2 / 9
2
しおりを挟む
24歳の春。
コウは私立藍栄高校に就職した。それまでは公立で教鞭を取っていた。
先輩教員の勧めで来たこの学校は予想よりもはるかに大きい。防球ネットで囲われたグラウンドも広い。
彼はビジネスバッグの持ち手を握りしめると、校舎に向かって歩を進めた。
「コウちゃん」
「……えぇ?」
職員室で挨拶をし、コウがデスクで荷物を広げていたらニックネームをつけられた。
「おれは神崎。国語担当だ、よろしくな」
気だるげな表情とわずかに着崩されたスーツ。真正面のデスクに座る彼は口の端を上げた。ほとんどの教師がカッチリとしたスーツ姿の中、一人だけ異彩を放っている。
「これからお世話になります。えっと……神崎先生」
「タメでいいってタメで。24だろ、同い年なんだよ」
初めて見るタイプの教師だった。こんなにラフな人は前の学校にはいなかった。
コウと神崎は前の学校のことを話しながら、始業式が行われる講堂へ向かった。
「えっ……誰あれ!? 新しい先生!? 超イケメンじゃん!」
「ヤッバ担任に来ないかな……。せめて教科担任!」
「目の保養! 推せる……!」
道中、たくさんの女子生徒の視線がコウに集まってきた。ささやきあう声も聞こえる。
神崎の耳にも届いたのだろう。彼は片頬を上げると、コウをちらりと見やった。
「さすがだな。前の学校でもこんな感じだったのか?」
「あ~……。まぁ」
正直言うとこういうのは初めてではなかった。前の学校だけでなく大学でもそうだった。高校でも中学でも。
「彼女いるん?」
「今はいないよ」
「今は、か。まさかフラレたばっかじゃないだろうな? そういう教育実習生を見たことある」
「何その悲し過ぎる話……。違うからね。最後に彼女いたの大学生の時だから」
講堂の入口は大勢の生徒や教師が集まっているせいで大混雑している。おしゃべりしている生徒も多いので騒がしい。
その時だった。彼女の姿が目に留まったのは。
「お? 新入生か。今年もたくさんいるなー」
神崎の声は右から左。それ以外の声も音も耳に入ってこない。
コウの視線を釘付けにした彼女はおそらく新入生。顔を強張らせているのは、慣れない環境に身を置いたせいだろう。
長い茶髪に楚々とした顔立ち。細長い手足が目を引く。
今まで見たことないタイプの女子生徒だ。背伸びしてるわけではないのに大人っぽい雰囲気をまとっている。
制服でなかったら大学生に見えるだろう。コウは彼女から目を離せなくなっていた。
「コウちゃん? おーいコウちゃん。新参者は早くスタンバってくれってさ。聞こえてる? つーか聞いてる?」
「……ん?」
「どうしたんだよボーっとして。急に緊張してきた? とりあえず行くぞ」
神崎に促され、コウは彼女のことを尻目に講堂の別の出入口へ向かった。
視線を外す直前、彼女と目があった気がした。
残念ながらその年は彼女のクラス担任や教科担当になることはできなかった。廊下ですれ違うたびにこっそりと目で追うだけ。
「なぁコウちゃん」
「何?」
「恋してんだろ」
「ど……え、どしたの急に」
「とぼけたって無駄だからな。あんた最近、廊下に出ると誰かを探してる目をしてるぞ。まるで好きな人を探すような」
「神崎君!?」
授業後の準備室。壁には本棚、部屋の真ん中には机と椅子が設置されている。ここは資料集や副教材、黒板に提示して使う教材を保管する場所だ。
コウは神崎に資料探しの手伝いを頼まれたのだが、全く関係ない話を振られた。
神崎は分厚い資料集を机に置き、椅子を引いた。ニヤケが止まらない彼はアゴをなで、コウにも座るよう促した。
「で? どうなんだ? さ、吐け」
「簡単に言わないでよ。こっちにだって心の準備が……」
「つーことはビンゴだな?」
