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第六章 鬼灯堂の鬼女

昔の記憶

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「悪いね、帰りがけに」

「いえ、どうせ残業するつもりでしたし」

「定時までには話し終えるから」

「大丈夫です。気にしていただかなくても」

 永徳は客間と言ったが、ふと庭園が見たくなって、縁側で話をしようと佐和子は提案をした。

 縁側に腰掛けると、頭上には銀砂を散りばめたような星空が広がっていた。月明かりに照らされた日本庭園は、なんとも幻想的な雰囲気を醸し出している。

「君は今日、とってもよくやってくれたよ。ショートムービー案は、俺だったら思いつかなかった」

 永徳は空を見上げながら、穏やかな声でそう言った。

「いえ、たまたまです。それに、珍しい取り組みでもありませんし。私が個人的に好きで見ていて、これも活かせるかな、って思っただけなので」

「あやかしの世界では目新しかったよ」

「……それは、よかったです」

 これまでの仕事人生、怒られてばかりだったので、褒められるとこそばゆい。佐和子は頬を染め、どう反応して良いものかわからず下を向いた。

「君はちゃんと自分の役割を理解して、自分なりの価値を示そうとしている。うちとしては、とても助かっているんだよ。だからこそ自分を大切にしてほしい」

 こちらを覗き込むようにそう言った永徳に、佐和子は眉根を寄せて反論する。

「あの、でも。私、笹野屋さんが思うほど、体弱くないですし。もっともっとできるようになりたいんです。皆さんに認めてもらえるくらいに」

「君の『大丈夫』はあてにならない」

「でも、本当に大丈夫なんです」

「就業時間を超えて、大幅に残業して。今だってよろよろしていたのに。それがどうして大丈夫って言えるんだい」

 永徳の声色には、苛立ちが含まれていた。身を縮こませた佐和子を見て、自分が声を荒げていたことに気づいたのか、永徳はハッとし視線を落とす。

「ごめん、少しムキになった」

「いえ……あの……」

 気持ちを落ち着けるように、永徳は大きく深呼吸をする。しばしの沈黙のあと、彼はためらいがちに口を開いた。

「葵さんを見ていると、かつての同僚を思い出してしまってね。……心配になってしまうんだよ。彼のように、君も若くして消えてしまうんじゃないかって」

「同僚の方、ですか」

「うん。俺も昔会社勤めをしていてね。広告代理店に勤めてたんだけど」

 サファイアのような瞳が、月の光を受けて輝いている。しかしその輝きは、悲しみに満ちていた。

 ––––ああ、またこの表情。

 いつもニコニコしている永徳が、こんなに悲痛な表情を見せるほど、その思い出は、彼の心を締め付けているのだろう。

「半妖っていうのは、どの程度親の特質を受け継ぐかは個人差が大きい。俺に関して言えば、会社勤めをしていた当時は、まだ自覚できるほどに大した能力は芽生えていなかったんだ」

「そう……なんですか」

「だから『自分は人間と変わらない』と思っていた。目が青いくらいで、自分にあやかしの特質は遺伝しなかったんだと。……でも、違ったんだ」

 永徳は、苦しそうに顔を歪めていた。

「木村、というのがその同僚の名前でね。成績を競い合うライバルみたいな関係だった。俺は彼に勝ちたくて、昼夜問わず働いた。今思えば無茶苦茶な働き方をしていたと思う。でも、まったく疲れなかったんだ。どんなに寝なくても、どんなに走り回っても。いくら働いても能率が落ちない。結果、木村をどんどん突き放していった」

「疲れない、というのが、あやかしの特質だったんでしょうか」

「うちの父は、あやかしの中でも特別体が丈夫だったんだ。たぶんそれを受け継いだんだね」

 深いため息をついた永徳は、俯いて両手の指を組んだ。

「木村は俺に追いつこうとして、無理をした。会社も彼に発破をかけていてね。そういう時代だったから。『お前の成績が笹野屋に及ばないのは、根性がないからだ、気合を入れろ』って。俺も若くて調子に乗っていたから、『覚悟が足りないんだよ』なんてひどいことを言ったりもした」

 若い永徳はわからなかった。
 自分の体質が特殊であることを。
 同僚がどんなに無理をして、仕事をしていたのかということを。

「木村は決算期の追い込みに耐えかねて死んだ。過労死だった。知らなかったんだ。人間がそんなに脆いなんて。ずっと自分と同じだと思っていた。でも違ったんだ」

 毎年三月三十日。永徳がひとり訪れる墓は、彼の同僚の墓だったのだ。

「俺が自分の力に自惚れて、周りを煽ったばかりに、木村の幸せを奪ってしまった。彼は結婚間近で、もうすぐ幼馴染と籍を入れるはずだったのに。あいつが死んだのは、俺のせいなんだ」

 永徳はキツく両手を握りしめ、唇を噛んで俯いた。

 ––––ああ、そうか。

 永徳はいつもゆるゆると仕事をしているように見えて、元々予定していたスケジュールは絶対守るし、サボっているように見せかけて、実は仕事をしていたりする。

 ––––他の社員の見えるところで昼寝をしているのも、ちょくちょくだらけた風に見せているのも。きっとわざとなんだ。周りにプレッシャーを与えないように、あえてそういうことをしていて。

「葵さんが家に来た時、弱りきった様子の君が、木村に重なって。君が一生懸命になるのを見るたび––––不安になってしまうんだ」

「そうだったんですね……」

「……しつこくて、悪かったね。俺は人間の疲労感覚がわからないから、経験則でしか推し測れない。だからついつい、先回りをする形になって。過保護になってしまうのだよ」

 困っている時、壁にぶち当たっている時、永徳はまるではじめからすべてを予想していたかのように、絶妙なタイミングで手を差し伸べてくれた。

 観察して、推し測って。倒れないように、走り続けられるように。彼は佐和子を見守り、助けてくれていたのだ。

「笹野屋さん、話してくださって、ありがとうございます。……お辛い、思い出だったのに」

「いや、もう昔の話だし。やだねえ、歳をとると自分語りが長くなって」

 永徳は笑っていたが、きっと心からのものではなかった。

「まあつまり。そういった事情もあって。俺は君が心配なんだよ。人間の体は脆いんだ。大事にしておくれ」

 知る限り、彼の関わる人間は多くない。母親である富士子と米村くらいのものだ。外からやってきた佐和子と関わることで、人間世界に関わっていた頃の、いろいろな想いが蘇ってきたのかもしれない。

 閉じ込めていた過去のトラウマでさえも。

 佐和子は思い切って、永徳の手を握った。
 少し潤んだ青い瞳を、正面から見つめる。

「今日は残業せずに帰ります。ご心配いただいた通り疲れてますし。今度からはちゃんと『大丈夫』な範囲で、仕事を調整するようにします。……だから、そんなに心配しないでください。私、そんな簡単に消えたりしません。無謀なスケジュールの組み方は……してるかもしれないので、以後気をつけます」

 永徳は虚を突かれたのか、口を半開きにしたまま、彼の手に重ねられた佐和子の手に視線を落とした。

 佐和子はそれを見て、手を引っ込めた。あまりに永徳が悲しそうな顔をするので思わず握ってしまったが、今になって恥ずかしくなってきた。

「す、す、すみません。あの、私、これにて失礼します……!」

 勢いよくそう言いながら会釈をして、佐和子は荷物を持って玄関へと駆け出した。慌てて姿を消した佐和子のうしろ姿を見ながら、時間差で永徳の頬が桜色に染まる。

「不意打ちにも……ほどがあるでしょ。葵さん……」

 浅いため息が出る。ただそれは苦痛に塗れたものではなくて。どちらかといえば、甘く、切ない色味を含んでいた。


 ◇◇◇


 意味もなく、夜の闇を駆ける。

 目的地があるわけではない。本当は家が目的地のはずではあるのだが。
 走ってしまえば十分でついてしまう自宅では、この感情を落ち着かせるには不十分な距離だった。

 心臓が高鳴るのは、きっと走っているせい。
 そうだ、きっとそのせいだ。

 そう自分に言い聞かせながら、急坂を勢いに任せて降りて、佐和子は幹線道路沿いを走った。

 地面が平らになって、途端に走るのが苦しくなって立ち止まり、両膝に手をつく。

 汗の伝う額をハンカチで拭う。いくら働き始めて体力が戻ってきたとはいえ、激しい運動なんてしばらくぶりで、自分の肺が苦しそうに空気を求めて収縮を繰り返す。

「私、なんで手なんて握っちゃったんだろ。明日から、どうやって顔を合わせたらいいの……」

 息を吐きながら、キラキラと輝く星の海を見上げた。
 驚いた表情の永徳が、頭から離れない。

 ––––嫌じゃなかったかな。急に私に手なんか握られて。

 これまで永徳との間に、色っぽい雰囲気など微塵もなかったし、佐和子自身、尊敬はしていても恋情を抱いていると感じたことなんてなかった。しょっちゅう揶揄からかわれてはいたけれども、きっと向こうだって、佐和子を女性として意識なんかしていなかったはず。

 まとまらない思考をただ垂れ流し、息を整えている間に、ポケットのスマホが振動した。

 画面を見れば、山吹の文字。
 緑色の吹き出しが、途端に佐和子を現実へと引き戻す。

 メッセージの画面には「うちの会社に来ること、考えてくれた?」という一文が表示されていた。

 ––––転職……どうしよう。なんて返信するのが、正解なんだろう。

 やっと編集部員たちと打ち解けて、仕事も楽しくなってきた。まだまだあやかし瓦版で働いていたい気持ちもある。

 でも、人間がずっとあそこにいていいのだろうか。

 周りの人間たちが、人間の社会で着実に人生を歩んでいく中、自分だけが現実に置いていかれても苦しくはならないだろうか。

 あやかしの世界の仕事を選んで、人間の社会に復帰できなくなっても、自分は後悔しないだろうか。

 冷えてきた佐和子の頭は、自分の置かれている状況を、冷静に分析し始める。

 「嫁候補」はあやかしから佐和子の身を守るための建前。永徳が佐和子を編集部に引き入れたのは、亡くなってしまった自分の同僚を重ねていたから。「人間視点を活かして欲しい」とはいっていたが、あれももしかしたら、やる気を出させるための方便だったのかもしれない。

 ––––辞めようか、悩んでいますって言ったら、引き留めてもらえるのかな。

 スマホを握る指に、力がこもる。

 永徳が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたおかげもあって、仕事のやり方だけでなく、考え方まで、手取り足取り学ばせてもらうことができた。結果として、融通の効かない佐和子でも、短期間でそれなりに仕事ができるようになってきた。

 ––––まだまだ半人前だけど、あやかし瓦版の一員として、必要として貰えているなら。

 山吹に返信しようとして、指を止めた。
 やはりまだ、なんと返して良いかわからなかった。
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