ポーカーフェイス

堂宮ツキ乃

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一章 ポーカーフェイスとパーフェクト人間

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 水色を基調とした制服。ジャケットとプリーツスカートにはネイビーブルーのラインが入っている。そして真っ白なワイシャツと赤いリボン。

 それらを身につけた彼女は、眠気を残した切れ長の目をこすった。

 鏡の前に立ち、短い黒髪を後ろでハーフアップにする。鏡の中の自分と目が合うと、赤茶色の瞳を伏せた。

 黙っていればそれなりにきれいな少女なのだが、彼女には重い欠点があった。

「おはよう、アルト」

「おはよ、ばぁちゃん」

 焼き立てのパンの香りをまとった祖母、律子りつこ。オレンジのエプロンとチェックのバンダナを頭に巻いている。

 笑顔で声をかけた祖母に対し、アルトは表情をピクリとも変えずに返す。

 そんな彼女の態度に祖母は気を悪くすることなく、目を細める。

「今日は早いんだね」

「うん、始業式だから」

 無表情のわりに、心を開いている優しい声。アルトは足元に置いたスクールバッグを持ち上げた。

「じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい、気をつけていくんだよ」

 麗音れいおんアルト。それが彼女の名前。今はパン屋を営む祖父母に引き取られ、一緒に暮らしている。

 アルトは幼い時に両親を惨殺され、笑うことも泣くこともなくなってしまった。

 そのせいで"ポーカーフェイス"と揶揄され、敬遠されがちだ。

 だが感情はいっぱいいっぱいで。常に何かを考えていた。

 今日は苦手な体育があって憂鬱とか、進路のこととか、苦手な同級生はどうしようとか。

 ────苦手な同級生。はなという、いつも笑顔を浮かべている少女。桃色の可愛らしい髪を持ち、アルトとは正反対な見た目をしている。

 よく一人でいるアルトに話しかけたり、班作りで余っている時に誘われたり。そんな華のことをアルトはうっとおしく感じていた。

 一人でいたいからそうしているだけ。班作りで余るくらいなら参加しなくてもいい。

 潔いというか独りよがりというか。そういう行動を担任から嗜められるが彼女に変わる気はなかった。

『四月から三年生だろ。中学生活最後の一年だ。友だちと思い出を作るラストチャンスだぞ?』

 その教師は叔母の同級生で、アルトのことを何かと気にかけていた。ちなみに二年連続で担任だったりする。担当科目は理科。

 今年の担任は誰だろうか。川添かわぞえは"俺は進路関係に強いから来年もお前たちの学年の担任になる可能性が高い"と言っていた。

 今日も当然のように一人で登校したアルトは、にぎやかな校門をスタスタと通り過ぎた。

 クラスの振り分け表が張り出された昇降口付近。そこには一喜一憂する新三年生たちで人だかりができている。

 自分の名前を探そうと群れに近づくと、アルトは肩を叩かれた。

「アルト、おはよう」

 振り向くと、アルトより身長の高い女子がニコニコしていた。その後ろにはこれまた負けじと長身の男子が歯を見せた。

 女子の方は長い茶髪を耳の上で高くむすんでいる。男子の方は短いストレートな黒髪で、太い黒縁メガネをかけていた。よく見ると彼らの髪はほんのり緑がかっている。

 アルトはしばし無言で対峙した後、首を曲げた。

「あ……誰」

「あたし! ハルヒ! 幼稚園の頃に一緒だったの覚えてない?」

「俺はミカゲ。この春に転入したんだ。久しぶりだな」

『あると! あーそぼ!!』

『ハルヒ、あるとはバスのじかんだっていってるだろ。またあしたにしろ』

『じゃああたしもバスでかえる!』

『オレたちはむかえがくるじゃん』

 思い出すのは幼稚園に通っていた頃。幼いながらも顔立ちがはっきりとしていて、かわいくてかっこいい同級生。二人は髪色も雰囲気も違うが、顔のパーツがいくつか似ている。

