。
忠常はいら立ちを抑えようと努めていた。
すでに試合の刻限は過ぎていたが、試合相手である柳生新陰流の柳生十兵衛三厳がまだ現れていなかった。
柳生十兵衛の噂は耳にしていた。柳生の麒麟児や天才剣士とも呼ばれており、剣の腕前は父である宗矩をしのぐと言う者もいる。
--雑念を捨てよ。
柳生十兵衛がどれほどの使い手かは知らぬ。忠常はこの試合、この瞬間に集中しようと--。
その時、試合場を囲む幔幕がはね上がり、若い男が入ってきた。あれが柳生十兵衛三厳。
寛永三年(一六二六)年、忠常は十八。十兵衛は一つ上の十九であった。
兵法家の本能で忠常はただちに十兵衛の身体を仔細にながめた。鞭のように引き締まった身体は五尺六寸(約一七〇センチメートル)あまり。世の男の中では大きい方だ。陽によく焼けた精悍な顔は野生児というべき精気に溢れている。
しかし、十兵衛の足どりはどこかふらついているようであった。よく見ると表情もゆるんでいるように見える。髪も少し乱れていた。
「十兵衛、待ちくたびれたぞ」
家光が甲高い声をかけた。
「申しわけござりませぬ。すぐに終わりますれば」
十兵衛は頭を下げた。
--すぐに終わる、と言ったのか。
審判に呼ばれて、木剣を持った忠常と十兵衛は試合場の中央で向かい合った。ひとまわり身体の大きい忠常は十兵衛を見下ろすかたちで睨みつけた。
--酒臭い。
まさか、十兵衛はこの御前試合の前に酒を飲んでいたのか。
「はじめ」
審判の掛け声とともに、忠常は間合いを二歩詰めた。
腕の長さの差により、忠常の間合いであるが、十兵衛の間合いにはまだ遠く、絶妙な距離であった。
「おりゃあ」
忠常は気合とともに木剣を上げて、正眼の構えをとった。対する十兵衛は無造作に下段に構えた。柳生新陰流でいう「無形の位」。
--切先が笑っているぞ。
十兵衛が構える木剣の切先は微かに揺れていた。
忠常にはあらゆる展開が想定できていた。十兵衛がどのように動こうとも、この間合いであれば後の先を取ることができる。だが、ここはあえて先手をとる。真向上段から木剣を振り下ろしてやろう。頭を狙うのだけは勘弁して--。
忠常の身体が自然と動いて、首を右に曲げた。
風を斬る音とともに左肩に衝撃が走った。
十兵衛は先ほどと同じように下段の構えで立っていた。いや、十兵衛は打ち込んでから、またもとの姿勢に戻ったのだ。忠常はその動きをとらえることができなかった。本能的にかろうじて頭への直撃だけは避けた。
「勝負あり」
審判の手があがった。
十兵衛は構えを解いて、忠常に一礼した。
--待て。まだ勝負は終わっていない。
左肩から激痛が広がり動くことができない。
「双方とも大義であったぞ」
家光は一言だけ残し、小姓たちを連れて去って行った。
十兵衛も試合場を後にし、忠常だけが残された。
「しばらく刀は握れますまい。大切なご子息どのにまことに申しわけないことをいたした」
宗矩が忠明に詫びた。
「お気になされますな。しかし、十兵衛どのはお噂に違わぬ天稟でござるな」
二人も語り合いながら去って行く。
忠常は忠明と目が合った。
「倅、未熟なり」
父、忠明の目はそう告げていた。
◆◇◆◇◆◇
御前試合から数日後。
忠常は江戸の町を歩いていた。肩を打たれた腕をさらしで吊っていた。
十兵衛は蟄居を命じられて江戸を去ったという。なにが原因かはわからなかった。酒に酔ったまま御前試合に出たことが、謹厳実直な宗矩の勘気に触れたのかもしれない。
だが、十兵衛の剣は凄まじかった。忠常は木剣を十兵衛の頭に叩きこむことを躊躇したが、十兵衛に迷いはなかった。忠常が本能的に避けていなければ死んでいた。
--命のやりとり、か。
忠常にはそこまでの覚悟がなかった。御前試合のことを何度も思い返しているが、十兵衛を倒す策までは考えがいたっていない。
「若先生いらっしゃい」
気がつけば、よく通っている蕎麦切の店に着いていた。めずらしい醬油のつゆが気にいっている。店の娘のお民が愛想のいい笑顔を向けていた。店には一刀流門下の者もよく訪れるので、お民は忠常のことを「若先生」と呼んでいた。
「あら。お怪我をされたのですか」
「稽古でな。たいした怪我ではない」
心配そうなお民に忠常は笑顔でこたえて店に入った。
「よっぽど強いお方なんですね」
「え」
「だって若先生にそんな怪我を負わすほどのお方なんでしょ」
「たしかに強いな。だが次は負けない」
ふたたび十兵衛と立ち合う時はくるのか。忠常はしばらく黙って考えこんでしまった。
「じゃあ、若先生いきましょ」
お民は忠常の手を引いて店を出て行った。
店の裏手の原っぱに地蔵を祭った小さな祠がひっそりとたたずんでいた。お民は時おり忠常をここにつれてきた。
強い風でのび放題の草がうねるように揺れて、草の擦れる音が絶えず流れている。
お民は地蔵の背後に手を伸ばし、小さな聖母像を取り出した。胸の前で十字を切って祈りを捧げた。お民は禁止とされているキリスト教を信仰する切支丹であった。
お民の髪が風に吹かれて揺れていた。忠常はお民の愛らしい横顔を見ているといつもなにか心安らぐものがあった。
「マリアさまに祈りましょう。若先生が次はその強いお方に勝てますように」
ふたたび十兵衛と相まみえたい。忠常は聖母像に片手で拝んだ。
将軍家兵法指南役である、柳生但馬守宗矩の柳生新陰流と、小野次郎右衛門忠明の一刀流との試合であった。
三代将軍徳川家光の気まぐれで開催の運びとなった。家光としては、二流派による日頃の厳しい稽古への仕返しの意図もあったかもしれない。
江戸城の吹上御苑に作られた試合場。そこで小野忠明の息子、忠常は鉢巻を締め、襷をかけ、股立ちを高くとった姿で立っていた。
将軍家指南役である宗矩と忠明がじきじきに試合をすることはさすがに憚られる。したがって、お互いになり代わる者を出すこととなった。
一刀流は小野忠常。身の丈は優に六尺(約一八〇センチメートル)あり、着物の上からも身体中に盛り上がった力こぶがうかがえる巨漢。将軍家指南役の後継として、天が与えた体躯であった。
--遅い。
忠常はいら立ちを抑えようと努めていた。
すでに試合の刻限は過ぎていたが、試合相手である柳生新陰流の柳生十兵衛三厳がまだ現れていなかった。
柳生十兵衛の噂は耳にしていた。柳生の麒麟児や天才剣士とも呼ばれており、剣の腕前は父である宗矩をしのぐと言う者もいる。
--雑念を捨てよ。
柳生十兵衛がどれほどの使い手かは知らぬ。忠常はこの試合、この瞬間に集中しようと--。
その時、試合場を囲む幔幕がはね上がり、若い男が入ってきた。あれが柳生十兵衛三厳。
寛永三年(一六二六)年、忠常は十八。十兵衛は一つ上の十九であった。
兵法家の本能で忠常はただちに十兵衛の身体を仔細にながめた。鞭のように引き締まった身体は五尺六寸(約一七〇センチメートル)あまり。世の男の中では大きい方だ。陽によく焼けた精悍な顔は野生児というべき精気に溢れている。
しかし、十兵衛の足どりはどこかふらついているようであった。よく見ると表情もゆるんでいるように見える。髪も少し乱れていた。
「十兵衛、待ちくたびれたぞ」
家光が甲高い声をかけた。
「申しわけござりませぬ。すぐに終わりますれば」
十兵衛は頭を下げた。
--すぐに終わる、と言ったのか。
審判に呼ばれて、木剣を持った忠常と十兵衛は試合場の中央で向かい合った。ひとまわり身体の大きい忠常は十兵衛を見下ろすかたちで睨みつけた。
--酒臭い。
まさか、十兵衛はこの御前試合の前に酒を飲んでいたのか。
「はじめ」
審判の掛け声とともに、忠常は間合いを二歩詰めた。
