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白銀のエチュード
03 猟師シグルド
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♪ミュミュ ムジカ しろいこゆき
♪ぴょこんとおみみで きいてるよ
♪まあるいおめめで おいでよと
♪ちいさなおくちで うたってる
頭の中で繰り返し反響するのは、王都に伝わる童謡。幼いころに何度も聞いたムジカの歌だ。
ムジカと冬を越す少女を描いた絵本は私の一番のお気に入りだった。
その絵本のページと同じように、足元にはムジカの家族が睦まじく纏わりついている。
鼻をひくつかせ、差し出した指先に子ムジカがちょこんと口づける。
「わあ、可愛い……!」
そっと抱き上げようとした、その瞬間。柔らかい光景は音もなく凍りつき、雪原のあちこちに数え切れないほどの黒い瞳が浮かび上がった。
カチカチ、カチカチ。
童謡とはかけ離れた、骨の芯まで冷えるような不気味な音が響き渡る。
ギザギザの歯を楽しそうに鳴らしながら、子ムジカが「あーん」と、私の指を噛みちぎろうとしたところで――
私は、勢いよく飛び起きた。
まぶたの裏の雪景色がふっと消え、代わりに揺らめくオレンジ色の灯りが視界を満たす。
年季の入った木の梁、乾いた獣の匂い、鼻先をかすめる薪の煙。ずっしりとした重たい毛布の感触。
……ここは、どこかの家だろうか。
横を向くと、壁一面に無骨なボウガンが何丁も掛けられ、その下には乾燥させている最中の動物の毛皮が並んでいる。炎に照らされたそれらからは生活感が感じられ、私はようやく自分が生きているのだと実感した。
「ああ……起きたか」
不意に、暖炉のそばから低く掠れた声が降ってくる。振り向くと、毛皮を羽織った大男が椅子に腰掛けていた。
……雪原で意識を失う直前、私に声をかけてくれたあの男の人だ。
濡れたブーツを乾かしながら、鋭くもどこか落ち着いた視線で私のことを見つめている。
無造作に括られた長い白髪。雪焼けした肌には、無精ひげの白さがよく目立つ。
年齢は見た目ではとても判別できない。鍛え上げられた体つきと油断のない佇まいが曖昧にさせている。
そして彼の足元には、先ほどムジカの群れを蹴散らした白狼が寝そべっていた。
よく手入れされた毛並みは暖炉の火を反射して、ほのかに橙色を帯びている。視線が自然とその大きな耳と静かに閉じられた瞳に吸い寄せられてしまう。
大男は白狼の頭を大きな手でゆっくりと撫でた。厚い手のひらに頬を寄せた白狼は気持ちよさそうに目を細めている。
「こいつが気になんのか? 嬢ちゃんには怖いだろ?」
「いえ、人と暮らす白狼は人を襲わないと聞いていますから。……ありがとうございます。貴方が助けてくださったんですよね?」
「ああ。あんな場所でムジカに囲まれてたんだから驚いたぜ。あと少し遅かったら骨すら残ってなかったかもしれねぇな」
冗談でもなんでもない淡々とした声音に背筋がぞくりと冷える。
つい先ほど夢に見た光景。暗闇で光る黒い瞳とカチカチ鳴る歯の音が脳裏に蘇り、私は震える肩を抱きしめた。
「何かお礼をさせていただきたいのですが、生憎と何も持ち合わせが無くて……。ここはヴィンターハルト領ですよね? ラグノ村ですか? それとも、オルン砦?」
「惜しいな。ここはラグノ村の近くにある、ただの山小屋だ。俺はシグルド。ここらで猟をして生計を立てている」
「シグルド様……」
「様はやめてくれ。そんな柄でもねぇ」
手でひらひらと払う仕草は素っ気ないが、動きのひとつひとつに隙がない。それに壁に掛けられた武具の量、白狼との絆を感じさせる自然な距離感。何といっても、この熊のような立派な体格。……どう見ても、ただの猟師さんには見えない。
「で? 嬢ちゃんはなんで雪山でひとりで死にかけてたんだ?」
揶揄いを含んだ言い回しの奥に、探るような響きが混じっている。彼にとって私は正体不明の流れ者なのだ。警戒されて当然だろう。
鞄も失い、身分を証明するものもない私は、毛布をぎゅっと掴み、浅く息を整えた。
「私は、スカラー王国のシーナ・リンドと申します。北部には調査で来たのですが……。王都にある『人獣共生協会』についてはご存じですか?」
「ああ、あれか。昔はまともな協会だったはずだが、今じゃ王都の連中の玩具になってるって話だったな」
「……玩具」
侮蔑を孕んだその単語がグサリと胸に刺さる。けれど、それが傍から見た今の協会の実態なのだ。
私は苦笑を噛み殺して小さく頷いた。