コウは思い切って全てを打ち明けると両手で顔を覆った。名前を知らない彼女への想いは初めて人に知られた。神崎とは打ち解けているが、気恥ずかしさが半端ではない。
「そーかそーか! コウちゃんの好きな人は一年の女子、っと。横髪を三つ編みにして後ろでまとめてる、つったら壱善さんだな」
「知ってるの!?」
彼の確信した顔に顔を輝かせると思い切り笑われた。
「おうよ。だって俺、壱善さんのクラスに現代文教えに行ってんもん。あのコめっちゃ頭いいぜ? 物覚えいいし真面目だ。ああいう生徒が非の打ちどころがない、って言うんだろうな」
彼女の成績が優秀、というのはコウがニ年目の年に目の当たりにした。
なんとその年に彼女のクラスの科学担当になれたのだ。職員室での教科担当発表の時、横で神崎に脇腹をつつかれた。
彼女のクラスで初めての授業の日。自分でもおかしいくらい浮足立っていた。しかし、いざ教室を目の前にするとやけに心臓が暴れていた。
その日は授業は行わず、クラスの全員の名前を読み上げて自己紹介をしてもらう時間にした。
「────壱善薫子さん」
「はい」
やっとだ。ようやく彼女の名前を口にすることができた。名簿で見つけて心臓が跳ね、読み上げた時は声が震えそうになった。
綺麗な名前は彼女の清らかな雰囲気によく似合っている。柔らかそうな茶髪、聡明な瞳は翡翠色。初めて目を合わせたその日以降、彼女以外の女性は心の隙間にすら入らなくなってしまった。
はじめの内はスタンダードに”壱善さん”と呼んでいた。このクラスに打ち解けただろうか、という頃から”薫子さん”に変えて。二年生の学年末テストを返却した時からは。
「おめでとカオちゃん。さすがだね」
「ありがとうございます……」
照れ顔の薫子。ほんのり顔が赤くなり、コウのことを上目遣いでチラッと見上げた。嫌ではないらしい。そのことに何よりもほっとした。
衝動的に抱きしめたくなる仕草とはきっとこのことだろう。コウはあふれだしそうなニヤケをかみ殺した。
「ちょっと先生、カオちゃんって何さカオちゃんって」
「アンさんは薫子さんのことをカオちゃんって呼んでるじゃん? だから先生もそうしたい。……変かな?」
首をかしげると薫子はますます赤くなった。
果たして次の年はどうなるのかと春までやきもきしていたが、三年目も薫子のクラスの科学を担当することになった。
その日の帰りは神崎と駅前で祝杯を上げた。
梅雨が終わって七月。どこの教室もエアコンが解禁になる時期だ。
「もう18時か……。コウちゃん、テストの採点終わったか?」
「今終わった所。そろそろ帰ろっかな」
「だな。俺はちょっくら飲み物でも買ってくるわ」
今年からデスクが隣になった神崎が赤ペンを放る。相変わらずゆるい着こなしで、学校の誰よりも早くクールビズを始めた。
彼は首の骨をゴキゴキと鳴らしながら職員室を出ていった。
期末テストが終わった藍栄高校。今日は三年生の校長面接の結果発表の日だ。
薫子がそれを受けた、と言うのは本人から聞いて知っていた。校長面接の練習をするべく、担任の元へ通っているのも何度も見かけた。
あれだけ練習していたし、普段の真面目さや成績の良さがあれば大丈夫だろう。そんな彼女は今回のテストも高得点。点数の横にexcellentと記しておいた。
「ただいま~。とりあえずコウちゃんは化学室に行って来いや!」
「なんで?」
「いーからいーから」
戻ってくるなり缶コーヒーをあおった神崎に職員室から連れ出された。
コウは背中を押されて化学室の引き戸を開けた。窓側の机に生徒が一人いる。正確には机に突っ伏して動かない。
背中に広がる茶髪と、後ろでまとめた細い三つ編み。この姿には見覚えがありすぎる。
薫子だ。
