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白銀のエチュード
14 北部の壁、オルン砦
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夕日が山間の彼方へと沈み、空が濃紫に染まりはじめた頃。
犬たちが蹴り上げる雪煙の向こうに、北部の盾――巨大な威容を示すオルン砦が現れた。
天を突く石造りの城壁はどこまでも続き、見張り台には毛皮に身を包んだ大柄な兵士たちが立っている。鋭い眼光は一様に更に北へと向けられていて、つい、足を止めて仰ぎ見てしまう。
足脇の小扉から中へ入った途端、空気が一変する。
外の静寂が嘘のように砦の内部は熱気と男たちの怒号が飛び交い、活気に満ちていた。
「おっ、坊ちゃんじゃねえか! 元気してましたか!」
「相変わらず細いっすね、ロベルト様は。……後ろの美人は、まさか嫁さんですか?」
すれ違う兵士たちが次々と声をかけてくる。
ロベルトさんは「うるせえよ!」と軽口で返しながら慣れた足取りで人の流れを抜け、私を最奥の一室へと導いた。
重厚な扉を押し開けた瞬間、熱風とともに、圧倒的な存在感が押し寄せてくる。
「おう、ロベルトか。久しぶりだな。わざわざここまで来るなんざ、何年ぶりだ?」
低く響く声の主――
椅子から立ち上がったのは、シグルドさんの息子であり、ロベルトさんの父。現辺境伯、ハロルド様だった。
一言で表すなら、岩山。
シグルドさんも大柄な方だけれど、ハロルド様はさらに一回り大きい。北部の軍服の下で盛り上がる筋肉は今にもはち切れそうで、椅子に腰掛けているだけで周囲を威圧しているようだ。
「親父、相変わらず無駄にデカいな」
「はっはっは! 飯を食えばこうなる。……で、そっちのお嬢さんが噂のシーナ殿か。オイゲン殿の孫と聞いたが、随分と華奢だな。北部で凍えてやしねえか?」
豪快な笑い声とともに、肩を叩かれる。その一撃は想像以上に重く、私は思わず膝が折れそうになった。
「あ、ありがとうございます、ハロルド様。お世話になります」
「なぁに、お嬢さんの撒いた匂い罠のおかげで哨戒兵の負担が半分になったんだからな。礼を言うのはこっちの方だ」
「発案者は俺だっての!」
「分かっとるわ! だが実用化にこぎつけられたのはお嬢さんのおかげだろうが!」
そう怒鳴り合ってから、ハロルド様が真顔になる。
「……それで、今日はどうした?」
「実は、これまでに捕えてきた密猟者についてお聞きしたくて。王都の貴族と繋がりがあるのではないか、と」
たっぷりとある顎髭を撫でながら、ハロルド様が「ふぅむ」と唸る。
だが、思案の色は一瞬で消え、すぐに豪胆な笑みが戻った。
「悪いが、親父殿がとっ捕まえてここに送ってきた連中はすぐ前線に回しちまうんだ。残ってる連中は一握りだな」
「だと思った。けど、所持品くらいはどこかに保管してるだろ?」
「倉庫にな。適当に放り込んでる。勝手に探して構わんぞ」
そう言うなり、壁に掛けられた鍵束から一本を抜き取るやロベルトさんへ放り投げる。ロベルトさんは難なく空中で受け取り、呆れたように肩を竦めた。
「しばらく砦に留まるんだろう? 夜は馳走にしよう!」
「はいはい、楽しみにしてるよ。俺たちはしばらく倉庫にいるから、何かあったら呼んでくれ」
ハロルド様に一礼し、私たちは倉庫へと続く回廊を歩き出した。
「あー……シーナ、覚悟しておけよ。親父は戦は得意だけど、事務仕事はゴミ以下なんだ」
その言葉の意味は、倉庫に一歩足を踏み入れた瞬間に理解することになった。
「……ここ、ですか?」
視界いっぱいに広がっていたのは、整理整頓という概念が消え失せた世界。
棚には書類が押し込められ、床には密猟者から押収したと思しき証拠品や羊皮紙が山積みになっている。剥き身のナイフが無造作に転がり、舞い上がる埃に喉の奥がひりつくようだ。
「……想像はしてたけど、ここまでとはな」
一言で言えば、乱雑。王都の協会であればこれだけで始末書ものの惨状に、私は思わず苦笑いを漏らした。
