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第三章 社内恋愛

長い電車の旅

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 僕たちは、遊園地を出て都会の温泉施設に向かっている。
 今は、電車に揺られているところ。僕と宮垣さんは隣り合って座っている。

 さっき観覧車に乗って、無事に降りてきた僕は清々しい気持ちで遊園地を後にした。
 夜は温泉施設に泊まろうよと宮垣さんが言うので焦っていたら、どうやら僕の認識でいうところの健康ランドがおしゃれになったような場所で、雑魚寝だけど安全に泊ることが出来るらしい。

 どんなところなのかあんまり想像がついていないんだけど、宮垣さんは平日に仕事終わりで利用したりするのだと言った。
 まあ、いかがわしさはないのだろう。別にがっかりなんかしていない。

 土曜日午後の電車は空いていた。遊園地が郊外だったのもあるのだろうか。
 僕らの周りには乗客がほとんどいなくて、だからなんとなく普通に会話をしている。

「話したくなかったら無理に話してくれなくていいんだけど、歩くんって家庭環境が複雑だったりする?」

 聞かれて、僕はドキッとした。
 家庭環境ってどこからどこまでが複雑に該当するんだろう。

「どうして、ですか?」
「ん、なんかさ、観覧車が苦手って話をしてたのを聞いてそう思ったっていうか」
「ああ、そうですよね」
「子どもの頃に観覧車に乗ったりしなかったのかなとは思ったっていうか」

 宮垣さんの言うとおりだ。
 僕は、家族に対しても何となく負い目を感じていた。それは、複雑っていうのだろうか。

「実は僕の母、男性不信気味なところがあるんです」
「そう、なんだ」
「母の父……つまり僕の祖父は母と祖母がいながら外に女の人を作った人で」
「そっか。そりゃ不信にもなるね……」
「母が思春期になる頃に祖父は家を出て行ったらしいんです。それで特に」

 宮垣さんは頷いている。あの爺さんの話に。
 やっぱり、あの爺さんは人でなしってことでいいのかな。

「母は、父と出逢って結婚はしましたが、男性不信は治りきらなくて……。生まれた子どもは女の子ではなく、僕だったから」
「子どもが男の子でも、ダメだったってこと??」
「そうですね、僕が女の子だったら、というようなことは言われていました」
「お父さんとお母さんの関係は、大丈夫なの……?」
「どうなんでしょう。外から見たら普通の夫婦には見えるんですけど、ちょっとずつおかしい気はします」

 家庭への違和感は、僕がある程度大きくなってから育った。
 子どもの頃は自分の身の回りがおかしいとは思えないものだ。

「そうなんだ」
「一緒に住んでいても、赤の他人みたいな家族で。僕はやっぱり居場所もなくて」
「……」
「そのせいなのかよく分からないんですけど、僕は人見知りもあって対人関係が苦手で」
「こうやって話すと普通なのにね」

 電車は都会に向かって進んでいく。
 停車駅が重なるごとに、席も徐々に埋まって行く。
 だんだん、僕らの近くにも人が座って来ていた。

「大丈夫だよ、歩くんは」
「何がですか?」
「苦手って言うけど、会社でちゃんとコミュニケーション取れてるじゃない」

 先輩たちと必要以上の会話をしたことはない。
 小川や渡部は会社の先輩とも日常会話をしていたし、かわいがられている感じだった。
 それに比べて、僕はおはようの挨拶も宮垣さんにしか返してもらえない。

「今のアシスタント業務はね、会社でどんな仕事をしているのか知るためにやってもらっているのもあるし、色んな先輩と顔見知りになるっていう面もあるの」
「顔見知り、ですか」
「実際に自分が仕事をやるってなった時に、意外なことが役に立ったりしてね」
「そうなんですね」

 今日は土曜日だというのに、いつもと違う雰囲気の宮垣さんが仕事の話をしている。
 先輩だから後輩の僕を気にかけてくれているのか、人として優しいのか。
 僕たちは、その後もずっと仕事の話をして電車に揺られた。

 「弁当の漬物を抜く話で延々と料亭に交渉したんですよ」と僕が言えば、「それだけこだわりの強い人の口に合う料亭って、やっぱり美味しいのかなあ」と宮垣さんは違った視点で興味を示す。
 僕が生きている世界は、宮垣さんを通すとまた違って見えるのだろうか。

「あの、うちの会社ってボーナス出るんですか?」
「ああ、1年目の夏は大して出ないね。冬のボーナスが12月にちゃんと出るはずだよ」
「冬のボーナスが出たら、で良いんですけど……例の料亭、僕と一緒に行ってくれませんか?」
「いいね、行ってみよう。私、自分の分は払うし」
「なんか、1食で2万円くらいするらしいんですけど……」
「うん、勉強代だよ。大人になったらそういう勉強も要るのかもしれないよ」

 宮垣さんは、興味津々で本当に楽しみにしてくれていそうだった。
 まず僕は、それまで宮垣さんに振られないようにしなきゃ、というのが一番だったりもする。

 先の予定を夢のように語ると、そのための目標が急に生まれる。
 それだけ高い料理って、かしこまった場なのかもしれない。
 必要なマナーや常識をそれまでに知って備えたり、ドレスコードがあったり……?

 背伸びのような体験だけど、隣に宮垣さんがいてくれるなら、それはきっと特別な日の特別な体験になるんだ。
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