コウが勢いよく化学室の外に顔を向けると、神崎がニヤニヤしながら顎をしゃくった。彼女を起こしてやれ、というように。
コウが両手を合わせて深く礼をすると、彼は後ろ手をヒラヒラさせながら去った。
改めて薫子のことを見ると頬が濡れていた。涙の跡がくっきりと残っている。
泣くほど辛いことがあったのだろうか。起こした彼女の目は赤く、痛々しかった。
薫子が就職希望先を変更し、夏休みに入ったある日。
コウは薬品庫の掃除と整理に精を出していた。入念に埃を払ったりラベルを張り替えたり。
一息つこうと思った所で教室の引き戸が開いた。
”後で飲み物でも差し入れするわ”と言っていた神崎が来たかと思ったがハズレ。訪れたのは予想が外れて嬉しい相手だった。
「あれ? カオちゃんじゃん」
思わず顔が綻ぶ。彼女は軽く会釈をした。
夏休みと言えども三年生の生徒には関係ない。連日、職員室に訪れる三年生の姿を見かける。
彼らが向かうのは大抵担任の元。だからこうして薫子がわざわざ自分の所に来ると勘違いしそうになる。
コウが軽く首を傾げると、彼女は真面目な表情に嬉しさを混ぜて口を開いた。
「あぁ壱善さん? 彼女は優秀だね。担任の先生はもちろん、学年主任や他の先生もよく褒めてるよ」
コウは進路指導室に来ていた。ちょっとした用があり、緒方に会いに来たのだ。
彼は昔、今の姿からは考えられないほど激烈な先生だったらしい。
進路の話をしていると口調に力がこもって熱くなっていくところは昔の名残だろう。
「壱善さんのことを気にしてどうかした?」
「あ、いえ。教科担任として気になっただけです」
「そう? 彼女なら本番の試験も大丈夫。カルパッチョだね」
「カ……カルパッチョ?」
「軽いって意味だよ」
緒方は紅茶を片手に笑った。他の教師から"大先生"と呼ばれ、尊敬される人でもこんなことを言うのか。誰からも好かれるはずだ、とつられてほほえんだ。
彼は表情を変えずにカップを傾け、窓の外を眺めた。
「昔ねー、先生と恋に落ちて卒業後に即ゴールインした生徒がいたんだよ。先生と生徒のカップル、この学校は多いんだよね~。しかも全員、男の先生と女子生徒でさ。いつの時代もやっぱり女の子は年上が好きなのかな」
「あの……大先生。急に何の話ですか?」
「何ってそのままだよ。教え子と結婚して夫婦でここで働いている人もいるよ。他には……」
「じゃなくて! なんで今なんです……?」
コウが冷や汗をかいていると、緒方は一層笑みを濃くした。企みがあるように見えなくもない。
「恋をするのもいいけど、時期だけはちゃんと考えてねってこと」
(……まずい)
これは見抜かれているらしい。いつの間に? 神崎は調子は軽いが口は堅い。
さすがはベテラン教師、と言ったところだろうか。コウのような教師歴数年の若造の心中なんてお見通しらしい。
緒方は素知らぬ顔で紅茶のおかわりを淹れていた。
コウは私立藍栄高校に就職した。それまでは公立で教鞭を取っていた。
先輩教員の勧めで来たこの学校は予想よりもはるかに大きい。防球ネットで囲われたグラウンドも広い。
彼はビジネスバッグの持ち手を握りしめると、校舎に向かって歩を進めた。
「コウちゃん」
「……えぇ?」
職員室で挨拶をし、コウがデスクで荷物を広げていたらニックネームをつけられた。
「おれは神崎。国語担当だ、よろしくな」
気だるげな表情とわずかに着崩されたスーツ。真正面のデスクに座る彼は口の端を上げた。ほとんどの教師がカッチリとしたスーツ姿の中、一人だけ異彩を放っている。
「これからお世話になります。えっと……神崎先生」
「タメでいいってタメで。24だろ、同い年なんだよ」
初めて見るタイプの教師だった。こんなにラフな人は前の学校にはいなかった。
