潮騒サンセットロード

内野蓉(旧よふ)

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第六章

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 もともと年末年始といったホリデーシーズンの類は、順平のような家庭を持たない人間にとって、単なる長期休暇という以上に「身の処し方に困る」時期でもあった。
 自衛隊員は見た目のハードそうな印象とは違って、公務員なだけに意外としっかり休みが取れる職業である。ただし……そのタイミングが普通の会社員や、学校に通う子供などとは微妙に合わないことが多い、というだけで。
 もちろん、いついかなる時も駐屯地や基地を完全に空っぽに出来ないので、大きな演習や部隊内での各自の教育期間などとの調整を経てから、決められたスケジュールに従い、当直制で勤務を回していくわけだが。
 この年、独身の順平は他の家庭を持っている隊員に代わって、大晦日から正月三が日の勤務を優先的に引き受けていた。どうせ大晦日から正月の間は、洋太も実家の寺の仕事で忙しいと言っていたし、断る理由はなかった。
 むしろ勤務が入っている日はまだいい。問題は、比較的長い休みが、しかも特に目的や、行くところが無い時だ。
 年末年始でホテルなども満室だし、空いていたとしても高い金を払って連泊する気にはなれない。地元が遠く、あまり帰省しない若い隊員は他にもいたが、そういう者は都会に出て安いインターネットカフェなどに泊まっているようだった。それでも、さすがに年末年始の休暇くらいは帰省する人間が大半だった。
 順平個人には、あの半島の小さな港町で大分以前に祖父と二人きりで暮らしていた古い家を引き払って以来、実家というものが存在しない。結婚もしてはおらず、隊舎住まいで、駐屯地の外に帰れる場所は何処にもなかった。――これまでは。
 休暇中でも申請して食費を払えば隊舎の自分の部屋にいることは出来るので、洋太と出会う前の順平は、大体そうしていた。もともと都会のような人が多い場所は苦手だし、練習をしていれば一人でいることも苦にならなかった。
 今年は、自分にも洋太と借りているワンルームマンションという、”行くところ”がある。すぐ洋太に会えなくても、寺の仕事がひと息ついて、合流できるまでは一人で自主トレーニングでもしながら待っていてもいい。
 そう考えると、珍しく休暇の前にちょっと浮かれた気分になる順平だった。陸上部コーチの鷹栖からメッセージアプリで連絡を受けたのは、そんな頃だった。
 少し遅めの正月休みの初日の夕方、順平はいつもの外出時の飾り気のない私服姿に黒いバックパックを担いで、駐屯地から歩いて数分という近所にある、コンクリート造ではあるがそこそこ築古の単身者向けのアパートの前にいた。
 片手には、来る途中のスーパーで買ってきた個包装のパック入りの切り餅の徳用袋と、缶入りのおしるこが何個か入っている。休暇前に鷹栖からのメッセージアプリで指示されていたものだった。鷹栖が言うには――。
「今年の正月は、オレは野暮用で地元に帰らなきゃならなくなって、休みが合わなくなっちまった。だから、お前がオレの代わりに、休みの間にオヤジ監督のアパートへ様子を見に行ってやってくれ。オヤジの好物を買ってくの忘れるなよ」
(鷹栖さんの地元は確か北海道だったか……野暮用が何だか知らないが、また女関係だろうか……?)
 順平がそんなことを考えている間に、玄関チャイムの音を聞いて中から人懐っこい笑みを浮かべた監督が出てきた。
「おう、よく来たな順平。何もないが、まあ上がってくれ」
「はい。お邪魔します……これ、鷹栖さんから頼まれました。監督にと」
 一般の家庭の父親が寝巻替わりに着るようなグレーのスウェットの上下に、防寒のためか紺色の半纏はんてんを着込んだ監督は、袋の中身を見ると口ひげを蓄えた顔をくしゃっと崩して笑った。
「ははっ。春壱はるいちのやつ、こんなことまで順平に押し付けてったのか! 迷惑な先輩だ……すまんな順平、せっかくの休暇に」
「いえ、自分もどうせ隊舎にいて暇でしたから……」
 部屋の中へ案内されながら、順平があまり他人には見せない柔らかな微笑を浮かべて答えた。監督がお茶を入れている間、畳の上に置かれた炬燵こたつに入って、家具のほとんどない殺風景な室内をゆっくりと見回す。
 壁には、いつでもすぐに着て出られるように、勤務用の迷彩服がハンガーに掛けられていた。
(……懐かしいな。監督の部屋に入るのは、工科学校の時以来だ……)
 じつは過去に順平にも、正月休みに”行く場所”があった時期がある。まだ工科学校の生徒だった頃、長期休みに入ると、監督の家に泊めてもらっていたのだ。その時の部屋は移動前だったのでこことは別の場所にあったが、中身はほとんど変わらない。
 だから順平にとっては、この監督の隊舎なみに殺風景な部屋が、ある意味「第二の実家」のようなものと言ってもよかった。鷹栖と知り合ったのもその頃だ。
 そこで、同じくまとまった休みがあると監督の部屋に入り浸っていた鷹栖や、監督の教え子の部員らの練習に混ざったり、夜になると監督を囲んで箱根駅伝の現役選手だった頃の話を聞いたり、皆が陸上談義を交わすのを眺めたりしていた。
 当時の教え子の陸上部員たちと接する監督の表情は、順平の眼には本当の親と子もこんな感じなのかな……と思わされるような親しく、温かいものだった。
 現在は、教え子の多くはすでに家庭を持っているだろうし、転勤の多い自衛隊では遠くの県に移住して行った者もいるだろう。何より、監督自身の階級が上がって管理職として多忙なので、昔のように部員と親密に接する機会は少なくなっていた。
 単身者向けの、多少スペースのあるキッチンと一体になったダイニングに、寝室用のもう一部屋に加えて、あとは水回りなどがあるだけのそのアパートの部屋は、少なくとも部隊内で佐官の地位にある人間が暮らすには、質素すぎるように思われた。
 築古で断熱材が少ないせいか一月の室内はかなり冷えるが、暖房器具としては炬燵と、小さな石油ストーブが一つあるだけだった。他には、小さめの冷蔵庫などの生活に必要な最低限の家具しかない。
 窓にはカーテンこそあったが、夜勤明けでも眠れるように遮光用に作られた模様などもない厚手のシートのようなもので、洒落っ気も何もなかった。
 順平は洋太と知り合って、その家庭を中から見る機会を持つようになったからこそ気づいたことがあった。……監督の部屋には「生活の潤い」のようなものが、完全に欠如していた。いや、意識的に排除されていた、と言った方が近いのかも知れない。
 少しでも気持ちよく暮らせるように、とか、家にいて楽しい気分になれるように、という娯楽や休息目的で置かれているものは、ここには何一つ無かった。
 現に炬燵のテーブルの上にも陸上部の練習メニュー表や、新メンバー候補のリストなどが私物のノートパソコンと共に置かれていて、休みの間も監督が「仕事」をしていたことを物語っていた。
(監督にとって、この部屋は単に寝たり食事したりする場所で、くつろぐ場所じゃないんだな……洋太に会う前のオレと同じだ……)
 以前には気づかなかったそのことに思い至った時、順平はほんの少し、寂しいような思いがした。この寒々しい部屋に正月に一人でいる監督の姿を思い浮かべて、鷹栖がどうして自分をここに来させたのか、初めてわかった気がした。
 監督が湯のみに入れたお茶を持って炬燵の前に戻ってきた。ふと、順平が部屋の隅に置かれた小さな宅配用の段ボール箱に目を留めたのに気づき、少し笑って答える。
「オレの昔の上官の……自衛隊での恩人と言ってもいい人なんだが、よく言っていたことがあるんだ。『自衛隊員を続けるつもりなら下着はいつでも、なるべく新しくて綺麗なものを身に着けておけ』――ってな。意味は分かるだろう?」
「……はい」
 順平が神妙な顔をして頷いた。以前、鷹栖も言っていた「オレ達は有事の任務で、いつ死ぬかわからない身の上だ」という言葉が思い出された。
「”その時”になって、搬送されるのに下着が古かったりすると相手に申し訳ないし、第一、格好つかないからな。それ以来、新品のストックを絶対切らさないようにしているんだ。だから、のは助かるんだが……」
 そこでふと言葉を切って、監督は懐かしそうな眼で遠くを見るような表情をした。順平には「送って……」というくだりが何のことを言っているのかわからなかったが、相手のプライべートなことかと思い、黙っていた。
 その後、お互いに寡黙な二人なのであまり会話が弾むという感じではなかったが、そこは長年の付き合いで、それぞれにやりたいことをやって時間は過ぎて行き、夕食には、監督がコンロで温めるタイプの鍋焼きうどんを順平のために作ってくれた。
 若く食欲旺盛な教え子のために、監督が自分のほうにだけ卵と餅を二つずつ入れてくれたのを見て、順平は恐縮しながらも有り難くご馳走になった。監督は食後に順平が持って来た缶のおしるこをストーブで温めて、嬉しそうに飲んでいた。
 夜寝る時には、監督が温かいほうの布団を順平に使わせて、自分は古くて薄いほうの布団に入ったので、さすがに順平が取り換えてもらおうと懸命に頼んだが、監督はこういうことには頑固で、結局聞き入れてもらえなかった。
 順平は、布団の中で暗い部屋の天井を見つめながら、どうしても胸の中に引っ掛かっている疑問に気がついた。……それは、こんなにも優しい、教え子思いの監督は、きっと家庭の中でも良い夫良い父親だったに違いないという推測と――ならば何故、監督はその家族と離れることになってしまったのだろうか? ということだった。
 監督本人からではなく、鷹栖からの伝聞だが。監督は大学卒業の直前に、出身地のとある地方であった大きな自然災害で家族全員を失い、所属していた実業団チームがリストラで廃部になるなど色々苦労した後で、自衛隊体育学校に入校した人だった。
 その頃、結婚して家庭を持っていたらしいのだが、何らかの理由で、離婚したのだという。それ以来、監督はずっと独り身を通している。
(監督のような、義理堅くて一本気な人が、果たしてどんな事情があったら、一度は結婚までした相手と、別れるような決断をするのだろうか? オレには、洋太と離れることなど、とても考えられない……そんなのは到底、耐えられない……)
 ずっと想い続けた恋しい洋太とようやく交際を始めて、今は幸せの最中さなかにいる順平にとっても、答えの無いその疑問はどことなく不安を掻き立てるもので――。部屋の寒さのせいだけではなく、その夜はなかなか眠りにつくことが出来なかった。
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