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不穏な影
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「ふうん、座敷わらしか……どうりで」
「……どうしたの? ぼーっとしちゃって」
真っ赤なイブニングドレスに身を包み、ピンク色のスパークリングワインを片手に持った女は、女性に支えられながら出ていく銀髪の男の背が消えていった方向を、じっとりと見守っていた。
涼やかな濃紺の瞳は出口の方に固定されている。どんなに気をひこうとしても自分の方を見ようとしない彼女を、ホストの男は不思議そうに眺めていた。
陶器のように白くて滑らかな肌は、思わず見惚れてしまうほどの美しさがあったが、どこか作り物のように感じられる。
彼女の機嫌を取ろうとした男は、まるで中身が入っていないかのように軽い、彼女の細い手を握った。
ようやく男の方を向いた彼女だったが、相変わらず感情の感じられない単調さで、言葉を口にする。
「あら、あなたの手、とても暖かいのね」
「君の手はずいぶん冷たいね。温めてあげるよ」
「そう、ありがとう。でも」
女は三日月型に口角を上げ、真っ白な頭髪をかきあげると、不気味な笑いを浮かべた。
「私の心は、そんなものじゃあ温まらないのよ」
◇◇◇
あのホストクラブでの出会い以降、悦子はひとりで響に会いにいくようになった。綺麗な洋服を着て、しっかりとお化粧をした彼女を、ハルキはなんとも言えない気持ちで毎回見送っている。「あなたもついてきたら?」と言われたが、二人が仲睦まじく過ごしているところなんて見たくなくて断った。
昼間一緒に家にいる時も、彼女の口から「響さん」と言う単語が出てくることが増えてきている。その言葉を聞くたび、胸が苦しくなった。彼女が話す内容を完全にシャットダウンし、そそくさと外へ出てきてしまう。悦子はそんなハルキを怪訝な顔で見ていたが、いい加減察してほしい。
––––響さんだって、悦子さんの気をひこうと僕をVIPルームから追い出したくらいだし。人間と恋愛はしないっていつも言ってるけど、悦子さんに限っては違うかもしれない。
それにいつもハルキのことを助けてくれる響が「悦子さんが好きだ」なんて言い出したら、それを止める権利なんてハルキにはない。
––––そうなってしまったら、どうしよう。
どう考えたってハルキに勝ち目はない。こんな、能力もまともに使えない、役立たずの座敷わらしなんて。
今日も仕事帰りにやってくる来店客の愚痴を聞きながら、ハルキはシェーカーを振る。初めあれだけ手間取っていたバーの仕事も、今は会話をしながらでも手間取らずにカクテルやおつまみの準備ができるようになった。マスターからは、「自分が定年したら店を継がないか」なんて言われていたりする。
しばらく悦子と顔を合わせないように、夜はほぼ毎晩バーテンダーの仕事を入れることにした。昼は行く当てもなく散歩に出かけるのが日課になっている。
「ハルキくん、そろそろ休憩入っていいよ」
「あ、ありがとうございます」
カウンターの奥にあるドアを開けて中に入る。資材が綺麗に整頓された、物置も兼ねている窮屈な休憩室のパイプ椅子に腰掛け、サンドイッチにかけられたラップを剥ぐ。
本当は食べなくてもいいし、今は食べたい気分でもないのだが、せっかくマスターが用意してくれている食事なので、ありがたくいただくことにする。「作った人に感謝して食事は残さない」は、人間の頃から身についている習慣だ。
控室に設置されている古ぼけたテレビの電源をつける。映し出されたのは、なにが面白いのかわからない深夜番組で。それを観ながらサンドイッチを口に運び、ふと気がついた。
そういえば、これまで定期的に来ていた、「狐付き」の男性客が来ていない。
不思議に思って響にスマホのメッセージで聞いてみる。仕事中だろうと思ったら、向こうも休憩中だったらしく、すぐに既読がついて返信がきた。
「……そういうことか……、っていうか、悦子さんも言ってよ。まあ、会う機会を減らしているから、言うタイミングがなかったのかな……」
響のメッセージには、悦子から「結婚相手候補の紹介を停止してほしい」という申し出があった、と書いてあった。
ハルキはパイプ椅子の背にもたれかかり、両手を組んで背筋を伸ばしたあと、机に突っ伏した。これはやはり、響のことが気に入ったから、もう紹介はいらないってことなんじゃないだろうか。
ぼんやりとした疑いが、確信に変わっていく。口に含んだサンドイッチからは、味が消えていた。
もしも二人が結ばれてしまったらどうしよう。自分はどこへ行けばいいんだろう。悦子に興味を惹かれて旅館を出て、彼女に恋をして。彼女と二人で幸せになりたくて、自分はここにいるのに。
「カフェ&バー座敷わらしのマスターをやるしかないのか……」