コウと神崎は前の学校のことを話しながら、始業式が行われる講堂へ向かった。
「えっ……誰あれ!? 新しい先生!? 超イケメンじゃん!」
「ヤッバ担任に来ないかな……。せめて教科担任!」
「目の保養! 推せる……!」
道中、たくさんの女子生徒の視線がコウに集まってきた。ささやきあう声も聞こえる。
神崎の耳にも届いたのだろう。彼は片頬を上げると、コウをちらりと見やった。
「さすがだな。前の学校でもこんな感じだったのか?」
「あ~……。まぁ」
正直言うとこういうのは初めてではなかった。前の学校だけでなく大学でもそうだった。高校でも中学でも。
「彼女いるん?」
「今はいないよ」
「今は、か。まさかフラレたばっかじゃないだろうな? そういう教育実習生を見たことある」
「何その悲し過ぎる話……。違うからね。最後に彼女いたの大学生の時だから」
講堂の入口は大勢の生徒や教師が集まっているせいで大混雑している。おしゃべりしている生徒も多いので騒がしい。
その時だった。彼女の姿が目に留まったのは。
「お? 新入生か。今年もたくさんいるなー」
神崎の声は右から左。それ以外の声も音も耳に入ってこない。
コウの視線を釘付けにした彼女はおそらく新入生。顔を強張らせているのは、慣れない環境に身を置いたせいだろう。
長い茶髪に楚々とした顔立ち。細長い手足が目を引く。
今まで見たことないタイプの女子生徒だ。背伸びしてるわけではないのに大人っぽい雰囲気をまとっている。
制服でなかったら大学生に見えるだろう。コウは彼女から目を離せなくなっていた。
「コウちゃん? おーいコウちゃん。新参者は早くスタンバってくれってさ。聞こえてる? つーか聞いてる?」
「……ん?」
「どうしたんだよボーっとして。急に緊張してきた? とりあえず行くぞ」
神崎に促され、コウは彼女のことを尻目に講堂の別の出入口へ向かった。
視線を外す直前、彼女と目があった気がした。
残念ながらその年は彼女のクラス担任や教科担当になることはできなかった。廊下ですれ違うたびにこっそりと目で追うだけ。
「なぁコウちゃん」
「何?」
「恋してんだろ」
「ど……え、どしたの急に」
「とぼけたって無駄だからな。あんた最近、廊下に出ると誰かを探してる目をしてるぞ。まるで好きな人を探すような」
「神崎君!?」
授業後の準備室。壁には本棚、部屋の真ん中には机と椅子が設置されている。ここは資料集や副教材、黒板に提示して使う教材を保管する場所だ。
コウは神崎に資料探しの手伝いを頼まれたのだが、全く関係ない話を振られた。
神崎は分厚い資料集を机に置き、椅子を引いた。ニヤケが止まらない彼はアゴをなで、コウにも座るよう促した。
「で? どうなんだ? さ、吐け」
「簡単に言わないでよ。こっちにだって心の準備が……」
「つーことはビンゴだな?」
コウは思い切って全てを打ち明けると両手で顔を覆った。名前を知らない彼女への想いは初めて人に知られた。神崎とは打ち解けているが、気恥ずかしさが半端ではない。
「そーかそーか! コウちゃんの好きな人は一年の女子、っと。横髪を三つ編みにして後ろでまとめてる、つったら壱善さんだな」
「知ってるの!?」
彼の確信した顔に顔を輝かせると思い切り笑われた。
「おうよ。だって俺、壱善さんのクラスに現代文教えに行ってんもん。あのコめっちゃ頭いいぜ? 物覚えいいし真面目だ。ああいう生徒が非の打ちどころがない、って言うんだろうな」
彼女の成績が優秀、というのはコウがニ年目の年に目の当たりにした。
なんとその年に彼女のクラスの科学担当になれたのだ。職員室での教科担当発表の時、横で神崎に脇腹をつつかれた。
彼女のクラスで初めての授業の日。自分でもおかしいくらい浮足立っていた。しかし、いざ教室を目の前にするとやけに心臓が暴れていた。