「双子の……」

「そうそう! 全く似てないけど双子の!」

 ハルヒは明るい笑顔になってアルトの手を握った。

「本当に久しぶり! 会いたかったんだよ……!」

「何も言えないままお別れだったからな」

 双子の姉の横でミカゲは肩をすくめているが、口角は上がっていた。

「そっか……そうだったね。私も会えて嬉しい」

「アルト……?」

「ちょっと……驚きすぎちゃったか?」

 声には喜びがにじんでいるが、彼女の表情はピクリとも動かない。

 十年ほど前はよく笑い、よく動き回る明るくて元気な女の子だった。そんな彼女がまるで────

「無表情なんだよ、そいつ。ポーカーフェイスってヤツ」

「え……?」

「転入生さんたち、話しかけるだけ無駄だよ」

 割り込んできたのは一人の男子。制服のネクタイを緩め、ジャケットの袖を捲り上げている彼はニヤニヤと卑しい笑顔を浮かべていた。

「アルトに再会を喜んでくれる友だちがいるなんて驚きだな~。いっつも一匹狼ぶってるもんな」

はじめ……」

 アルトの声が強ばる。不穏な様子にハルヒはだまったが、ミカゲは二人の前に出た。

「おい、肇って言ったか」

「なんだよ……」

 成長期の中学生男子のなかでも飛び抜けて長身のミカゲ。彼に凄まれ、肇は後ずさりながら肩を小さくした。

「俺らはアルトと親友だ。アルトのことを悪く言うヤツは許さん、何がポーカーフェイスだ」

「きっ、気持ち悪いだろ! 声に表情が伴ってないヤツなんて!」

 肇の強がった怒声に周りがざわつき始めた。こちらを見ながら声をひそめる。

 居心地が悪い。注目されていることが。アルトは頭を押さえるとうつむいた。

 いつもこうだ。肇か華が絡むとロクなことにならない。

「どうしたの!?」

 勇猛果敢にも群れをかき分けながら中心にやってきたのは、桃色の髪の少女。肩を覆う長さの髪を二つに結んでいる。走ってきたせいか肩を激しく上下させていた。

「肇、アルト……と、えっと……」

「華、また俺らアルトと同じクラスだぜ。今年こそはこのポーカーフェイスと関わらずに過ごせよ」

 状況を飲み込めていない華は、肇の言葉に悲しそうな顔をした。

 心の底からそう思っているような、悲哀に満ちた目で彼のことを見つめる。

「そんなこと言っちゃダメだよ」

「うっ……」

 今にも泣き出しそうなうるんだ瞳。肇は彼女の発するオーラにあてられたように狼狽えた。きまり悪そうに口をへの字にし、ジャケットの袖をそろそろと戻す。

 救世主のような女神の登場に周りは沸き立つ。この場にいる誰もが胸を撫で下ろした。

「お前はアルトに優しくしてんのに、コイツは無視するじゃん……どうせ今年もそうなるよ。華はそれでいいの?」

 言いたいことは言っておきたかったらしい。不貞腐れた子どものように怒っている声。肇は足元を睨んだ。

 華は微笑むと何度もうなずき、アルトに顔を向けた。

「いつかアルトと仲良くなれると思ってるの。時間がかかってるだけだよ、私は平気」

 "ね?"と華は天使の優しい笑顔を浮かべた。それだけで空気に花が咲いたような。新学期を迎えた彼らを祝うように咲き誇る桜さえ霞むほど。

 ギャラリーたちは尚も優しさに包まれて顔を綻ばせた。

「────は?」

 この場にいるすべてのものを凍らす冷たい氷の声。

 それどころか聞いた者の耳を引き裂き、色鮮やかに咲き乱れる花々を切り刻む刃のような鋭さを持ち合わせている。

 誰もが冷ややかな手で心臓をギュッと掴まれたような気がした。

 その声の正体はアルト。華が発する春の暖かさをかき消すように、真冬の凍てつく冷気を突き刺した。

 冷たい空気とは反対に、彼女の赤茶色の瞳が赤みを増す。

「誰がいつ頼んだ?」

「あ……ると……」

 何も言葉を発さずとも彼女の怒りと蔑みが伝わってくるのに、彼女の声で殺気がばら撒かれた。

「ミカゲ……」

「あぁ……」