腹の底から澱んだため息をつく。休憩時間が終わるギリギリまで、ハルキは立ち上がる気力が起きなくて、萎れたもやしみたいな格好のまま、しばらく佇んでいた。
「……どうしたの? ぼーっとしちゃって」
真っ赤なイブニングドレスに身を包み、ピンク色のスパークリングワインを片手に持った女は、女性に支えられながら出ていく銀髪の男の背が消えていった方向を、じっとりと見守っていた。
涼やかな濃紺の瞳は出口の方に固定されている。どんなに気をひこうとしても自分の方を見ようとしない彼女を、ホストの男は不思議そうに眺めていた。
陶器のように白くて滑らかな肌は、思わず見惚れてしまうほどの美しさがあったが、どこか作り物のように感じられる。
彼女の機嫌を取ろうとした男は、まるで中身が入っていないかのように軽い、彼女の細い手を握った。
ようやく男の方を向いた彼女だったが、相変わらず感情の感じられない単調さで、言葉を口にする。
「あら、あなたの手、とても暖かいのね」
「君の手はずいぶん冷たいね。温めてあげるよ」
「そう、ありがとう。でも」
女は三日月型に口角を上げ、真っ白な頭髪をかきあげると、不気味な笑いを浮かべた。
「私の心は、そんなものじゃあ温まらないのよ」
◇◇◇
あのホストクラブでの出会い以降、悦子はひとりで響に会いにいくようになった。綺麗な洋服を着て、しっかりとお化粧をした彼女を、ハルキはなんとも言えない気持ちで毎回見送っている。「あなたもついてきたら?」と言われたが、二人が仲睦まじく過ごしているところなんて見たくなくて断った。
昼間一緒に家にいる時も、彼女の口から「響さん」と言う単語が出てくることが増えてきている。その言葉を聞くたび、胸が苦しくなった。彼女が話す内容を完全にシャットダウンし、そそくさと外へ出てきてしまう。悦子はそんなハルキを怪訝な顔で見ていたが、いい加減察してほしい。
––––響さんだって、悦子さんの気をひこうと僕をVIPルームから追い出したくらいだし。人間と恋愛はしないっていつも言ってるけど、悦子さんに限っては違うかもしれない。
それにいつもハルキのことを助けてくれる響が「悦子さんが好きだ」なんて言い出したら、それを止める権利なんてハルキにはない。
––––そうなってしまったら、どうしよう。
どう考えたってハルキに勝ち目はない。こんな、能力もまともに使えない、役立たずの座敷わらしなんて。
今日も仕事帰りにやってくる来店客の愚痴を聞きながら、ハルキはシェーカーを振る。初めあれだけ手間取っていたバーの仕事も、今は会話をしながらでも手間取らずにカクテルやおつまみの準備ができるようになった。マスターからは、「自分が定年したら店を継がないか」なんて言われていたりする。
しばらく悦子と顔を合わせないように、夜はほぼ毎晩バーテンダーの仕事を入れることにした。昼は行く当てもなく散歩に出かけるのが日課になっている。
「ハルキくん、そろそろ休憩入っていいよ」
「あ、ありがとうございます」
カウンターの奥にあるドアを開けて中に入る。資材が綺麗に整頓された、物置も兼ねている窮屈な休憩室のパイプ椅子に腰掛け、サンドイッチにかけられたラップを剥ぐ。
本当は食べなくてもいいし、今は食べたい気分でもないのだが、せっかくマスターが用意してくれている食事なので、ありがたくいただくことにする。「作った人に感謝して食事は残さない」は、人間の頃から身についている習慣だ。
控室に設置されている古ぼけたテレビの電源をつける。映し出されたのは、なにが面白いのかわからない深夜番組で。それを観ながらサンドイッチを口に運び、ふと気がついた。
そういえば、これまで定期的に来ていた、「狐付き」の男性客が来ていない。
不思議に思って響にスマホのメッセージで聞いてみる。仕事中だろうと思ったら、向こうも休憩中だったらしく、すぐに既読がついて返信がきた。
「……そういうことか……、っていうか、悦子さんも言ってよ。まあ、会う機会を減らしているから、言うタイミングがなかったのかな……」
響のメッセージには、悦子から「結婚相手候補の紹介を停止してほしい」という申し出があった、と書いてあった。
ハルキはパイプ椅子の背にもたれかかり、両手を組んで背筋を伸ばしたあと、机に突っ伏した。これはやはり、響のことが気に入ったから、もう紹介はいらないってことなんじゃないだろうか。
ぼんやりとした疑いが、確信に変わっていく。口に含んだサンドイッチからは、味が消えていた。
もしも二人が結ばれてしまったらどうしよう。自分はどこへ行けばいいんだろう。悦子に興味を惹かれて旅館を出て、彼女に恋をして。彼女と二人で幸せになりたくて、自分はここにいるのに。
「カフェ&バー座敷わらしのマスターをやるしかないのか……」
腹の底から澱んだため息をつく。休憩時間が終わるギリギリまで、ハルキは立ち上がる気力が起きなくて、萎れたもやしみたいな格好のまま、しばらく佇んでいた。
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