「実は、創設者は私の祖父なんです。密猟の摘発や獣の生育調査を目的に作られました。でも、祖父が亡くなってから王妃様が口を出すようになって……」
「……なるほどな。ヴィンターハルトにもその協会から有難い手紙が届いたことがある。『動物たちは懸命に生きているだけなのだから、無用な殺戮は控えるように』ってな」
「ああ……」
乾いた笑いが漏れてしまう。私の預かり知らぬところでその手紙を書いたのはデイヴだろうけれど、それはメリンダ様がことあるごとに口にしていた耳触りの良い綺麗事のひとつだった。
「なんでも、これからの協会に必要なのは『慈愛の精神』なんだそうです。『あんなに可愛い動物たちを狩るなんてとんでもない』って……。王都でも、そんな空気が主流でして」
「ハッ、いかにも平和ボケした連中の言いそうなことだな」
「はい……。でも私は祖父から獣の危険性を教えられてきました。だから生きるため、あるいは身を守るために必要な殺生もあるのだと何度も反論してしまったんです。それで王妃様に嫌われまして……」
協会には『協会内では貴族も平民も同じ立場』という規則が存在している。でもその建前を本気にし、王族に正面から異を唱え続けた私が馬鹿だったんだ。
だから私は追い出された。ただ、それだけのことだった。
それでも誰かは庇ってくれるんじゃないかと微かに期待していたのに。それまで仲間だと思っていた協会員たちが一斉に視線を逸らした光景は、一生忘れられそうにない。
婚約者であるデイヴですら、私を見限ったあの日を。
「本来は領主様のいるオルン砦に向かう予定でした。でも『まずはムジカの生息地を調べるために山に入ろう』と、護衛の傭兵さんたちに言われたんです。それで一緒にムジカの足跡を追っていたら、いきなりその方たちに襲いかかられて……」
疑いもせず後ろをついていった自分が情けない。言葉にするうちに、不甲斐なさと悔しさから涙がぽろっと頬を伝っていた。
「その傭兵、二人組だったか?」
「は、はい……! 何かご存知なんですか?」
「ご存知というか……あちこち食いちぎられた死体が雪ん中に二つほど埋まってたんだ。ありゃ間違いなく、ムジカの仕業だろうよ」
予想だにしなかった言葉に私は言葉を失った。
私を見失った後に、彼らは襲われたのだろうか?
驚きで固まっていると、シグルドさんは壁に掛けられた厚手のコートから一通の封筒を取り出して、私の方へと放り投げた。
♪ぴょこんとおみみで きいてるよ
♪まあるいおめめで おいでよと
♪ちいさなおくちで うたってる
頭の中で繰り返し反響するのは、王都に伝わる童謡。幼いころに何度も聞いたムジカの歌だ。
ムジカと冬を越す少女を描いた絵本は私の一番のお気に入りだった。
その絵本のページと同じように、足元にはムジカの家族が睦まじく纏わりついている。
鼻をひくつかせ、差し出した指先に子ムジカがちょこんと口づける。
「わあ、可愛い……!」
そっと抱き上げようとした、その瞬間。柔らかい光景は音もなく凍りつき、雪原のあちこちに数え切れないほどの黒い瞳が浮かび上がった。
カチカチ、カチカチ。
童謡とはかけ離れた、骨の芯まで冷えるような不気味な音が響き渡る。
ギザギザの歯を楽しそうに鳴らしながら、子ムジカが「あーん」と、私の指を噛みちぎろうとしたところで――
私は、勢いよく飛び起きた。
まぶたの裏の雪景色がふっと消え、代わりに揺らめくオレンジ色の灯りが視界を満たす。
年季の入った木の梁、乾いた獣の匂い、鼻先をかすめる薪の煙。ずっしりとした重たい毛布の感触。
……ここは、どこかの家だろうか。
横を向くと、壁一面に無骨なボウガンが何丁も掛けられ、その下には乾燥させている最中の動物の毛皮が並んでいる。炎に照らされたそれらからは生活感が感じられ、私はようやく自分が生きているのだと実感した。
「ああ……起きたか」
不意に、暖炉のそばから低く掠れた声が降ってくる。振り向くと、毛皮を羽織った大男が椅子に腰掛けていた。
……雪原で意識を失う直前、私に声をかけてくれたあの男の人だ。
濡れたブーツを乾かしながら、鋭くもどこか落ち着いた視線で私のことを見つめている。
無造作に括られた長い白髪。雪焼けした肌には、無精ひげの白さがよく目立つ。
年齢は見た目ではとても判別できない。鍛え上げられた体つきと油断のない佇まいが曖昧にさせている。
そして彼の足元には、先ほどムジカの群れを蹴散らした白狼が寝そべっていた。
よく手入れされた毛並みは暖炉の火を反射して、ほのかに橙色を帯びている。視線が自然とその大きな耳と静かに閉じられた瞳に吸い寄せられてしまう。