 双子たちはこの数分の間で何度も冷や汗が噴き出してくるのを感じた。正直、ホラー物を見るよりこっちの方が恐ろしい。

 幼馴染のこんな姿は見たことがない。久しぶりの再会で笑うことのない彼女にも驚いたが、こんなにも冷酷に成長しているとは思わなかった。

 華は誰もが恐れているアルトに屈さず胸の前で手を組む。綺麗な瞳からは、花からこぼれた朝露のような涙が頬を伝い落ちた。

「アルト! ひとりぼっちはやっぱり寂しいよ! いつも悲しそうな顔をしているのはそのせいでしょう?」

「悲しい顔……? ポーカーフェイスがどうやって悲しむって言うの?」

「笑えないからこそ、だよ。笑えないのは悲しいからでしょう?」

 アルトは頬をさわった。何年も働かせていない表情筋。

 封印されているのだ、自分の表情は。もはや動かし方が分からない。

 幼い頃は無邪気に笑っていたなんて信じられない。祖父母がアルバムを見せてくれても、アルトは知らない誰かの思い出をのぞいているようにしか思えなかった。

 うつむいて黙ったままのアルトに、華は涙を拭いて笑いかけた。彼女に近づいて頬を包み込もうとしたら、片手で払い除けられた。

 パシン、と乾いた音が響く。静かに見守っていたギャラリーも思わず息を呑んだ。

 顔を上げたアルトは相変わらず無表情だが怒気をまとっている。風に吹かれた髪が、彼女が怒りで浮かせたのだとすら思った。

 その瞬間、小さくなっていた肇が拳を握ってアルトの前に立ちはだかった。

 怒りを込めた息を吐き、歯を剥き出しにしても彼女は動じない。いつもと変わらない顔で肇を見上げていた。

 気づくとアルトが地面に転がっていた。前髪が目元で乱れ、頬が赤くなっている。肇の拳はジンジンと鈍い痛みを持ち始めた。

「アルト!」

「アルト……てめっ、はじめぇ!!」

 アルトが殴られたことにより、大半の女子が悲鳴をあげて群れから離れ始めた。男子たちも声にならない声を上げ、一部は職員室へ駆け出した。

 ミカゲは肇の胸ぐらを掴み、ハルヒはアルトの身を起こすのを手伝った。

 悲鳴をあげてかたくなっていた華も手伝おうとしたが、その必要はなくなった。

「大丈夫……じゃなさそうだね」

 声変わりをした他の男子よりも高めの柔らかい声。頬を押さえるアルトのことを、声の主は軽々と持ち上げた。

 新たな登場人物にギャラリーは沸き立ったが、彼の一言によって静まった。

「ごめん、通してくれないかな」

「タイム……! どういうつもりだよ」

 ギャラリーが左右に分かれて道ができ、その前で彼は振り向いた。

 栗色の猫っ毛、綺麗な二重の瞳。丸目を優しく細めて腕の中のアルトを見つめる。

「人助け、かな」

「どう考えてもそいつは助ける価値ないだろ!」

「殴った人が言うこと?」

 顔は優しいが声に怒気がこもっている。肇が何も言わなさそうだと判断すると、華のことを見下ろした。

「華。きっとアルトも言いすぎた、って思ってるよ。ごめんね」

 申し訳なさそうにタイムは眉を落としたが、華は赤い目で首を振った。

「分かってる。アルトは本当は優しい女の子だって分かるの。痛くなんてないから平気だよ」

 華の微笑みにタイムは目を細め、うなずいた。





 双子はタイムとアルトの後を追っていた。

 タイムは校舎に入っていく生徒が多い中、彼らとは反対側に歩いていく。周りに不思議そうな視線を向けられても堂々と。

 そして校門にたどり着くと、ためらいなく門をくぐった。

「あのタイム? って人、出てってちゃうぞ!?」

「てかアルトとどういう関係!? イケメンのお姫様抱っこうらやましい……」

「お前は何を言ってんだ」

「君たち」

 二人が小声で言い合っていると、前から話しかけられた。ビクッとして顔を上げると、タイムがこちらを見ていた。

「アルトを家まで送るけど……一緒に来る?」

 返事はお互いに確認するまでもない。二人は校舎を背に駆け出した。





────アルト。一回家に帰ろうか。

────た、タイム!?