呆れつつも資料の山に手を伸ばし始める。
何か少しでも情報が残っていないだろうか。
少しでもシグルドさんの……このヴィンターハルトの助けになるような何かが――
一心不乱に資料を読み漁っていると、開いたままの入口から、重そうな木箱を抱えた男が入ってきた。
「――あ」
男が足を止め、顔を上げる。
足を引きずるその姿には見覚えがあった。以前、ムジカに襲われていたところをシグルドさんが捕らえ、デイヴに雇われたと言った密猟者の男だ。
足にはまだ包帯が巻かれているけれど、顔色は随分と良い。心なしか、肉付きも増えているように見えた。
「……ああ、あんたか。あの時の……」
男は一瞬きまり悪そうに視線を逸らし、その場に木箱を置いた。
「ええと……お元気そうで何よりです。お手伝い、ですか?」
「見ての通りだ。今はここの雑用係。怪我が治るまでは後方支援だが、そのうち北の最前線に放り出されるらしい」
その声音に、自嘲めいた響きが混じる。
「シーナ、知り合いか?」
資料と格闘していたロベルトさんが気づき、すっと私の前に立った。
以前に話したことのある密猟者だと伝えると、彼は「ふぅん」と短く唸り、男を値踏みするように眺める。
「じーさんが仕置きしたって奴か。王都の連中にもアレは効いたみてぇだな。性根を入れ替えたようで何よりだ」
「……ガキにまで馬鹿にされる筋合いはねぇんだがな」
「へいへい。で……一つ聞きたい。お前、ヴィンターハルトにはどのルートで入ってきた?」
不意の詰問に男は眉をひそめたが、すぐに諦めたように息を吐いた。
温情で生かされている身だ。自分の立場は理解しているのだろう。男は記憶を辿るように、ここへ至るまでの道程を語り始めた。
それは、私が辿ってきた正規のルートとは異なる道だった。
「やっぱり、な。りょーかい。アンタは仕事に戻っていいよ」
「そうかい。お役に立てたようで何よりだよ」
皮肉めいた言葉を残し、男は別の木箱へと手を伸ばす。
去り際、ふと視線が交わり、気づけば私は口を開いていた。
「あの。……ここでの生活は、どうですか?」
聞くまでもない問いだったのかもしれない。
それでも投げかけられた言葉に男は一瞬だけ虚を突かれたような顔をして、やがて僅かに口元を緩めた。
「……毎日、死ぬほどしんどいさ。だけど、王都でゴミみてえな依頼を受けてた頃よりは、よっぽどマシな生活だ」
一拍置いて、男は肩を竦める。
「何せ、ここじゃ酒が水代わりに呑めるからな」
男は木箱を抱え直し、私に向かって短く頭を下げる。
「……手当てをしてくれて、ありがとな。あんたらに助けられなきゃ、俺は今頃ムジカの糞になってた。恩に着る」
それきり男は背を向け、重い足取りで倉庫の奥へと消えていった。
怪我が癒えれば、また厳しい日々が待っているのかもしれない。それでも彼が、この地で何かを掴める未来があることを、私はただ祈るしかなかった。
――それから数時間。
埃にまみれながら、私はロベルトさんと共に混沌とした倉庫に籠もっていた。
「あった……これです。ロベルトさん、見てください。この押収品のナイフの柄」
ランプの光の下で、私は刃を持ち上げる。削られてはいるが、そこに刻まれた紋様には見覚えがあった。
「この意匠、東部に属する貴族家の家紋に酷似しています」
「……おいおい、本気かよ。こんな真っ黒な代物が、埃を被って放置されてたってのか」
ロベルトさんは呆れたように言いながらも、どこか愉快そうに口角を上げた。
「ま、俺の方も掴んだところだ。……じーさんが王都で暴れてる間に、俺たちはこいつの裏取りを済ませちまおう」
彼はランプを高く掲げ、一枚の古い地図を広げる。
「密猟者の通ってきたルートは、全部東部からだ」
指先が示した先に、私は息を呑んだ。
「ここを治めるのは――王妃様のご実家。ダリウス・リーの領地だ。自領内なら、いくらでも誤魔化せることだろうよ」
「……それらをすべて揃えられれば、王家に告発できますよね?」
「さすがに王妃の家だからって王様も無視はできねぇはずだ。ただし……」
ロベルトさんは低く唸る。
「握りつぶされるのも御免だ。どうやって提出するかが問題だな」
