カロの翼

追い鰹

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それぞれの路

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 しなやかな緊張の幕が夜とともにあけ、見渡す限り雲一つない青天の霹靂のもと、成人の儀の日がやってきました。
 気の早いものたちはさっそくとばかりに儀式が行われる大岩の下に集まっています。そこにはデクとマルムの姿もありました。二人は大岩——というより断層の肌が見える崖——をまるで井戸の底から空を眺めるようにして見上げていました。
「ぼ、僕たち、こ、これを登るんだよね」
「今さら怖気づくなよ。やるったらやるんだ。それに案外なんとかなるかもしれないぞ」
 二人の声は震えていましたが、デクとマルム同様、初めて参加する他の人たちも似たようなものでしたし、監督役としてきている村の大人たちは過去の自分と重ねて懐かしさに耽っては檄や野次を飛ばしてお祭り騒ぎでしたから、そのうちに緊張もほぐれてきて、目に灯っていた火がより一層の熱を宿すようでした。
 儀式への参加者が徐々に集まりだし、ついにカロを除いた十七名が大岩のもとへとやってきました。
「諸君よく集まった。知っての通りここにいる者たちはみな半人前で未熟な、ゆえに可能性に満ちた者たちであり、今日このよき日に一人前となる儀式に挑戦する者たちだ。この先、君たちが一人前となり生きていくうえでは今後様々な試練が待っているだろう。しかし今日がその初めの試練であり、苦難を乗り越える経験の一歩でもある。そんな大事な日において、今日の空はなんとも美しく眩いことか。きっと天上におわす我らの祖や神様が祝福しているに相違ないだろう——」
 村長の演説が始まり、最初の方こそみんな背筋を伸ばして聞いておりましたが、中々終わらない様子でしたので、次第にあくびをしたり足で土をいじったり隣の者にちょっかいをかけ出したりして、最後までは誰も話を聞いていませんでした。しかし、「それでは短いがこの辺りにして、成人の儀はじめ!」村長の号令だけは都合よく耳に入りましたから、参加者たちは我先にと大岩に飛びついていきました。
 デクとマルムは他の人たちが数メートル登ってから、自分たちも登り始めました。
 他の参加者のことはいざ知らず、二人はひとまず二十メートルほど先にある休息地を目指して登ることにしました。休息地は大人が三人分ほど立って集まれる広さの岩のでっぱりで、すぐ横には掴まりやすそうな根っこのように細い木も生えています。
 二人はその休息地までを全速力で登るのではなく、一歩また一歩と確実にかつ慎重に登っていきました。そんな二人を置いて、早々に大岩を登りきる者もいましたが、自分たちのことで精一杯だった二人には関係のないことでした。
「よし、掴まれ」
 デクが手を差し出しました。マルムは息も絶え絶えでお礼を言う余裕すらもはやありませんでしたが、デクの手を掴み、力を振り絞ってなんとか休息地まで辿り着いたのでした。
 大岩を背に足を投げ出した二人はしばらくの間、苦しそうな呼吸をするだけでした。先に落ち着いてきたデクが「もう少しだな」空を見上げて言いました。額から流れた汗は顎を伝ってだくだくと服に落ちていきましたが、土と砂と汗で汚れすぎているため見分けなどつきません。少しの間を置いて、「そう、だね」マルムは答えます。
「でも、僕はここまでかもしれないな」
「ここまできたんだ。だったら」
「見てよ、これ」
 マルムは自身の両手を広げてデクに見せました。両手は土や砂や汗でどろどろに汚れていましたが、それとは似ても似つかないほどに指の先が赤黒くなっていました。連日の練習で出来ていたマメが潰れたらしかったのです。
「指先の感覚がちょっとなくって、力もあまり入らないんだ」
「でも休憩すればなんとか」
「途中で落ちるのが関の山さ」
「お前を置いてはいけない」
「大丈夫。デクなら登りきれるし、僕はなんとかなるよ」
「どうやって。ここからはもう自力じゃ降りれないだろ」
「……カロが来てくれるじゃないか」
「あてにするなよ。そうしないって決めただろ」
 マルムは目を閉じて「ふふっ」と笑いました。
「そうだね。僕たちは頼りっぱなしだった」
「助けてやれもしなかったんだ。だからこそ、俺たちは今度こそ自分たちで生きていかなきゃならない」
「じゃないとカロが安心して飛べないものね」
 二人の目に映る景色には夏の活力を煌々と受けた紺碧の森が枝葉を揺らし、山の向こうには空へと昇る大きくて真っ白い流星のような雲がありました。「カロは今頃なにをしているかな」マルムが言いました。
「どっかで不貞腐れてんだろ」
「案外、あの雲の中から僕らを見ているのかも」
「それなら、あまり格好悪いところは見せらないな」
 とは言いつつも、二人はもうしばらく休憩をすることにしました。