────ほっぺた腫れてるよ。

 アルトはタイムの腕の中で揺られながらドギマギしていた。

 何を隠そう、彼は初恋の相手なのだから。

 引っ越した先の保育園で出会った時から好きだった。同じ小学校に通い、中学校も同じで嬉しかったくらいだ。

 他の男子よりもかっこいいからとか、パーフェクト人間と呼ばれるほど誰よりも勉強やスポーツができるからとかではない。

 笑った顔と声に惹かれた。アルトにはない柔らかな笑顔。向けられるだけで、優しい日差しのもとでお昼寝をしているような幸福感に包まれる。

 柔らかく優しい声はくすぐったい。聞こえる距離が近ければ近いほど。ボリュームが小さければ小さいほど。

 どちらもふれるたびに鼓動が飛び跳ねるだけでなく、懐かしさと安心感を覚えた。

 彼からの"一人なら一緒に組む? 俺も余っちゃった"という、アルトが一人にならないように誘う言葉は嫌じゃなかった。

「いらっしゃ────アルト? タイム君?」

 控えめな鈴の音と共に開かれたドア。同時に焼きたてのパンの香りに包まれる。

 小さな店内には数種類の菓子パンと食パンが陳列されていた。

 外にたてかけられている木の看板には"ベーカリーREION"と書かれていた。

 ミカゲがドアを押さえると、タイムはアルトのことを立たせた。前に出ると律子に向かって会釈をする。

「すみません。アルトがケガをしてしまって。お家の方が近かったので連れてきました」

「まぁ大変……ありがとうね。大丈夫なの?」

 タイムは学校での騒動でのことは話さなかった。

 ミカゲとハルヒは初めて入った店を珍しそうに見回している。

「見ない顔ねぇ? アルトのことを送ってくれたの?」

 アルトの腫れた頬をじっくり見ていた律子は双子たちに笑いかけた。二人はタイムにならい、そろって頭をペコッと下げる。

「は、はい! はじめまして!」

「俺たち、春休みの間に引っ越してきたんです」

「二人は私が幼稚園に通っていた時の友だちなんだ」

「あら、そうなの! よかったわねぇ。これからもアルトのことをよろしくね」

 二人は顔を見合わせてはにかんだ。子どものような嬉しそうな顔はそっくりだ。 

 アルトはパン生地をこねている祖父、弦二郎げんじろうに見守られながら、律子に湿布を貼ってもらった。幸い痛みは引いていた。

 タオルに包んだ保冷剤を当て、アルトたちは二階のリビングへ上がった。





 リビングのソファに腰かけると、アルトは目の前の三人に頭を下げた。

「新学期早々、変なことに巻き込んでごめん……。二人は転校初日なのに……」

「びっくりはしたけど……アルトも色々あったんだろ」

 ミカゲの気遣う声にアルトは俯く。

 自分が優しくされるような立場ではない。あの場で明らかに悪者だったから。

 何も答えずにいると、ハルヒが明るい声を上げた。

「そんなことよりさ! アルトのお家ってパン屋さんなんだね! うらやましいなぁ」

「女の子はお店に憧れるわよね。よかったらそのパン屋のパン、食べてみない? 焼き立てよ」

「食べたーい!」

 律子がお盆にマグカップと、紙袋に入ったメロンパンをのせて現れた。ハルヒの反応に顔の皺を増やす。

 それぞれの前に置くと、お盆を胸に抱いて口を開いた。

「ウチはね、かつて刀鍛冶の一族だったそうなの。廃刀令によって刀を作るのをやめて生活用品専門になるんだけど、戦後にパン屋を始めて私たちが二代目なの」

「えー!? 廃刀令ってことは……明治時代から!?」

「アルトって実はお嬢様なのか……」

「違うわよぉ。今は普通のお家。土地も何も持ってないわよ」

 律子はそれだけ話すとお盆を持って立ち上がった。そろそろあんぱんが焼き上がるから、と厨房へ下りていった。

 その後ろ姿を見送ると、ミカゲがぽつりとつぶやく。

「おばあちゃん……早く学校に戻りなさいどころか、パンとココアくれたな」

「昔からそう。私が強制的に入らされた部活をサボっても何も言わなかったもん」

 アルトは頬の痛みが引いてきたのか、痛がる様子もなくメロンパンをかじった。
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