「……それなんですけれど」
埃まみれの倉庫で、私たちが真実へと手を伸ばしていた、ちょうどその頃――
王都では、一人の「狂犬」が、静かに牙を剥く準備を始めていたらしい。
犬たちが蹴り上げる雪煙の向こうに、北部の盾――巨大な威容を示すオルン砦が現れた。
天を突く石造りの城壁はどこまでも続き、見張り台には毛皮に身を包んだ大柄な兵士たちが立っている。鋭い眼光は一様に更に北へと向けられていて、つい、足を止めて仰ぎ見てしまう。
足脇の小扉から中へ入った途端、空気が一変する。
外の静寂が嘘のように砦の内部は熱気と男たちの怒号が飛び交い、活気に満ちていた。
「おっ、坊ちゃんじゃねえか! 元気してましたか!」
「相変わらず細いっすね、ロベルト様は。……後ろの美人は、まさか嫁さんですか?」
すれ違う兵士たちが次々と声をかけてくる。
ロベルトさんは「うるせえよ!」と軽口で返しながら慣れた足取りで人の流れを抜け、私を最奥の一室へと導いた。
重厚な扉を押し開けた瞬間、熱風とともに、圧倒的な存在感が押し寄せてくる。
「おう、ロベルトか。久しぶりだな。わざわざここまで来るなんざ、何年ぶりだ?」
低く響く声の主――
椅子から立ち上がったのは、シグルドさんの息子であり、ロベルトさんの父。現辺境伯、ハロルド様だった。
一言で表すなら、岩山。
シグルドさんも大柄な方だけれど、ハロルド様はさらに一回り大きい。北部の軍服の下で盛り上がる筋肉は今にもはち切れそうで、椅子に腰掛けているだけで周囲を威圧しているようだ。
「親父、相変わらず無駄にデカいな」
「はっはっは! 飯を食えばこうなる。……で、そっちのお嬢さんが噂のシーナ殿か。オイゲン殿の孫と聞いたが、随分と華奢だな。北部で凍えてやしねえか?」
豪快な笑い声とともに、肩を叩かれる。その一撃は想像以上に重く、私は思わず膝が折れそうになった。
「あ、ありがとうございます、ハロルド様。お世話になります」
「なぁに、お嬢さんの撒いた匂い罠のおかげで哨戒兵の負担が半分になったんだからな。礼を言うのはこっちの方だ」
「発案者は俺だっての!」
「分かっとるわ! だが実用化にこぎつけられたのはお嬢さんのおかげだろうが!」
そう怒鳴り合ってから、ハロルド様が真顔になる。
「……それで、今日はどうした?」
「実は、これまでに捕えてきた密猟者についてお聞きしたくて。王都の貴族と繋がりがあるのではないか、と」
たっぷりとある顎髭を撫でながら、ハロルド様が「ふぅむ」と唸る。
だが、思案の色は一瞬で消え、すぐに豪胆な笑みが戻った。
「悪いが、親父殿がとっ捕まえてここに送ってきた連中はすぐ前線に回しちまうんだ。残ってる連中は一握りだな」
「だと思った。けど、所持品くらいはどこかに保管してるだろ?」
「倉庫にな。適当に放り込んでる。勝手に探して構わんぞ」
そう言うなり、壁に掛けられた鍵束から一本を抜き取るやロベルトさんへ放り投げる。ロベルトさんは難なく空中で受け取り、呆れたように肩を竦めた。
「しばらく砦に留まるんだろう? 夜は馳走にしよう!」
「はいはい、楽しみにしてるよ。俺たちはしばらく倉庫にいるから、何かあったら呼んでくれ」
ハロルド様に一礼し、私たちは倉庫へと続く回廊を歩き出した。
「あー……シーナ、覚悟しておけよ。親父は戦は得意だけど、事務仕事はゴミ以下なんだ」
その言葉の意味は、倉庫に一歩足を踏み入れた瞬間に理解することになった。
「……ここ、ですか?」
視界いっぱいに広がっていたのは、整理整頓という概念が消え失せた世界。
棚には書類が押し込められ、床には密猟者から押収したと思しき証拠品や羊皮紙が山積みになっている。剥き身のナイフが無造作に転がり、舞い上がる埃に喉の奥がひりつくようだ。
「……想像はしてたけど、ここまでとはな」
一言で言えば、乱雑。王都の協会であればこれだけで始末書ものの惨状に、私は思わず苦笑いを漏らした。
呆れつつも資料の山に手を伸ばし始める。
何か少しでも情報が残っていないだろうか。
少しでもシグルドさんの……このヴィンターハルトの助けになるような何かが――