 さてそんな折、カロはと言えばいつもの訓練場所の岩のてっぺんに座り、成人の儀の大岩には背を向けてぼーっとしていました。「どうしたんだいこんなところで」森の中から歩いてきた天使が言いました。
「君は二人と一緒に成人の儀に臨んでいるのではないのかい」
「もういいんです。僕は飛べてしまうし、何よりもう決めましたから」
「何を決めたんだい」
「天上界に行きます。現界から飛んで離れる決心がついたのです」
「とてもそんな顔には見えないけれどね。でもまあ君がそう決めたのならそれがいい」
 天使はふわりと浮き上がってカロの隣に腰かけました。
「あの二人とのもうお別れは済んだのかい」
「いいえ。でもいいんです。デクもマルムも、僕が飛ぶ前から僕を置いていくと決めていたらしいのですから、今さらお別れなんて何も意味はありません」
「なるほどな。つまり君はまたもや他人に自身の選択を委ね責任を転嫁させているのか。私のした話をさては聞いていなかったのかな」
「すみません」
「いやいいさ。大事なことなんだから何度でも教えようじゃないか。いいかいカロ」
 天使はカロの顔を両手で挟むと、ぐいと自分の方に向けました。
「自身の選択を他の何かのせいにしてはいけないよ。例えその何かが君に多大な影響を与えていようとも、例え君がそうせざるおえない状況であったとしても、最終的に選び実行するのは君自身なんだ。他の誰でもない君自身の選択なのさ。もし仮に選択した結果を何かのせいにするというなら、それまでの悩み迷い決心した君の心も感情も、そこで起こった出来事や出会ったモノたち、その全てが君ではない誰かのモノになる。つまるところそれは君でなくていいし、君が君であることに価値はなくなるわけだ。分かるかい」
 カロはすっと目を伏せてぽつりと答えました。
「分かりません」
「そうか」
「だって、僕の行動の結果が全て僕のせいだと言うのなら、とても耐えられないのです。生まれた時から他人勝手に期待を押し付けられて、期待通りにいかなければ役立たずと罵られて、いじめられて、一人ぼっちになって、やっとできた親友だと思っていた人たちも僕を置いていくなんてそんなこと、全て僕のせいなのですか。僕が負わねばならない責任だと、そのような厳しいことをおっしゃるのですか」
「ああその通り、全て君が君である限り背負うべきモノだよ」
「それはもう、僕は生きていける自信がありません」
 天使の両手がするりとカロの頬から離れました。カロは膝を抱えて俯いてしまいました。
「君は少しばかり暗いところを見すぎているきらいがあるね。なぜって、君が親友を得た時の喜びも、君が大空を駆け回れると知った時の喜びも、君が君自身にある役割に思いをはせて眠ったあの夜も全て、君のモノなんだよ。そうでなければその感動はいったい誰のモノなんだい。君以外のいったい誰の」
 カロはぎゅっと拳を握りました。なぜだかとても悔しい気持ちが沸々と湧き立ってきて、全身から飛び出さぬようにと抑えているみたいでした。
「たしかに、それらは僕の感動です。他の誰にも渡すことのできない僕だけのモノ。僕が僕であるための、そう、この翼と同じモノばかり」
「分かったかい。誰かに責任を転嫁するということはつまりそういうことなんだ」
 カロは立ち上がりました。畳んでしぼんでいた翼は大きく広がり、汚れ一つない純白の輝きは命よりも活き活きとしていました。カロはどうやら、自身が飛ぶべき場所が分かったらしかったのです。
「僕、行ってきます」
「行っておいで。私はあの雲の向こう側で待っているから」
 カロは天使の言葉を聞き終えるかどうかというところで空へと舞い上がっていきました。

