潮騒サンセットロード

内野蓉(旧よふ)

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第七章

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 一年で一番寒気が厳しい時期になった。一面に陰気な灰色で塗り潰された空の下、順平は駐屯地の管理棟の中にある幹部(外国の軍隊でいうところの士官)が事務をするための詰め所に立っていた。
 直属の上官である篠田しのだ卓也たくや二尉は、今日も胃が痛いのか土気色の顔をして、特に意味もなくげっそりとした様子で順平にぼそぼぞと声を掛けた。
「……じゃあ、は本当にそのまま申請しておいていいんだな? 一応、確認のために呼んだんだが」
「はい。それでお願いします」
 篠田が机の上にある書類一式を示すと、順平が頷いて答えた。いつもと同じ抑揚の少ない声に、感情の動きをあまり見せない表情。背中の後ろで組んだ手だけが、答える瞬間に少しきつく握られたように見えた。
「わかった。じゃあ戻っていいぞ」
「はっ」
 その場で敬礼して回れ右すると、順平は部屋の戸口に向かって歩き出した。
 ちょうどその時、外から「入ります」と声を出しながら一人の女性隊員が入室して来た。順平と入れ違いの形で、そのままずんずんと篠田の机に向かって進む。
 前髪が短く切り揃えられたショートカット、くっきりした太めの眉と大きな眼が印象的な二十歳前後の活発な少女のようなその隊員は、順平と同じ小隊に所属する数少ないの女性の一人である、香椎かしい雛乃ひなのという新人だった。階級は二士。
 香椎の顔を見た篠田が、うげっという風にしかめっ面を作って胃の辺りを手で押さえた。新人ながら気が強く、上官にも臆せず意見する香椎のことが苦手らしかった。
「小隊長! 何で向こうに話してくれないんですか?! 私もう我慢出来ないんですけど!」
「いやだから……よその小隊の人間のことを、オレに言われてもな……あと声が大きいぞ」
「部下がセクハラに合ってるんですよ?! ちゃんと守って下さい!」
「んなお前……事を荒立てるなよ……証拠でもあんのか? なんかその、録音とか録画とか……」
「私が触られたと思ったから、それが証拠です!」
「そんなんじゃ無理だろ……」
 ドアを開けて外に出ようとする順平の耳にまで、香椎の興奮した声と、うんざりしたような篠田の声が響いて来た。室内には当然、他の幹部たちもいるが、関わりたくないのか誰も介入しようとする者はいなかった。
 香椎は少し前から別の小隊の士長に、すれ違うたび馴れ馴れしく卑猥な冗談を言われたり、肩や腰を触ったりと微妙なラインのセクハラを受けていた。
 その隊員は、以前に順平にも陸上部の練習のことで嫌味を言ったあの年上の同僚だったが、声も態度も大きく、下の階級の人間を子分のように従えているので、気の弱い若手幹部などは舐められている有様だった。
「……とにかく今の段階じゃ、お前の気のせいだって言われるのがオチだ。もう少し我慢して、向こうが飽きるのを待て。な?」
「もう……わかりました。次やられたら辞表持ってきますから!」
「そ、そんなお前……早まるなって香椎! うっ……いてて胃が……」
 勢いよくドアを閉めて部屋を退出した香椎が、興奮した表情で肩を怒らせて歩きながら、順平を追い越して行った。その小柄な背中を見送りつつ、順平は胸の中でひっそりと呟いた。
(……ここを出て、行くところがある人間なら、さっさと辞めればいい。別にオレの知ったことじゃない……)
 順平にとっては、同僚といっても特に親しく口をきいたこともない相手だし、共感も同情もしようがなかった。そもそも、この世に順平が本当の意味で気に掛けている人間など、洋太以外には監督くらいしかいない。
 陸上部で付き合いの長い鷹栖ですら、洋太の幸せを守るために必要と思えば、躊躇なく命を奪ってしまおうと思える向こう見ずな冷徹さが順平の中にはあった。本人はそれを悪いことだとは一かけらも考えていない。
 そんなことよりも、順平の頭の中は、少し前に監督に連れて行かれた柔道場で手合わせをして、完膚なきまでに負かされた初老の元陸自幹部から言われた言葉でいっぱいだった。
『体は鍛えているようだが、”中身”はまだまだ弱い。君は、もっと強くならなければならない』
(オレの中身のどのあたりが、弱いと言われたんだろう? 中身って、精神面とかのことか……? それがわからないと、鍛えようもないじゃないか……)
 洋太を二度と傷つけないために、もっと人間的に強くなりたい。しかし、その方法がよくわからなかった。そもそも、精神が強いというのはどんな状態を指すのだろう? 怖いものなどほとんどない自分が、この上、どうやって強さを手に入れればいいのか?
 ずっと考え続けているが、答えの糸口すら見つけられず、順平が小さく溜息をついた時。香椎が去って行った廊下の奥から休憩中らしき鷹栖がこちらに向かって歩いて来た。順平に気づくと呆れたようにちょっと笑いながら言った。
「さっき歩いてった彼女、お前の同僚だよな。今日は何怒ってたんだ? また篠田の胃が悲鳴上げてそうだな……」
「さあ。自分もさっきすれ違っただけですので……」
 説明する気にもなれないので、順平は適当にごまかしておいた。その答えには興味なさそうに、鷹栖は持っていた携帯用の小型ラジオを手の中でもてあそびながら、薄暗い曇り空を見上げて独り言のように呟いた。
「……こういう雲の境目がわからないような天気は、やばいんだよなあ。南岸低気圧と北からの強い寒気が同時に列島上空に入って、このまま二つ玉から爆弾低気圧が急発達すると……夕方にはキツめのが降り出しそうだぜ……」
 順平も港町育ちなので、気象には敏感なほうだと思っているが、北国生まれで長年ウインタースポーツをやっていたらしい鷹栖には到底敵わない分野があった。
「キツイのが降る、というと……大雨の予報ですか?」
 順平の問いかけに、鷹栖が耳にラジオを当てて宙の一点を見つめながら短く答える。
「いや、この感じだと……雪だ。それも、このままのペースで気温が下がって行くとしたら……恐らく大雪になる。この辺りは温暖で、みんな雪に慣れてないからな……覚悟しとけ、神崎」
「? 何をですか?」
 意外なほど厳しい表情で、鷹栖が順平を見やった。その顔にさっきまでの笑いはなかった。
「ひょっとすると、災害派遣要請があるかも知れねえってこと。……準備だけはしておけよ」
「はあ……」
 この時の順平には、まだ鷹栖が言っているのが、どの程度の事態なのか? が正直よくわかっていなかった。
 そして十数時間後に順平は、その本当の意味を身をもって知ることになる。
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