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第四章
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しおりを挟むK市を取り囲む低山の緑が勢いを増して、青空を流れる雲の白さも際立つようになる頃には、洋太の後頭部の傷口もすっかり塞がっていた。しばらくは治療した跡の地肌が露出していたので、保護するためにニット帽をかぶっていたが、短い髪の毛が生えそろってきて、それももう必要なさそうだった。
とはいえ、一応は脳の精密検査までした重大事故の後なので、大事を取って念のために、寺の仕事はしばらくの間、隣の市から叔父が通ってきて、洋太の母だけでは手が回らない分を手伝ってくれることになっていた。
叔父は隣の市に住む例の大叔母の次男坊で、実家の大きな寺の跡継ぎである長男とは違って、いまだに独身だった。
洋太の父と同年代だが、フットワークの軽い気さくな人で、地区にある同じ宗派の、”無住寺”といって、決まった住職が管理していない小さな寺などをいくつかまとめて面倒を見ては、何かと重宝がられている人だった。
若い頃は競輪選手を目指していたことがあるそうで、僧侶になった今でもレース用自転車と洋楽とエレキギターが趣味というこの叔父は、父とも親しかったので洋太はけっこう好きだった。正直言って、厳しい大叔母などよりは余程話しやすかった。
「それじゃあ、洋ちゃん。美味いもん食って、しっかり養生しなよ。寺のことは心配しないで、な」
今日の手伝いが終わって帰ろうとしている叔父が、小さく畳んだ法衣の入ったバックパックを背負ってロードバイクにまたがり、カラフルな自転車用ヘルメットを装着しながら、洋太を振り返ってそう言った。
「ありがとう、叔父さん。なんかごめんね、オレのせいで……」
「若い者がそんなこと気にするもんじゃないぞ。それに、オレも最近、体がなまってたから、ちょうどいいバイクの運動になるよ」
僧侶らしからぬ健康的な色に日焼けした丸坊主の叔父が、若々しい表情で笑いながら軽く愛車を叩いた。
ふと、洋太を見ながら眼を細めて、叔父が懐かしそうに呟く。
「洋ちゃん、大きくなって段々目のあたりが親父さんに似てきたなあ。……進さんがいた頃は、いつか一緒にトライアスロンのでっかいレースに出よう、なんて言ってたもんだ。今でも時々思い出すよ。寂しいねえ……元気でやってるのかな?」
親族の中では、婿入りしながら離婚して出て行った洋太の父の話はタブーみたいな扱いになっていたが、この叔父とだけは、ごく普通に父の思い出話が出来た。子供の頃から、洋太にはそれが嬉しかった。
洋太は少しだけ寂しげな顔になって俯きながら、それでも叔父を心配させないよう微笑しつつ答えた。
「うん……父さんから連絡来たことはないけど、たぶん元気だと思う」
今回の一件の後、洋太は、もしかして父が事故の話を聞いて、家に連絡してくるのではないか、と期待していた。しかし、自分の知る範囲ではそういうことはなかったようで、父は何も知らないままなのかもしれない……と思いつつ、心のどこかで落胆していた。
「そうか……まあ、オレ達が知らないだけで、るり子さんには連絡してるのかもしれないよ。あんまり気にするな!」
叔父はそう言って洋太の肩を叩くと、颯爽とロードバイクを走らせて自宅のある隣の市へ帰って行った。それを見送った後、洋太は本堂の縁側に腰かけて、遠くの木々に目をやりながら、小さく溜息をついた。
離婚した後、父と母が連絡を取り合っているかどうかは知らない。少なくとも洋太の見える範囲では、そういう様子はなかったように記憶している。
今でも父のことが好きな自分と違い、姉の歩美などは家族を捨てて出て行った父親の存在に複雑な思いを抱いているようで、昔から家でもあまり父のことは話したがらなかった。それで母も気を使っているのかも知れない、とは思う。
離婚した家庭でも、別居している親と子の対面の機会が与えられるのが、最近ではわりと普通らしい。もちろん各家庭の事情があるので一概には言えないだろうが。
しかし、古い土地柄への配慮と、寺の跡継ぎを期待されて婿入りしたのに、それを裏切って出て行く形になってしまった負い目から、養育費等の話し合いの席で、父が自らその権利を辞退したのだそうだ。祖父と大叔母が以前、話していた。
あの厳しい大叔母のことだから、そうするように仕向けたのかもしれないが、そんな訳で、洋太達は両親が離婚して以来、一度も父と会ったことがなかった。
(お父さんは、もうオレ達のこと忘れちゃったのかな……? オレ達の他に、新しい家族が出来た、とか……? そういうもんなのかな。家族って、何なんだろう……)
洋太が寂しそうに眉を下げて、足元の小石を見つめた。洋太が脱いだ草履に、小さなアリがよじ登ろうともぞもぞしている。
――あの事故の日。じつは一時的に自分が短い間だが”心肺停止”状態に陥っていた、と後で聞かされ、洋太自身には欠片ほどもそんな実感がなかったので、何とも言えず不思議な気持ちがした。
それは、仮に呼吸と脈が戻らなければ、そのまま自分が「死んでいた」ということなのだ。なのに、自分の中では、海で後頭部に衝撃があって、意識が途切れて、次に目を覚ましたら病院のベッドの上だった……それだけだった。間には何もなかった。
本当に”何も”なかったのだ。そのことが、洋太にはちょっとしたショックだった。生死の境をさまようなどという大きなイベントなのに、あっけないほどの平坦さで、例えば、世間でよく言う「金色の川の向こうに先祖の誰かが迎えにきて云々」などといった派手な演出も特になかった。
自分が寺の子供だからというわけではないが、弥勒菩薩とかが迎えに来るまで行かなくても、もうちょっと何かあるのでは……と洋太は想像していたのだ。
(そりゃあまあ、確かに仏教では「亡くなる時、あの世には何も持って行けない」とは、説いてるんだけども……)
仏教の教えでは、生前どれほど財産を集め高い地位に昇り詰めても、それらは死後、あの世まで持って行くことは出来ない。貧富や貴賤に関わらず、人は皆、この身一つきりで死んで行くのだという。
(わかるけど……それだけじゃ、ちょっと寂しすぎやしないかな……?)
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