蜂蜜色の苦い恋人

橘 志摩

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3.混乱と戸惑いと結果論

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 サラサラと髪の毛が揺れる感覚がする。
 それは本当に些細なもので、不快感も痛みも全くない。
 あるとすれば、身体の節々を襲う痛みの方だ。浮上した意識はその穏やかで優しい感覚に気がついたが、すぐに身体を覆う気だるさと痛みに気を取られた。

「…っ…い、痛い…」
「…ごめんね、陽菜さん。俺ちょっとやりすぎた?」

 聞こえた声に一瞬身体が強ばってしまった。
 怖い訳じゃない。気まずい気持ちからだ。
 結局のところ、戸惑いこそすれ、私はちゃんとした拒絶を示してない。だから、彼を責める権利はない。彼が気に病む必要もない。
 ただ、どんな顔をして、彼の表情をみればいいのか、わからない。

「…陽菜さん?」
「…だ、大丈夫、だから…」
「でも、身体、しんどいんでしょう? 仕事、休んだ方がいいよ」
「平気だってば、なんともないし、…仕事は有給取ってるから。…少し、ギシギシするだけ、休んでたら治る」

 視線を合わすことなく、枕に顔を埋めた。
 彼の腕が腰に回っているが、それには気がつかない振りをした。今更だ、あれほど散々抱かれたあと、その腕を拒否する理由が見つからない。
 はぁと小さな溜息をつくと、隣に寝転んでいたその人が起き上がる気配がして、ドキっと心臓が嫌な音を立てた。

「―――陽菜さん、俺、飯作ってくるよ。ゆっくり寝てて」
「…ぁ…っ」

 布団をめくられて、あらわになっただろう背中に、キスを一つ落とされる。
 ふるっと震えた身体を誤魔化したくても言うことを聞いてくれない。
 顔が熱くて、顔を上げることなく何度も頷くと、小さく笑う声とともに、ベッドから彼が降りていった。

 今日、仕事が休みでよかったと心の底から思う。
 2歳差しかないハズで、彼だってもう26だ。だがしかし、男性と女性では身体の作りが違うのか、元々の体力が違うのか。夜通し私の身体を求め続けていた彼の方はしんどそうな様子は全くなく、むしろ元気に見えるのは何故なんだろう。

 同じ会社員である事は変わらないハズなのに、業務内容が違うから、体力のつき方が違うんだろうか。
 彼は彼で、年柄年中出張に出ているような業務で、私は日がなオフィスでパソコンと向かい合ってる営業事務。

 考えて、そりゃそうだと、呆れた笑いが口からこぼれた。
 若さもそうだが、生活も違う。あれだけ求めても平然としている彼はすごいんだろう、きっと。

 若月青葉、今年で26歳。職業はシステムエンジニアを主とする会社員。何故出張が多いのかを以前聞いた時は、出張という名の出向なのだと言っていた。
 トラブル対応が仕事内容なのだという。

 体力的な意味でも精神的な意味でも大変な仕事なんだろうなとは思う。
 その癒しを求める理由もわからないではないけれど、何故それで私に白羽の矢が立ったのだろう。

 昨夜、抱かれている間、何度も何度も「好きだ」と告げられたのに、イマイチその言葉を信用できてない自分がいる。

「陽菜さん、嫌いなものとかないよね?」
「…うん」
「よかった。すぐできるから少し待ってて」

 甲斐甲斐しく私の世話をしたがるのは罪悪感からだろうか。
 漸く枕から顔を起こして、キッチンから顔をのぞかせた彼の背中をジッと見つめた。
 ドア越しに見えるその姿はどこか喜んでいて、後ろ姿だけでもそのことがわかる男の子の感情に苦笑が漏れる。

 一体どこまで本気なんだろう。
 そう考えてしまうのは自分が疑い深いからか、それとも、他人に心を預ける事を怖いと思っているからか。
 青葉君が信用の出来る男の子だって事はもう十分わかっているけれど、それとこれとはまた別の話だ。