大男は白狼の頭を大きな手でゆっくりと撫でた。厚い手のひらに頬を寄せた白狼は気持ちよさそうに目を細めている。
「こいつが気になんのか? 嬢ちゃんには怖いだろ?」
「いえ、人と暮らす白狼は人を襲わないと聞いていますから。……ありがとうございます。貴方が助けてくださったんですよね?」
「ああ。あんな場所でムジカに囲まれてたんだから驚いたぜ。あと少し遅かったら骨すら残ってなかったかもしれねぇな」
冗談でもなんでもない淡々とした声音に背筋がぞくりと冷える。
つい先ほど夢に見た光景。暗闇で光る黒い瞳とカチカチ鳴る歯の音が脳裏に蘇り、私は震える肩を抱きしめた。
「何かお礼をさせていただきたいのですが、生憎と何も持ち合わせが無くて……。ここはヴィンターハルト領ですよね? ラグノ村ですか? それとも、オルン砦?」
「惜しいな。ここはラグノ村の近くにある、ただの山小屋だ。俺はシグルド。ここらで猟をして生計を立てている」
「シグルド様……」
「様はやめてくれ。そんな柄でもねぇ」
手でひらひらと払う仕草は素っ気ないが、動きのひとつひとつに隙がない。それに壁に掛けられた武具の量、白狼との絆を感じさせる自然な距離感。何といっても、この熊のような立派な体格。……どう見ても、ただの猟師さんには見えない。
「で? 嬢ちゃんはなんで雪山でひとりで死にかけてたんだ?」
揶揄いを含んだ言い回しの奥に、探るような響きが混じっている。彼にとって私は正体不明の流れ者なのだ。警戒されて当然だろう。
鞄も失い、身分を証明するものもない私は、毛布をぎゅっと掴み、浅く息を整えた。
「私は、スカラー王国のシーナ・リンドと申します。北部には調査で来たのですが……。王都にある『人獣共生協会』についてはご存じですか?」
「ああ、あれか。昔はまともな協会だったはずだが、今じゃ王都の連中の玩具になってるって話だったな」
「……玩具」
侮蔑を孕んだその単語がグサリと胸に刺さる。けれど、それが傍から見た今の協会の実態なのだ。
私は苦笑を噛み殺して小さく頷いた。
「実は、創設者は私の祖父なんです。密猟の摘発や獣の生育調査を目的に作られました。でも、祖父が亡くなってから王妃様が口を出すようになって……」
「……なるほどな。ヴィンターハルトにもその協会から有難い手紙が届いたことがある。『動物たちは懸命に生きているだけなのだから、無用な殺戮は控えるように』ってな」
「ああ……」
乾いた笑いが漏れてしまう。私の預かり知らぬところでその手紙を書いたのはデイヴだろうけれど、それはメリンダ様がことあるごとに口にしていた耳触りの良い綺麗事のひとつだった。
「なんでも、これからの協会に必要なのは『慈愛の精神』なんだそうです。『あんなに可愛い動物たちを狩るなんてとんでもない』って……。王都でも、そんな空気が主流でして」
「ハッ、いかにも平和ボケした連中の言いそうなことだな」
「はい……。でも私は祖父から獣の危険性を教えられてきました。だから生きるため、あるいは身を守るために必要な殺生もあるのだと何度も反論してしまったんです。それで王妃様に嫌われまして……」
協会には『協会内では貴族も平民も同じ立場』という規則が存在している。でもその建前を本気にし、王族に正面から異を唱え続けた私が馬鹿だったんだ。
だから私は追い出された。ただ、それだけのことだった。
それでも誰かは庇ってくれるんじゃないかと微かに期待していたのに。それまで仲間だと思っていた協会員たちが一斉に視線を逸らした光景は、一生忘れられそうにない。
婚約者であるデイヴですら、私を見限ったあの日を。
「本来は領主様のいるオルン砦に向かう予定でした。でも『まずはムジカの生息地を調べるために山に入ろう』と、護衛の傭兵さんたちに言われたんです。それで一緒にムジカの足跡を追っていたら、いきなりその方たちに襲いかかられて……」
疑いもせず後ろをついていった自分が情けない。言葉にするうちに、不甲斐なさと悔しさから涙がぽろっと頬を伝っていた。
「その傭兵、二人組だったか?」
「は、はい……! 何かご存知なんですか?」
「ご存知というか……あちこち食いちぎられた死体が雪ん中に二つほど埋まってたんだ。ありゃ間違いなく、ムジカの仕業だろうよ」
予想だにしなかった言葉に私は言葉を失った。
私を見失った後に、彼らは襲われたのだろうか?
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