87 / 87
第七章
04
しおりを挟む一年で一番寒気が厳しい時期になった。一面に陰気な灰色で塗り潰された空の下、順平は駐屯地の管理棟の中にある幹部(外国の軍隊でいうところの士官)が事務をするための詰め所に立っていた。
直属の上官である篠田卓也二尉は、今日も胃が痛いのか土気色の顔をして、特に意味もなくげっそりとした様子で順平にぼそぼぞと声を掛けた。
「……じゃあ、これは本当にそのまま申請しておいていいんだな? 一応、確認のために呼んだんだが」
「はい。それでお願いします」
篠田が机の上にある書類一式を示すと、順平が頷いて答えた。いつもと同じ抑揚の少ない声に、感情の動きをあまり見せない表情。背中の後ろで組んだ手だけが、答える瞬間に少しきつく握られたように見えた。
「わかった。じゃあ戻っていいぞ」
「はっ」
その場で敬礼して回れ右すると、順平は部屋の戸口に向かって歩き出した。
ちょうどその時、外から「入ります」と声を出しながら一人の女性隊員が入室して来た。順平と入れ違いの形で、そのままずんずんと篠田の机に向かって進む。
前髪が短く切り揃えられたショートカット、くっきりした太めの眉と大きな眼が印象的な二十歳前後の活発な少女のようなその隊員は、順平と同じ小隊に所属する数少ないの女性の一人である、香椎雛乃という新人だった。階級は二士。
香椎の顔を見た篠田が、うげっという風にしかめっ面を作って胃の辺りを手で押さえた。新人ながら気が強く、上官にも臆せず意見する香椎のことが苦手らしかった。
「小隊長! 何で向こうに話してくれないんですか?! 私もう我慢出来ないんですけど!」
「いやだから……よその小隊の人間のことを、オレに言われてもな……あと声が大きいぞ」
「部下がセクハラに合ってるんですよ?! ちゃんと守って下さい!」
「んなお前……事を荒立てるなよ……証拠でもあんのか? なんかその、録音とか録画とか……」
「私が触られたと思ったから、それが証拠です!」
「そんなんじゃ無理だろ……」
ドアを開けて外に出ようとする順平の耳にまで、香椎の興奮した声と、うんざりしたような篠田の声が響いて来た。室内には当然、他の幹部たちもいるが、関わりたくないのか誰も介入しようとする者はいなかった。
香椎は少し前から別の小隊の士長に、すれ違うたび馴れ馴れしく卑猥な冗談を言われたり、肩や腰を触ったりと微妙なラインのセクハラを受けていた。
その隊員は、以前に順平にも陸上部の練習のことで嫌味を言ったあの年上の同僚だったが、声も態度も大きく、下の階級の人間を子分のように従えているので、気の弱い若手幹部などは舐められている有様だった。
「……とにかく今の段階じゃ、お前の気のせいだって言われるのがオチだ。もう少し我慢して、向こうが飽きるのを待て。な?」
「もう……わかりました。次やられたら辞表持ってきますから!」
「そ、そんなお前……早まるなって香椎! うっ……いてて胃が……」
勢いよくドアを閉めて部屋を退出した香椎が、興奮した表情で肩を怒らせて歩きながら、順平を追い越して行った。その小柄な背中を見送りつつ、順平は胸の中でひっそりと呟いた。
(……ここを出て、行くところがある人間なら、さっさと辞めればいい。別にオレの知ったことじゃない……)
順平にとっては、同僚といっても特に親しく口をきいたこともない相手だし、共感も同情もしようがなかった。そもそも、この世に順平が本当の意味で気に掛けている人間など、洋太以外には監督くらいしかいない。
陸上部で付き合いの長い鷹栖ですら、洋太の幸せを守るために必要と思えば、躊躇なく命を奪ってしまおうと思える向こう見ずな冷徹さが順平の中にはあった。本人はそれを悪いことだとは一かけらも考えていない。
そんなことよりも、順平の頭の中は、少し前に監督に連れて行かれた柔道場で手合わせをして、完膚なきまでに負かされた初老の元陸自幹部から言われた言葉でいっぱいだった。
『体は鍛えているようだが、”中身”はまだまだ弱い。君は、もっと強くならなければならない』
(オレの中身のどのあたりが、弱いと言われたんだろう? 中身って、精神面とかのことか……? それがわからないと、鍛えようもないじゃないか……)
洋太を二度と傷つけないために、もっと人間的に強くなりたい。しかし、その方法がよくわからなかった。そもそも、精神が強いというのはどんな状態を指すのだろう? 怖いものなどほとんどない自分が、この上、どうやって強さを手に入れればいいのか?