 デクとマルムは大岩を登ることを再開しました。
 十分な休憩を取ったため、太陽はすでに傾きを強めるところにありましたし、また二人の他には誰も大岩を登っている者たちはいませんでした。それどころか村の大人たちでさえ帰ってしまっており、例えデクとマルムが成人の儀を達成しても証明する人がいないため、もはや儀式は意味のないものへと変わってしまいました。けれども二人は頂上まで登る手を緩めることはしていませんでした。
「マルム、もう少しだ。頑張れ」
 マルムよりも先に進んでいたデクは時折下を見ては、荒い呼吸でなんとか少しずつ登ってくるマルムを激励していました。マルムも返事こそしていませんでしたが、その目は諦めないと言っています。
 とうとう、デクは大岩を登りきりました。
「頑張れ、あと少しだ! もう少しだ!」
 自身の疲れなどどこへやら、デクは気力だけで大岩にしがみついているマルムに目いっぱい手を伸ばして声をかけていました。しかし、マルムはそこより一歩も先には進めそうになかったのです。マルムが登ってきたところには、潰れたマメがさらに裂けて血も乾かないうちにまた裂けてを繰り返すことで手の平の血判が押されているようになっています。
「ぁ」どちらの声だったかは分かりません。刹那に、マルムは意識を失い、掴んでいた岩肌から手が離れて体は頭よりも先に落ちることを確信したみたいに抵抗などしませんでした。デクは認めたくなくて潰れるくらい強く目をつむりました。
 しかし一向に悲鳴も衝突音も聞こえてはきませんでした。もしかしたら休息地で留まったのかもしれない、デクはそれだけを考え恐る恐る下を覗き込みましたが、マルムの姿はどこにもありませんでした。
「マルム!」
 デクは叫びましたが返事はありませんでした。「あ、ああ」声にならない声が低く呻き漏れ、デクはうずくまってしまいました。すると、頭上からバッサバッサと聞きなれた翼のはためく音が聞こえてきました。
 デクはすぐさま上を見ました。
「間に合ってよかったよ」
 そこにはマルムを抱えたカロがいました。腕の中のマルムは得意気に笑みを浮かべています。デクは鼻が垂れてくるのも涙が頬を伝うのも止めることはできませんでした。
 カロは抱えていたマルムを地面に降ろしました。
「デク。マルム。こんなになってでも進もうとするなんて、ほんとうに君たちは自慢の友人だね」
「当たり前だろ」
 鼻をすすりながら怒ったようにデクが言いました。
「ありがとう」
 朗らかな笑みをたたえたマルムが言いました。
「二人なら、この先なんだってできるだろうね。そこに僕がいなくてもきっと、きっと……」
「それはカロ、き、君も同じさ。き、君はぼ僕らがいなくても大丈夫だ」
「ああそれに、俺たちの今までが無くなるわけじゃないんだ」
「そ、そうそう。そして、これからも」
「うん。分かっているよ。だからもう、僕は行くとするよ」
「またな」
「見ててね」
 カロは振り返ることなく翼をグンとはためかせ、雲の向こう側へと飛んでいきました。
 二人の思いを翼にのせて。
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