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作用があるとは言うけれど

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 会社の窓から見える空は夕暮れ。少し日没の時間が遅くなってきていると言っても、外は次第に夜の顔を覗かせている。
「んぅ~……!」
 仕事を終えて体を伸ばしている男、佐藤さとう優樹ゆうき
「佐藤君、お疲れ様」
 その背後から声をかけてくる女性が一人。
 一ノ瀬いちのせ早希さき。優樹の一つ上の先輩で、頼れる人だ。
「お疲れ様です、一ノ瀬さん」
「今は二人きりだから、早希って呼んでくれてもいいのよ?」
「……早希さんこそ、いつもみたいに呼んでくれないんですか?」
 互いにそう言うと、揃って笑みをこぼした。
 高校で出会っていた二人は恋人同士であり、プライベートや二人きりの時には、こうしてお互いに名前で呼び合っている。
「優樹君もう仕事上がりでしょ? 一緒に飲まないかなーって考えてるんだけど、何か予定あったりする?」
「何か他の予定があっても、早希さんからのお誘いが来ればすぐにリスケしますよ」
「ぷっ、あっはははは!」
 早希の問いにふざけるように優樹がそんな事を言うものだから、思わず彼女は笑ってしまった。
「はぁー……もう、それ他の人とかに言っちゃダメだよ?」
「早希さん以外には言わないので大丈夫です」
 ――真面目な顔でいきなりそんな事言うのズルいなぁ……。まぁもうちょっといい雰囲気の時に言って欲しいけど。
 彼女は一つ咳払いをして、話を戻す。
「それで、今日は予定はないって事で良いのかな……?」
「あ、そうでした。特に予定は入ってませんよ」
「良かったぁ! じゃあ行こっか?」
「はいっ!」
 優樹は返事をするとすぐに支度を始めるのだった。

 × × ×

 こうして二人は一緒に街を歩いていたのだが、優樹はふと疑問に思う。
 今歩いている場所は飲み屋街という訳でもなく、かと言ってその方向に向かっている訳でもなかった。
「あれ、今日はどっかのお店じゃないんですか?」
「あー……うん。今日はその、うちで飲まないかなって……」
 少し頬を赤くしながら早希は口にする。後半になるにつれて、わずかに小声になっていたが。
「……珍しいですね、そういう風に誘ってくるの」
 優樹のこの言葉に彼女はさらに顔を赤くした。
 何度か家に行った事は確かにある。それも互いに。恋人同士だから当然する事もしている。しかし仕事終わりの時は居酒屋などで飲んで解散、という事がほとんどだった。
 それが今、普段とは違って彼女からそういう雰囲気を出して・・・・・・・・・・・・・・・家に来ないかと誘われた。
「だって今日、2月14日だし……」
 ――ああ、なるほど。
 2月14日。バレンタインデー。
 起源がどうだなどと色々言われるが、そんな事はどうでもいい。
 優樹にとっては恋人である一ノ瀬早希から誘いを受けた。まだ貰っていないが、恐らく今年もチョコを用意しているのだろう。しかし今日という日に彼女から誘われた、という事実だけで彼は堪らなく嬉しかった。
「それに明日は久しぶりに二人とも休みだし……」
「ありがとう休日」
 と、そんな事まで思わず口に出してしまう。
「ん、んんっ! とにかく、そういう事だからっ! 行くわよっ!」
 頬を染めたまま早希は優樹の手を引く。それに対して彼はにやにやと笑うだけであった。

 お酒や食べる物は家に十分あると早希が言うので買い物には寄らず、手は繋いだままで連れられて彼女の家に到着する。
「ただいまー」
「お邪魔します」
「準備は私がするから、優樹君はくつろいでていいよ」
 一度自分の寝室に向かう彼女はそう言った。
「手伝わなくていいんですか?」
「うん、そんな手の込んだ料理する訳じゃないし、ゆっくりしてて」
「じゃあお言葉に甘えて」
 優樹はそのままリビングに向かおうとすると、早希が入ったはずの部屋の方から「その代わりにあとで沢山動いてもらうから」といった声が聞こえてきた。
 それに振り返ると、彼女は部屋から顔だけ出して悪戯を成功させた子供のように舌をわずかに見せる。
 ――急にそんな事言うのズルいしなんですかその仕草。可愛い。
「すぐ行くから待っててね」
「分かりました」
 改めて彼はリビングへと足を運ぶ。