腕の長さの差により、忠常の間合いであるが、十兵衛の間合いにはまだ遠く、絶妙な距離であった。
「おりゃあ」
忠常は気合とともに木剣を上げて、正眼の構えをとった。対する十兵衛は無造作に下段に構えた。柳生新陰流でいう「無形の位」。
--切先が笑っているぞ。
十兵衛が構える木剣の切先は微かに揺れていた。
忠常にはあらゆる展開が想定できていた。十兵衛がどのように動こうとも、この間合いであれば後の先を取ることができる。だが、ここはあえて先手をとる。真向上段から木剣を振り下ろしてやろう。頭を狙うのだけは勘弁して--。
忠常の身体が自然と動いて、首を右に曲げた。
風を斬る音とともに左肩に衝撃が走った。
十兵衛は先ほどと同じように下段の構えで立っていた。いや、十兵衛は打ち込んでから、またもとの姿勢に戻ったのだ。忠常はその動きをとらえることができなかった。本能的にかろうじて頭への直撃だけは避けた。
「勝負あり」
審判の手があがった。
十兵衛は構えを解いて、忠常に一礼した。
--待て。まだ勝負は終わっていない。
左肩から激痛が広がり動くことができない。
「双方とも大義であったぞ」
家光は一言だけ残し、小姓たちを連れて去って行った。
十兵衛も試合場を後にし、忠常だけが残された。
「しばらく刀は握れますまい。大切なご子息どのにまことに申しわけないことをいたした」
宗矩が忠明に詫びた。
「お気になされますな。しかし、十兵衛どのはお噂に違わぬ天稟でござるな」
二人も語り合いながら去って行く。
忠常は忠明と目が合った。
「倅、未熟なり」
父、忠明の目はそう告げていた。
◆◇◆◇◆◇
御前試合から数日後。
忠常は江戸の町を歩いていた。肩を打たれた腕をさらしで吊っていた。
十兵衛は蟄居を命じられて江戸を去ったという。なにが原因かはわからなかった。酒に酔ったまま御前試合に出たことが、謹厳実直な宗矩の勘気に触れたのかもしれない。
だが、十兵衛の剣は凄まじかった。忠常は木剣を十兵衛の頭に叩きこむことを躊躇したが、十兵衛に迷いはなかった。忠常が本能的に避けていなければ死んでいた。
--命のやりとり、か。
忠常にはそこまでの覚悟がなかった。御前試合のことを何度も思い返しているが、十兵衛を倒す策までは考えがいたっていない。
「若先生いらっしゃい」
気がつけば、よく通っている蕎麦切の店に着いていた。めずらしい醬油のつゆが気にいっている。店の娘のお民が愛想のいい笑顔を向けていた。店には一刀流門下の者もよく訪れるので、お民は忠常のことを「若先生」と呼んでいた。
「あら。お怪我をされたのですか」
「稽古でな。たいした怪我ではない」
心配そうなお民に忠常は笑顔でこたえて店に入った。
「よっぽど強いお方なんですね」
「え」
「だって若先生にそんな怪我を負わすほどのお方なんでしょ」
「たしかに強いな。だが次は負けない」
ふたたび十兵衛と立ち合う時はくるのか。忠常はしばらく黙って考えこんでしまった。
「じゃあ、若先生いきましょ」
お民は忠常の手を引いて店を出て行った。
店の裏手の原っぱに地蔵を祭った小さな祠がひっそりとたたずんでいた。お民は時おり忠常をここにつれてきた。
強い風でのび放題の草がうねるように揺れて、草の擦れる音が絶えず流れている。
お民は地蔵の背後に手を伸ばし、小さな聖母像を取り出した。胸の前で十字を切って祈りを捧げた。お民は禁止とされているキリスト教を信仰する切支丹であった。
お民の髪が風に吹かれて揺れていた。忠常はお民の愛らしい横顔を見ているといつもなにか心安らぐものがあった。
「マリアさまに祈りましょう。若先生が次はその強いお方に勝てますように」
ふたたび十兵衛と相まみえたい。忠常は聖母像に片手で拝んだ。
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