蜂蜜色の苦い恋人

橘 志摩

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10.想いと罪悪感と優しい心

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 ずるいと思うのに。
 卑怯だと思うのに。

 私の心は、間違いなく、青葉君の言葉に喜んでいて、それなのに、受け容れる気持ちを持てない自分を、酷くずるくて卑怯で、情けない女だと思った。

「………陽菜さん?」
「……そんなに、追い詰めないでよ……」
「…追い詰めてなんか、いないよ」

 ただ、陽菜さんにわかって欲しいだけだ。青葉君は、もう一度ぎゅうっと、少し苦しいくらいの力で抱き締めた。

「陽菜さんの事、幸せにしたい。俺と一緒にいて幸せだと思って欲しい。贅沢な望みかも知れないけど、陽菜さんに俺の事好きになって、一緒にいたいって、そう思って欲しいんだ」
「…………どうして、」
「……陽菜さん?」

 どうして、あいつと同じ事を言うの。
 どうして、あいつと同じ事を望むの。

 どうして、青葉君の言葉なのに、私はそれを受け入れられないの。
 私は青葉君になんて言って欲しいの。

 彼になにか返事を返すことも出来ず、ただ彼の腕に顔を埋めて、涙を止めようと深呼吸を繰り返す。

 彼を傷付けたくないと思う一方で、自分が傷つくのは構わないと思っているくせに、青葉君に裏切られた時、自分がどれほど傷付くかを想像して彼の心に身を委ねることが出来ない。

 悲しくて情けなくて、申し訳なかった。

「……ねぇ陽菜さん」
「……?」

 声を出したら震えてしまいそうで、微かに顔をあげることで答えた。
 彼はそれで気がついたらしい。
 私の耳元に唇を寄せて、ちゅっと、耳たぶにキスを落とした。

「……俺の為に泣かないでいいよ。自分の為に泣いて欲しい」
「…ど…どういう…意味…?」

 思わず訪ねた声は、案の定、頼りなく震えていたけれど、彼が気にした様子はない。
 微かに笑う吐息が耳にかかって、ゾクリとした何かが身体を震えさせた。

「陽菜さん、泣いてないんでしょう。そう言ってた。ずっと無気力なままで過ごしてたって。…ねぇ、ずっと、その嫌な記憶、自分ひとりで心に抱えたままなんでしょう? 俺にならその感情ぶつけていいよ、俺は、陽菜さんがその傷から開放されるんだったら、なんでも受け止めるから。だから、」

 陽菜さん、泣いてよ、自分の為に泣いてあげて。青葉君はそう言って、私の身体を正面から抱きなおすと、その厚い胸板に私の顔を押し付けた。
 頬に伝わる温もりと、優しく響く彼の心臓の音に、胸を締め付けられる。

 こみ上げてくる苦しさの正体がなんなのか、私にはすぐにわかった。
 身体を強く抱きしめてくれる腕に、安らぎを感じて、安心して、じわりと、再び目の淵にこみ上げた涙はこらえようと思う間もなく頬を伝う。

 彼の背に腕を回して、シャツをぎゅっと握り締めた。

「…も…もう、好きじゃない、の」
「……うん」
「…あんな、あんなやつ、好きなんかじゃない、今の私は、あいつの言葉になんか、もう惑わされないって、ちゃんと、わかってる、けど…っ」
「…うん」
「…でも、…でも、好きだったの、あの頃は、本当に、本当に好きだったの…!」

 こんな、感情の爆発を、青葉君に吐露するのは間違っている。
 わかってるのに、受け止めると言ってくれた彼の言葉に甘えてる。

 一度外した鋼の蓋は簡単には閉じてくれなくて、次から次へと溢れ出る。
 困らせたくない、幻滅されたくない、そう思えど、何より彼に、私がどう思ってたか、どれほど我慢していたか、聞いて欲しかった。


 ◇◇◇◇◇


 それは、会社の先輩で、大学を卒業したばかりのただの小娘に相手が務まるような人ではなかったと知るのは、もっとずっと大人になってからだ。
 この世には身分相応という言葉があるように、その人に恋をするには、私の経験値が足りなかった。

 そして、相手も悪かった。
 相性が悪かったんだろう、初心な私と、根っからの遊び人とでは、想った方が負けなのだと、その恋が終わった時に悟った。

 それでも、付き合っている間は幸せだと思っていたのだから救えない。

 あの頃の私は、彼に尽くすことと、彼のいうことをなんでも聞いていなければ嫌われてしまうという強迫観念のまま付き合っていた。

 よくある話だ、散々尽くすだけ尽くして、あっけなく捨てられた。
 ただそれだけの話。

 それだけの話が、私の心には酷く痛む傷を残した。

「―――あいつ、話しててもつまんねーしなぁ。ただなんでもいうこと聞くし、金よこせつったらすぐに出してくるから、付き合ってる意味はそれだけだな」
「お前酷すぎるだろそれ」