「お待たせ~」
 着替えを済ませた早希は酒のつまみとなる幾つかの料理を運んできた。
「美味しそうですね」
「ホントに簡単な物ばかりだけどね」
 次に冷蔵庫から缶ビール二本を手にして戻ってくると、片方を優樹に渡して彼の隣に腰を下ろす。
 二人が缶ビールを開ける子気味のいい音が響く。
「それじゃあ――」
 揃って缶をわずかに掲げ、「乾杯!」と声を合わせた。

     ◇

 飲み始めてからしばらく経った。二人とも缶ビールの二本目を開けて、それを半分ほど飲んだ辺りだ。
 優樹はさらに一口飲もうとしながら早希の方に目をやると、彼女はご機嫌な様子で食事を楽しんでいた。
「ん~……ふふっ♪ んぐんぐ、ぷはぁー!」
 そんな早希を見ていると自分まで幸せな気分になる。優樹は何気なく見ていたが、その視線にようやく彼女が気付いた。
「な~に~どうしたの~?」
 ――ふにゃふにゃ可愛い。
「いえ、そんな風に酔ってる早希さん見るの久しぶりだなって思って」
「そうだっけ~?」
「普段なら二本ぐらいでそこまでならないじゃないですか」
 彼の言う普段とは、仕事帰りに居酒屋など外で飲んでいる時の事だ。
「まぁ優樹君とこうして家でゆっくりするのなんて、正月休み以来だもんね~」
「正月休みの後もあんまり二人の休み被らなかったですもんね」
「だから今日と明日は、思いっきり優樹君とイチャイチャするもんね~っ!」
 彼女はそう言ったかと思えば、少しだけ残っていたビールを一気に飲み干す。それから立ち上がった早希は、キッチンには向かったものの、そのまま冷蔵庫の前を通り過ぎた。
 その様子を優樹は不思議そうに見つめる。
「忘れないうちに~……はいっ」
 戻ってきた彼女の手には綺麗にラッピングされた小さめな箱。それが何かは優樹もすぐに分かった。
「やっぱり今年もチョコくれるんですね。それも手作りの」
「当然でしょ~。それとも、もういらない?」
「まさか。早希さんから貰えるの、凄く嬉しいんですから」
「ふふっ、そう言ってくれて私も嬉しい!」
 優樹はチョコを受け取るとすぐに箱を開ける。中には一口大のチョコが数個入っていた。それを一つ取って口に入れる。
「どう?」
「甘過ぎず、かと言って苦くもない……僕好みの甘さで美味しいです」
 彼が感想を述べると、にこにこしていた早希の表情がさらに緩む。
「んふふ~。まぁ伊達に何年も付き合ってないからね~」
 彼女はそう言いながら優樹に抱き付く。お酒の匂いがするが、それと同時に早希の甘い香りが彼の鼻孔をくすぐった。
「完全に甘えモードですね」
 口にしながら彼女の髪を撫でると、それが気に入ったのか、早希は頭をぐりぐりと優樹の身体に擦り付ける。
かと思えば、早希は顔を上げて彼の唇に一瞬だけキスをした。
「ちょっと甘いね」
「……チョコ付いてました?」
 何とも言えない表情で優樹が尋ねるが、彼女は「ううん」と首を横に振る。
「チョコは付いてないよ」
「それは良かった」
「あ、いい事思い付いちゃった~」
「いい事……?」
 早希はチョコが入っている箱の中から一つを手に取ると、そのチョコを自らの口に含んだ。
「ひょれふぁあゆうひふん、いふよぉ~」
「え――んんっ!?」
 口にチョコを含んだまま彼女は優樹に口付けすると、同時に舌でチョコを押し込む。驚いた彼はわずかに身体をびくりと震わせたが、舐め合う舌の感触とそれによって溶けるチョコの甘さに、そのまま早希の舌を受け入れていた。
「はぁ、ん……」
「ちゅ……れぅ……」
 チョコは完全に舐める舌の熱で溶けきり、二人は互いに甘くなった唾液をすすり合う。
 それから、どちらからともなく口を離すと名残惜しさを表すように、二人の間に唾液の糸が繋がれていた。
「……いきなり何してくれてるんですか」
 目の前で煽情的な表情を見せる早希に問いかける優樹。それに彼女は舌なめずりをして見せる。
「ん~、チョコって媚薬作用があるって言うじゃない? だからそろそろ優樹君をやる気にさせようかな~って思って?」
「確かにそんなのはありますけど……って事は今ここでしてもいいんですか?」
 あえて挑発に乗るように言う。それに彼女はニッと笑った。
「残ってる料理をしまってからね♪」
 ――あぁホント、こういうところでも勝たせてくれないなぁ……。
 テーブルの上の物を片付け始める早希にそんな感想を抱きながら、優樹は缶に少しだけ残っていたビールを流し込んで彼女を手伝うのだった。
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