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本編
第96話 欠けた心の在りか
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床に座るアゼリアと繋いだ手が、わずかに震えた。膝をついた姿勢のイヴリースの黒髪がさらりと流れ、顔を覆い隠す。自由な左手の爪が、ぎりりと床を抉った。
激痛に意識が集中しないよう、イヴリースは必死に柔らかな右手の温もりを気遣う。痛みに惑わされて力を込めれば、婚約者の美しい手指を傷つける。爪を立てないよう握った小麦色に焼けた肌の感触に縋り、必死で己を戒めた。
同時に浮かんだのは醜い本音だ。一生消えない傷をつけたら、どれだけ満たされるだろう。他者に見せない場所、それはドレスに覆われる胸や足……髪で隠れる項でもいい。自分だけが触れる場所に、醜く引き攣れた傷を刻みたかった。
誰もが褒め称える美しい魔王妃の、魔王しか見れない場所に残された傷痕――治癒も及ばぬ深い痕跡を刻んだなら。
刻印のように所有の証明を残せば、獣の本性は満たされる。それでも傷を見るたび、胸が締め付けられるように痛むはずだ。美しい彼女に傷の痛みと醜い痕をつけた己を恨むだろう。後悔する未来を知っていながら望む、自分の独占欲と支配欲にぞっとした。
痛みに耐える今だけ、優しく握るアゼリアの手を離せばいいと分かっていた。その僅かでも離れたくない。相反する感情に混乱しながら、長い痛みと苦しみを味わい続ける。これらの思考が痛みによる混乱なのか、本当の自分の醜さなのか。答えを知りながら、痛みのせいにして逃げた。
最強の魔族と呼ばれても、本性など獣以下だ。魔王位に固執する者は魔王になれぬ――そう言われる所以がここにある。
「イヴリース」
頑張れ、もうやめよう……どちらの言葉も相応しくない。アゼリアは名を呼ぶ声にすべてを込めた。何をしてもいい、誰を傷つけても構わない。だから戻ってきて。
のろのろと顔を上げたイヴリースの黒曜石の瞳が、蜂蜜色の柔らかな眼差しと交わった。互いの想いを探すように視線は逸らされない。ふわりと痛みが和らいだ。その瞬間にイヴリースは悟った。
魔王位に固執する者は魔王になれぬ。確かにそうだろう。魔王位に固執するだけ自我や感情が残っていれば、それは満ちた者だ。何かに飢えていようと全き姿をもつ者だった。魔王になる者は半身しかない。魔力も体力も完璧に近い形を有するのに、中身は欠けていた。
互いを補うのが恋愛だと口にする者もいるが、ある意味当たりだ。正確には生まれつき足りないピースを与える者こそ、魔王の番だった。番を見つけられなかった魔王はいない。見つけ出して己を完成させなければ、魔王ではなかった。
満たされる感情や心が、アゼリアに向かう。受け止めるように微笑むが、心配そうに寄せられた眉や引き結んだ口元のせいで「泣きそうだ」と思った。早く安心させてやらなくては……。
爪が鋭い左手の指を内側に折り込み、指背でアゼリアの頬を撫ぜる。こんなに愛しい存在がいるなら、失えば狂うのも無理はない。理解できなかった前魔王の感情が、ようやく重なった。こうして代々の魔王はその地位を継承し続けたのだ。
「愛し、ている……」
その響きに、アゼリアは大きな瞳を見開く。緩められた唇が「私も」と動いたのをみて、意識が失われた。
激痛に意識が集中しないよう、イヴリースは必死に柔らかな右手の温もりを気遣う。痛みに惑わされて力を込めれば、婚約者の美しい手指を傷つける。爪を立てないよう握った小麦色に焼けた肌の感触に縋り、必死で己を戒めた。
同時に浮かんだのは醜い本音だ。一生消えない傷をつけたら、どれだけ満たされるだろう。他者に見せない場所、それはドレスに覆われる胸や足……髪で隠れる項でもいい。自分だけが触れる場所に、醜く引き攣れた傷を刻みたかった。
誰もが褒め称える美しい魔王妃の、魔王しか見れない場所に残された傷痕――治癒も及ばぬ深い痕跡を刻んだなら。
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痛みに耐える今だけ、優しく握るアゼリアの手を離せばいいと分かっていた。その僅かでも離れたくない。相反する感情に混乱しながら、長い痛みと苦しみを味わい続ける。これらの思考が痛みによる混乱なのか、本当の自分の醜さなのか。答えを知りながら、痛みのせいにして逃げた。
最強の魔族と呼ばれても、本性など獣以下だ。魔王位に固執する者は魔王になれぬ――そう言われる所以がここにある。
「イヴリース」
頑張れ、もうやめよう……どちらの言葉も相応しくない。アゼリアは名を呼ぶ声にすべてを込めた。何をしてもいい、誰を傷つけても構わない。だから戻ってきて。
のろのろと顔を上げたイヴリースの黒曜石の瞳が、蜂蜜色の柔らかな眼差しと交わった。互いの想いを探すように視線は逸らされない。ふわりと痛みが和らいだ。その瞬間にイヴリースは悟った。
魔王位に固執する者は魔王になれぬ。確かにそうだろう。魔王位に固執するだけ自我や感情が残っていれば、それは満ちた者だ。何かに飢えていようと全き姿をもつ者だった。魔王になる者は半身しかない。魔力も体力も完璧に近い形を有するのに、中身は欠けていた。
互いを補うのが恋愛だと口にする者もいるが、ある意味当たりだ。正確には生まれつき足りないピースを与える者こそ、魔王の番だった。番を見つけられなかった魔王はいない。見つけ出して己を完成させなければ、魔王ではなかった。
満たされる感情や心が、アゼリアに向かう。受け止めるように微笑むが、心配そうに寄せられた眉や引き結んだ口元のせいで「泣きそうだ」と思った。早く安心させてやらなくては……。
爪が鋭い左手の指を内側に折り込み、指背でアゼリアの頬を撫ぜる。こんなに愛しい存在がいるなら、失えば狂うのも無理はない。理解できなかった前魔王の感情が、ようやく重なった。こうして代々の魔王はその地位を継承し続けたのだ。
「愛し、ている……」
その響きに、アゼリアは大きな瞳を見開く。緩められた唇が「私も」と動いたのをみて、意識が失われた。
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