その日は授業は行わず、クラスの全員の名前を読み上げて自己紹介をしてもらう時間にした。
「────壱善薫子さん」
「はい」
やっとだ。ようやく彼女の名前を口にすることができた。名簿で見つけて心臓が跳ね、読み上げた時は声が震えそうになった。
綺麗な名前は彼女の清らかな雰囲気によく似合っている。柔らかそうな茶髪、聡明な瞳は翡翠色。初めて目を合わせたその日以降、彼女以外の女性は心の隙間にすら入らなくなってしまった。
はじめの内はスタンダードに”壱善さん”と呼んでいた。このクラスに打ち解けただろうか、という頃から”薫子さん”に変えて。二年生の学年末テストを返却した時からは。
「おめでとカオちゃん。さすがだね」
「ありがとうございます……」
照れ顔の薫子。ほんのり顔が赤くなり、コウのことを上目遣いでチラッと見上げた。嫌ではないらしい。そのことに何よりもほっとした。
衝動的に抱きしめたくなる仕草とはきっとこのことだろう。コウはあふれだしそうなニヤケをかみ殺した。
「ちょっと先生、カオちゃんって何さカオちゃんって」
「アンさんは薫子さんのことをカオちゃんって呼んでるじゃん? だから先生もそうしたい。……変かな?」
首をかしげると薫子はますます赤くなった。
果たして次の年はどうなるのかと春までやきもきしていたが、三年目も薫子のクラスの科学を担当することになった。
その日の帰りは神崎と駅前で祝杯を上げた。
梅雨が終わって七月。どこの教室もエアコンが解禁になる時期だ。
「もう18時か……。コウちゃん、テストの採点終わったか?」
「今終わった所。そろそろ帰ろっかな」
「だな。俺はちょっくら飲み物でも買ってくるわ」
今年からデスクが隣になった神崎が赤ペンを放る。相変わらずゆるい着こなしで、学校の誰よりも早くクールビズを始めた。
彼は首の骨をゴキゴキと鳴らしながら職員室を出ていった。
期末テストが終わった藍栄高校。今日は三年生の校長面接の結果発表の日だ。
薫子がそれを受けた、と言うのは本人から聞いて知っていた。校長面接の練習をするべく、担任の元へ通っているのも何度も見かけた。
あれだけ練習していたし、普段の真面目さや成績の良さがあれば大丈夫だろう。そんな彼女は今回のテストも高得点。点数の横にexcellentと記しておいた。
「ただいま~。とりあえずコウちゃんは化学室に行って来いや!」
「なんで?」
「いーからいーから」
戻ってくるなり缶コーヒーをあおった神崎に職員室から連れ出された。
コウは背中を押されて化学室の引き戸を開けた。窓側の机に生徒が一人いる。正確には机に突っ伏して動かない。
背中に広がる茶髪と、後ろでまとめた細い三つ編み。この姿には見覚えがありすぎる。
薫子だ。
コウが勢いよく化学室の外に顔を向けると、神崎がニヤニヤしながら顎をしゃくった。彼女を起こしてやれ、というように。
コウが両手を合わせて深く礼をすると、彼は後ろ手をヒラヒラさせながら去った。
改めて薫子のことを見ると頬が濡れていた。涙の跡がくっきりと残っている。
泣くほど辛いことがあったのだろうか。起こした彼女の目は赤く、痛々しかった。
薫子が就職希望先を変更し、夏休みに入ったある日。
コウは薬品庫の掃除と整理に精を出していた。入念に埃を払ったりラベルを張り替えたり。
一息つこうと思った所で教室の引き戸が開いた。
”後で飲み物でも差し入れするわ”と言っていた神崎が来たかと思ったがハズレ。訪れたのは予想が外れて嬉しい相手だった。
「あれ? カオちゃんじゃん」
思わず顔が綻ぶ。彼女は軽く会釈をした。
夏休みと言えども三年生の生徒には関係ない。連日、職員室に訪れる三年生の姿を見かける。