 それに私は、彼から「付き合って」とも、「恋人になって」とも言われていない。
 言われていないのだから、考えなくてもいいだろうと、結局逃げを打った結論を出した。

 遅かれ早かれ、ちゃんと考えてちゃんとした結論を出さないといけないことは、重々承知している。

「陽菜さん、起きれる?」
「平気。…でも先になんか服貸して」
「あぁ、うん。ちょっと待って」

 そう言ってクローゼットを開ける彼を見つめて、溢れそうになった溜息を噛み殺した。
 そう、急がなくてもいいだろう。
 彼も何も言ってこない。とりあえず今日は、ご飯を食べて、家に帰って、ゆっくり寝たい。

 求められた分の反動は、確かに私の身体に蓄積されている。

 彼が差し出して来た大きなトレーナーとダボダボの短パンを履いて、テーブルの前に座ると、温かそうな湯気を立てているお味噌汁と卵焼き、おつけものが並べられていく。
 極めつけは炊きたてのような白いお米だった。

「…料理、できたんだね」
「一応。一人暮らし長いし、前、陽菜さんに言われたから」
「私に?」
「コンビニとかじゃなくて、ちゃんと自炊しなさいって。身体壊す元は減らしなさいって、陽菜さん、そう言って俺に手作りのお弁当、くれた」

 正面に座ればいいものを、何故か隣に腰をおろして、嬉しそうにそういった彼に、図らずも頬が熱くなった。
 確かにその記憶はあるが、そこまで嬉しそうにされることでもない。むしろ単なるお節介ババアにしか思えないような事なのに、そんな大事に思い出としてとって置かれてはこっちが恥ずかしい。

 ごまかすように、テーブルに置かれた水を一気に飲んで、視線をそらした。

「……陽菜さん、後悔、してる?」
「…後悔は、してない、けど…」

 ただ、まだ、混乱してる。
 どうしていいのかわからない。これから先の事を考えたくない。考えるのが怖い。だから放棄したい。それが本音だ。
 青葉君は苦笑して、箸を手に取った。

「いいよ、今すぐ答えなんか出さないでよ。俺もそれ、怖いから」
「…青葉君…」
「これから少しづつでいいんだ、少しづつ、さ。…俺の事、見てくれたらそれでいいから」

 どこか寂しげなのは、きっと気のせいじゃない。
 青葉君も、勇気を出して、私に手を出したということなんだろう。

 それに気がついて、口の中に苦い味が広がっていく。
 私は昨日、きちんと伝えたはずだ。身体から始まる関係に、本気にはならないと。
 だから、今ここで私の出す答えも、彼は理解してくれていてもいいはずだ。
 それなのに、なんで今後を期待するような事をいうのだろう。

 私は、考えたくないと思ってる。

 彼と、友人でなくなる事も、恋人になるかもしれない事も、考えたくないのだ。
 その理由も、彼は正しく知っている筈なのに。

「…それはいいけど。でも、無駄だと思うよ」
「…かもね」
「私は、きっと、青葉君とこれから先関係が変わることはないと思うし、それを望んでもない。出来る事ならひと晩限りの夢だって、そう思って欲しい」
「…陽菜さん…」
「混乱してるし、戸惑ってるけど。私が青葉君の気持ちを受け入れることはないよ。きっとね」

 きっと、傷ついた顔をしている。泣きそうな顔を見たくなくて、あえて視線を外したまま彼の用意してくれた朝ごはんに手をつけた。

「冷静になったら、余計ないと思う。青葉君が情けない男だなんて思ってないけど、「好きな男」でないことも確かだから」
「…チャンスは、くれないの?」
「チャンスなんてあったって、青葉君が傷つくだけだよ。友達でいた方がよくない?」

 胸が痛いのは、傷つけているという自覚があるからだ。
 口をつけて呑んだ味噌汁は本当に美味しかった。

 青葉君は「よくないよ」と小さな声で呟いた。



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