一心不乱に資料を読み漁っていると、開いたままの入口から、重そうな木箱を抱えた男が入ってきた。
「――あ」
男が足を止め、顔を上げる。
足を引きずるその姿には見覚えがあった。以前、ムジカに襲われていたところをシグルドさんが捕らえ、デイヴに雇われたと言った密猟者の男だ。
足にはまだ包帯が巻かれているけれど、顔色は随分と良い。心なしか、肉付きも増えているように見えた。
「……ああ、あんたか。あの時の……」
男は一瞬きまり悪そうに視線を逸らし、その場に木箱を置いた。
「ええと……お元気そうで何よりです。お手伝い、ですか?」
「見ての通りだ。今はここの雑用係。怪我が治るまでは後方支援だが、そのうち北の最前線に放り出されるらしい」
その声音に、自嘲めいた響きが混じる。
「シーナ、知り合いか?」
資料と格闘していたロベルトさんが気づき、すっと私の前に立った。
以前に話したことのある密猟者だと伝えると、彼は「ふぅん」と短く唸り、男を値踏みするように眺める。
「じーさんが仕置きしたって奴か。王都の連中にもアレは効いたみてぇだな。性根を入れ替えたようで何よりだ」
「……ガキにまで馬鹿にされる筋合いはねぇんだがな」
「へいへい。で……一つ聞きたい。お前、ヴィンターハルトにはどのルートで入ってきた?」
不意の詰問に男は眉をひそめたが、すぐに諦めたように息を吐いた。
温情で生かされている身だ。自分の立場は理解しているのだろう。男は記憶を辿るように、ここへ至るまでの道程を語り始めた。
それは、私が辿ってきた正規のルートとは異なる道だった。
「やっぱり、な。りょーかい。アンタは仕事に戻っていいよ」
「そうかい。お役に立てたようで何よりだよ」
皮肉めいた言葉を残し、男は別の木箱へと手を伸ばす。
去り際、ふと視線が交わり、気づけば私は口を開いていた。
「あの。……ここでの生活は、どうですか?」
聞くまでもない問いだったのかもしれない。
それでも投げかけられた言葉に男は一瞬だけ虚を突かれたような顔をして、やがて僅かに口元を緩めた。
「……毎日、死ぬほどしんどいさ。だけど、王都でゴミみてえな依頼を受けてた頃よりは、よっぽどマシな生活だ」
一拍置いて、男は肩を竦める。
「何せ、ここじゃ酒が水代わりに呑めるからな」
男は木箱を抱え直し、私に向かって短く頭を下げる。
「……手当てをしてくれて、ありがとな。あんたらに助けられなきゃ、俺は今頃ムジカの糞になってた。恩に着る」
それきり男は背を向け、重い足取りで倉庫の奥へと消えていった。
怪我が癒えれば、また厳しい日々が待っているのかもしれない。それでも彼が、この地で何かを掴める未来があることを、私はただ祈るしかなかった。
――それから数時間。
埃にまみれながら、私はロベルトさんと共に混沌とした倉庫に籠もっていた。
「あった……これです。ロベルトさん、見てください。この押収品のナイフの柄」
ランプの光の下で、私は刃を持ち上げる。削られてはいるが、そこに刻まれた紋様には見覚えがあった。
「この意匠、東部に属する貴族家の家紋に酷似しています」
「……おいおい、本気かよ。こんな真っ黒な代物が、埃を被って放置されてたってのか」
ロベルトさんは呆れたように言いながらも、どこか愉快そうに口角を上げた。
「ま、俺の方も掴んだところだ。……じーさんが王都で暴れてる間に、俺たちはこいつの裏取りを済ませちまおう」
彼はランプを高く掲げ、一枚の古い地図を広げる。
「密猟者の通ってきたルートは、全部東部からだ」
指先が示した先に、私は息を呑んだ。
「ここを治めるのは――王妃様のご実家。ダリウス・リーの領地だ。自領内なら、いくらでも誤魔化せることだろうよ」
「……それらをすべて揃えられれば、王家に告発できますよね?」
「さすがに王妃の家だからって王様も無視はできねぇはずだ。ただし……」
ロベルトさんは低く唸る。
「握りつぶされるのも御免だ。どうやって提出するかが問題だな」
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