彼らが向かうのは大抵担任の元。だからこうして薫子がわざわざ自分の所に来ると勘違いしそうになる。
コウが軽く首を傾げると、彼女は真面目な表情に嬉しさを混ぜて口を開いた。
「あぁ壱善さん? 彼女は優秀だね。担任の先生はもちろん、学年主任や他の先生もよく褒めてるよ」
コウは進路指導室に来ていた。ちょっとした用があり、緒方に会いに来たのだ。
彼は昔、今の姿からは考えられないほど激烈な先生だったらしい。
進路の話をしていると口調に力がこもって熱くなっていくところは昔の名残だろう。
「壱善さんのことを気にしてどうかした?」
「あ、いえ。教科担任として気になっただけです」
「そう? 彼女なら本番の試験も大丈夫。カルパッチョだね」
「カ……カルパッチョ?」
「軽いって意味だよ」
緒方は紅茶を片手に笑った。他の教師から"大先生"と呼ばれ、尊敬される人でもこんなことを言うのか。誰からも好かれるはずだ、とつられてほほえんだ。
彼は表情を変えずにカップを傾け、窓の外を眺めた。
「昔ねー、先生と恋に落ちて卒業後に即ゴールインした生徒がいたんだよ。先生と生徒のカップル、この学校は多いんだよね~。しかも全員、男の先生と女子生徒でさ。いつの時代もやっぱり女の子は年上が好きなのかな」
「あの……大先生。急に何の話ですか?」
「何ってそのままだよ。教え子と結婚して夫婦でここで働いている人もいるよ。他には……」
「じゃなくて! なんで今なんです……?」
コウが冷や汗をかいていると、緒方は一層笑みを濃くした。企みがあるように見えなくもない。
「恋をするのもいいけど、時期だけはちゃんと考えてねってこと」
(……まずい)
これは見抜かれているらしい。いつの間に? 神崎は調子は軽いが口は堅い。
さすがはベテラン教師、と言ったところだろうか。コウのような教師歴数年の若造の心中なんてお見通しらしい。
緒方は素知らぬ顔で紅茶のおかわりを淹れていた。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
迷子を助けたら生徒会長の婚約者兼女の子のパパになったけど別れたはずの彼女もなぜか近づいてくる
九戸政景
恋愛
新年に初詣に来た父川冬矢は、迷子になっていた頼母木茉莉を助け、従姉妹の田母神真夏と知り合う。その後、真夏と再会した冬矢は真夏の婚約者兼茉莉の父親になってほしいと頼まれる。
※こちらは、カクヨムやエブリスタでも公開している作品です。
【完結】婚約者なんて眼中にありません
らんか
恋愛
あー、気が抜ける。
婚約者とのお茶会なのにときめかない……
私は若いお子様には興味ないんだってば。
やだ、あの騎士団長様、素敵! 確か、お子さんはもう成人してるし、奥様が亡くなってからずっと、独り身だったような?
大人の哀愁が滲み出ているわぁ。
それに強くて守ってもらえそう。
男はやっぱり包容力よね!
私も守ってもらいたいわぁ!
これは、そんな事を考えているおじ様好きの婚約者と、その婚約者を何とか振り向かせたい王子が奮闘する物語……
短めのお話です。
サクッと、読み終えてしまえます。
帰国した王子の受難
ユウキ
恋愛
庶子である第二王子は、立場や情勢やら諸々を鑑みて早々に隣国へと無期限遊学に出た。そうして年月が経ち、そろそろ兄(第一王子)が立太子する頃かと、感慨深く想っていた頃に突然届いた帰還命令。
取り急ぎ舞い戻った祖国で見たのは、修羅場であった。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写と他もすべて架空です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる