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 雪華と美晴に雅史と一緒に帰ったことを伝えたら、2人は安堵した笑みを浮かべた。ように、電話越しで感じた。百合にとって気心が割と知れたバツイチのおじさんより、察することが苦手で頼りないけど少しずつ変わろうとしている婚約者の元にいる方が安心するらしい。

 久しぶりに愛の巣へ帰ってくるとひどく懐かしく、置いて行った荷物たちに申し訳なさすら感じた。自分は本当に何もかも投げ出すつもりで出て行ったのだと、自分のしたことを反省した。

 台所にはコンビニの袋がいくつか転がっていた。弁当の残骸だろう。百合はそれらを片付けて掃除機をかけ、お風呂場やトイレの掃除を始めた。

 流産のことをやたら気にかけている雅史が途中で変わってくれた。これも最初のうちだけではないかと疑ってしまう自分が嫌だった。

 こんなに気を遣ってもらえるようになって、雅史の”個”を殺しているのではないかと怖かった。

 だが、それも含めて全てを雅史に話すことができるようになり、家出するほど思いつめることはなくなった。以前と比べて分かり合えることが増えたと思う。

 それでも時々、この時柏木さんだったら…と、未だに考えてしまっている。雅史に対する裏切りのようでその度に後ろめたい。



「百合。いつもありがとね」

「ううん。いいの」

 晩御飯を2人で囲み、百合は首を振った。柏木の家へ家出した日から早4年が経とうとしている。

 バイトは一度辞めた。こちらに来たばかりで慣れぬうちに始めたから、それもストレスになっていたのではないかと思って。その代わり、百合は家事をしっかりこなしつつ趣味であるイラストを描くことに専念するようになっていた。

 雪華の家には今でもたまに遊びに行く。最近では花梨もすっかり大きくなり、言葉を話すようになっていた。

 そんな百合と雅史は子どもをのぞまなくなった。正直言うと百合は元々子どもがほしいと思っていたわけではない。無責任なことをしてきた人間だから…と、お腹にいた子と、それを教えてくれた女の子に心の中で謝った。

 雅史は残念そうにしていたが、百合がそう言うならと彼女の意見を尊重した。以前だったらあれこれ理由をつけて百合をその気にさせようとしていただろう。

 双方の親から孫はまだかと催促されたがはっきり拒否した。

 予想はしていたが、子どもは欲しくないと言っただけで罵倒に近いことを言われた。

 人として通るべき道だとか、なんのために結婚したのか、親不幸者、将来自分が年老いた時はどうするのか、子どもも産まないで一人前になれるわけがない、魂が成長しないだとか。

 百合は片眉を上げ、目をしかめてあごをわずかに持ち上げた。

「人として通る道だぁ~? そんなもん知らん。私は雅史と一緒にいたいから結婚した。子どもがそんなにほしいならどうぞご自分でお産みになって? 将来、私が雅史の面倒見るつもりだし…てかそもそも介護の道具のために産んだ子どもなんてそれこそかわいそうじゃん」

 百合は双方の親の前でかみつくように反論した。もちろん雅史の家ではもう少し丁重に吐いてきた。

「人として一人前になるためとか魂の成長とか、私はそんな次元で生きておりませんので。死ぬほど痛い思いしてお金を余計に掛ける価値があることには思えません。私は自分の好きなように雅史さんと生きます」

 しだいに何も言われなくなった。百合の言葉に1つ2つ言えば必ずと言っていいほど論破される。しかもいつの間にか妙に納得してしまう。

 雅史は百合の隣で親たちの反応にヒヤヒヤしながら、彼女の勢いに気圧されていた。一体いつからこんな強い女になってしまったのか。彼が自ら百合に加勢できるようになるまで時間がかかったが彼女は頼もしく感じ、雅史の成長に喜んだ。



 寝る前に百合はイラストのカラーを仕上げていることが多い。

 雅史と入籍して生活費の折半のやり方を変え、百合は本格的に働きだすようになった。そのお金でペンタブレットを購入し、デジタルでイラストを描き始めた。

 最近では学生時代や前の会社、今の職場や雅史や友だちとの間にあったおもしろいことを漫画にしてSNSに上げている。じわじわとバズってきているのでいつかはこちらを本業にしたいと画策していた。

 今は雅史の前で柏木の話題を口にすることは無い。むしろ話してはいけない暗黙の禁句にしつつあった。当時の不仲を思い出して雰囲気が崩れそうだったから。

 そんな変な気を遣うのは夫婦ぽくないな、と柏木に鼻で笑われる気がした。
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