 笑い声を交えながらされる会話に、心のそこから嫌悪した。
 まだ社内で、誰に聞かれるともわからない喫煙室で、大声で交わるそのゲスイ会話。
 それが誰の話なのか、名前を聞かなくてもわかるほど。

 泣いてしまいそうになる心を抑えて、その場を離れたいと思うのに、固まってしまった足は動いてくれない。
 震える手で口を押さえた。
 そこに私がいることに気がついていない相手は、まだ会話を続けていた。

「でもなぁ、あの子可愛いじゃん。初心だし、教えがいありそう。色々と」
「教えるっつっても何しても従順に従うだけだからすぐに飽きるぜ。今なんか俺もうダッチワイフみたいなやつだって思ってるもん。いくら触ってもそこまで濡れねーし、痛がるのこらえてるだけだから、やってる最中顔見んのいやで、俺バックでしかやってねーもん、最近」
「お前本当酷い男だなー! それあの子のせいじゃなくてお前が下手くそだってこともあるんじゃねーの!」
「おいお前な、俺は下手くそじゃねぇよ、これでもあいつ以外の女は俺のゴッドフィンガーに夢中になるんだからな」
「それ古すぎだろ!」

 起こった爆笑に、何がそんなに楽しいのだろうと、ぼんやり思った。
 いつもは優しく、「好きだよ」と語ってくれる声も、「幸せにしたい」と笑いかけてくれる言葉も、すべてが嘘なのだと、そうわかるような会話なのに、まだ信じたいと望む自分がいる。

 だって、言ってくれたのだ、「陽菜の事、幸せにしたい。俺と一緒にいて幸せだと思って欲しい。贅沢な望みかも知れないけど、な」そうはにかむように笑って、そう言ってくれた。

「まぁ俺、部長の娘と見合いするし、それでおさらばだな。別れる時にはうまく言わないと面倒なことになりそう」
「あーそれな。うまく別れないと結婚までパァにされそうだもんなぁ」

 固まったと、動いてくれないと思っていた足は、そこまで聞いて漸く、動いてくれた。
 急いでそこから走って逃げて、何事もなかったようにフロアに戻る。
 だが、表面上笑みを浮かべられても、精神的にはボロボロだった。

 仕事は散々ミスをして、具合が悪いのかと心配されて、あげく、早退させられた。
 今は、一人になりたくないと望むのに、それすらも叶えられなくて、だけどあんな男の為に泣くのがいやで、ベッドに潜り込んで一晩中唇を噛んで耐えた。

 翌朝、唇は真っ赤に腫れていて、顔は寝不足で酷いことになっていたが、もうすべてがどうでもよくて、気を使うこともなく最低限の身支度だけをして出勤した。

 はっきりと別れると告げられればかっこよかったのだろうが、私はそこまで強くない。

 彼から声をかけられても曖昧に返して避けることしかできず、また届く連絡もすべて無視した。
 そんなことを繰り返し、だがその控えめな抵抗はすぐに気がつかれる。

 呼び出されて、断りきれず、その話し合いに応じたとき、その彼はとても怒っていた。

「―――どういうつもり?」
「…な…何が、ですか…」
「なんで俺のこと避けてんの? 付き合ってって言ってきたのそっちだろ? まさか別れたいとか思ってんの?」
「…っ…」
「…ふざけんなよ、なんで俺が、お前みたいな女にふられなきゃなんねぇんだよ。お前は俺に捨てられるのただ待ってりゃいいんだよ!」
「っいた…っ!」

 ここは会社の資料室で、業務フロアだって遠くにある訳じゃない。
 他の社員も来るような場所なのに、こんなことをされるとは思ってなかった。

 乱暴に壁に押し付けられて、振り上げられた手に、殴られると覚悟して歯を食いしばったとき、開いたドアに助けられた。

 あの時、あの社員がドアを開けてくれなかったらどうなっていただろうと思う。
 結局あの人はその一件で部長の娘さんとのお見合いもダメになり、会社は懲戒解雇になった。

 今はどこでどうしてるのか知らない。

 私は恨まれてもおかしくないだろうに、それ以来何もないのは、当時住んでいたアパートも引越して、携帯も変えたからだろうか。
 風の噂では、どこかでホストをしていると聞いた。

 私は、もう、あんなふうに傷つくだけなら、誰とも付き合わない。誰にも心なんか許さない。そう心に決めて、ただただ無気力に日々を過ごして、ただ流れる時間に身を任すだけ。
 もちろんだが、彼に貸していたお金は返ってこなかったし、社内ではあの事件の噂が、私に聞こえないように面白おかしく吹聴されていたのも知っていたが、もうどうでもよかった。

 そんな私を心配して、引越しをさせて、合コンに連れ出したのが奈美だ、だが親友の心すらも負担になっていたあの頃。

 よくある馬鹿な女が騙された話なのに、彼は、―――青葉君は、労わるように笑って「お疲れ様です」と、そう言ってくれた。






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