ずっと考え続けているが、答えの糸口すら見つけられず、順平が小さく溜息をついた時。香椎が去って行った廊下の奥から休憩中らしき鷹栖がこちらに向かって歩いて来た。順平に気づくと呆れたようにちょっと笑いながら言った。
「さっき歩いてった彼女、お前の同僚だよな。今日は何怒ってたんだ? また篠田の胃が悲鳴上げてそうだな……」
「さあ。自分もさっきすれ違っただけですので……」
説明する気にもなれないので、順平は適当にごまかしておいた。その答えには興味なさそうに、鷹栖は持っていた携帯用の小型ラジオを手の中で弄びながら、薄暗い曇り空を見上げて独り言のように呟いた。
「……こういう雲の境目がわからないような天気は、やばいんだよなあ。南岸低気圧と北からの強い寒気が同時に列島上空に入って、このまま二つ玉から爆弾低気圧が急発達すると……夕方にはキツめのが降り出しそうだぜ……」
順平も港町育ちなので、気象には敏感なほうだと思っているが、北国生まれで長年ウインタースポーツをやっていたらしい鷹栖には到底敵わない分野があった。
「キツイのが降る、というと……大雨の予報ですか?」
順平の問いかけに、鷹栖が耳にラジオを当てて宙の一点を見つめながら短く答える。
「いや、この感じだと……雪だ。それも、このままのペースで気温が下がって行くとしたら……恐らく大雪になる。この辺りは温暖で、みんな雪に慣れてないからな……覚悟しとけ、神崎」
「? 何をですか?」
意外なほど厳しい表情で、鷹栖が順平を見やった。その顔にさっきまでの笑いはなかった。
「ひょっとすると、災害派遣要請があるかも知れねえってこと。……準備だけはしておけよ」
「はあ……」
この時の順平には、まだ鷹栖が言っているのが、どの程度の事態なのか? が正直よくわかっていなかった。
そして十数時間後に順平は、その本当の意味を身をもって知ることになる。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
ヤンキーDKの献身
ナムラケイ
BL
スパダリ高校生×こじらせ公務員のBLです。
ケンカ上等、金髪ヤンキー高校生の三沢空乃は、築51年のオンボロアパートで一人暮らしを始めることに。隣人の近間行人は、お堅い公務員かと思いきや、夜な夜な違う男と寝ているビッチ系ネコで…。
性描写があるものには、タイトルに★をつけています。
行人の兄が主人公の「戦闘機乗りの劣情」(完結済み)も掲載しています。
今度こそ、どんな診療が俺を 待っているのか
相馬昴
BL
強靭な肉体を持つ男・相馬昴は、診療台の上で運命に翻弄されていく。
相手は、年下の執着攻め——そして、彼一人では終わらない。
ガチムチ受け×年下×複数攻めという禁断の関係が、徐々に相馬の本能を暴いていく。
雄の香りと快楽に塗れながら、男たちの欲望の的となる彼の身体。
その結末は、甘美な支配か、それとも——
背徳的な医師×患者、欲と心理が交錯する濃密BL長編!
https://ci-en.dlsite.com/creator/30033/article/1422322
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる