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下野国、那須野ヶ原。
すすきの揺れる野の道を、ひとりの旅の僧が歩く。
僧が、つと空を見ると、高い空を雁の群れが渡っていく。
ところが。
ある地点までいくと、雁は、まるで命を無くしたようにバタバタと落下していく。
何事かと思ったその時、
「もし、旅の方。あそこへ近づいてはいけませんよ」
と、継ぎの目立つ百姓の身なりをした、若い娘に呼び止められる。
何故かと問うと、
「あのあたりの山には、昔、ここらを荒らし回った悪い狐の霊がとり憑いているのです」
娘は、こう続けた。
――二百年ほど前。
この近くの村で魚や鳥がまったく捕れなくなったなったことがあった。
山に入り木の実を探そうにも、なぜか全て腐り、食べるものがまったくない。
村の者が困り果てていたある日。
村の入り口に見知らぬ美しい娘がふらりと現れる。
余所者に敏感な村人たちは、娘を警戒したが、娘の差し出す食べ物は喉から手が出るほど欲しかった。
娘はこれを差し出す代わりに、村においてほしいと頼み、村長はうなずく。
やがて、娘は村の若者と添う。
しかし、その若者は直ぐに死んでしまう。
死に顔は、毒にやられたようなひどい顔をしていた。
娘はすぐに新しい男の元に嫁いだが、その男もまたすぐに死んでしまう。
そんなことがいくらも続き、村人たちは青くなった。
―――あの娘はひょっとすると、ものの怪の類なんじゃないか。
誰かが言い出せば、他の者もうなずく。みな、娘のことを恐れていた。
村の者だけで寄り集まって、口々に娘の不自然な点を話す。
すると、ひとりの年寄りが口を開き、
「昔、五十年ほど前。隣国の領主が娘に化けて城に入りこんだ狐のあやかしを退治したという話を聞いたことがある。その時、朝廷の偉い術者から、鏡を借り受けたとか」
なら、その鏡、借りられないだろうか、とある者が言い出した。最初に亡くなった若者の弟だった。
「おら、見たんだ。あいつは人間じゃねえ。化けもんだ。見たんだ。ほんとだ」
何を見た、と腰の曲がった村長が聞けば、河原に映った娘の姿だという。
それは人間の姿ではなく、九つの尾を楽しげに揺らす、大きな狐の姿だった。
ひぇっ、と誰かが息を漏らす。
皆、一様に村長を見た。
「鏡は、借りられん。無理だ。うちの御領主様は、今、その隣国の領主と領土争いをしとる」
皆、うつむく。
この村には、働き盛りの男がいない。村は女子供、年寄りばかりで、男はいるにはいるが、みんな戦で手や足を無くして帰ってきた者たちばかりだ。
弟は、歯ぎしりした。
「そんかわり。おめえには弓の腕がある。ただの矢じゃだめだ。山一つ越えたとこにある武人様の祠へ行って、力ば授けてもらえ」
うん、と力強くうなずくと、弟は弓と矢をつかみ村を飛び出した。
···················
その祠は、山の中腹にあった。
日は暮れかかり、少年は肩で息をしながら、石でできた祠に弓と矢を供える。
「武人様、武人様。おらに、兄さの仇、とらせてくれ」
一心に祈る少年の頭上で、突如として稲光が走り、風が起こる。次の瞬間、カッと稲妻が落ち、火の手が上がった。
わっと、少年は尻もちをつき、ごうごうと燃える祠に呆然とする。
やがて、ぱらぱらと雨が降りだし、次第に炎は治まっていった。
「夢でも見たんか…」
祠はもう燃えていない。なに食わぬ顔で鎮座し、燃えたと思った弓矢も無事だった。
少年は矢を手にし、
「武人様が、力さ授けてくれたんだ…、これで、あいつを――」
その時。
木々の暗がりの中から、死んだはずの兄の姿が現れた。
「あにさ!?」
弟は、仰天して弓の方を取りそこなう。
「――悲しいことは、やめてくれ。それを使って、お前はわたしの妻を殺めようというのかい」
弟は、ぐっと詰まり、情けない声で、
「…ちがう」
と、うなだれた。
大人しくなった弟に、兄は「わかってくれたか」とニコニコと右足を引きずりながら近づき、頭を撫でる。その瞳の奥に残忍な光を宿して。
「村のみんなは元気か」
「ああ…」
「わたしの妻は、元気でやっているかい」
「もう新しい男さ嫁いだ」
「それは仕方ない。あの人は美人だ。こんな役立たずなわたしのところへ嫁いできてくれた。それで十分だ」
戦で足を悪くして帰ってきた兄は、自分のことを役立たずだという。そんなことはないと言ってきたのだが。
ふと、ちらちらとした視線を感じる。
「それはもう、いらないだろう」
弟は初めて、矢を握ったままだったことに気がついた。
「捨てなさい」
兄の真剣な顔に、弟は怖じ気がたつ。
ぱっと後ろ背に隠すと、兄は不機嫌な顔になった。
「捨てなさい」
「いやだ」
「捨てろ」
「いやだ!」
脚が震える。
これは本当に兄だろうか。
どんどん、どんどん、目つきがきつくなる。
顔が白さを増していく。もう辺りは真っ暗闇なのに。
「今すぐ。それを、捨てろ」
兄さはこんなしゃべり方だったろうか。
――しん。見ろ、太え魚ば捕ってきたぞ。
はじかれたように、しんはその手を逃れ、弓をつかんだ。
矢先を向け、
「ちがう。お前は、お前は兄さじゃない。兄さは…っ、兄さは死んだ。お前が殺した。そうだろう!?」
兄はぴくりと眉を動かし、それならと、大きく口を開け、ぎらぎらとした目で弟の身体を舐めまわす。
そして、女の声で、
「もう少し成長してから食らおうと思ったが――仕方ない」
と、目を細めた。
その口からは牙がのぞき、頬からは金の毛が生え、両の耳が頭まで上る。
獣の頭で、にぃ…っと、笑う兄だったものに、しんはたまらず矢を放った。
矢は狐の腹のあたりに命中し、狐は、
「あっ…」
と、ぐらりと身体を揺らしたが、すぐに不敵に笑い、右手で矢をつかむ。
ところが。
――抜けない。
「はっ…」
と、息を吐くと口から血を流し、全身から毒の気を放つ。鳥や獣の命を奪い、木の芽を腐らしていたのは、この狐の毒だったのだ。今もあたりの草木が次々と枯れていく。
「おのれ…、小癪な」
狐はうめき、苦しみ、濡れた身体を振る獣のしぐさで身を捩る。しかし、矢は刺さったまま、一声哭くと、頭からどうっ、と倒れ、息絶えた。
はっはっ、と、しんは浅い息を繰り返し、腕を下ろす。
耳鳴りがする。
――背後で、ごとん、と石の祠が崩れた。
すすきの揺れる野の道を、ひとりの旅の僧が歩く。
僧が、つと空を見ると、高い空を雁の群れが渡っていく。
ところが。
ある地点までいくと、雁は、まるで命を無くしたようにバタバタと落下していく。
何事かと思ったその時、
「もし、旅の方。あそこへ近づいてはいけませんよ」
と、継ぎの目立つ百姓の身なりをした、若い娘に呼び止められる。
何故かと問うと、
「あのあたりの山には、昔、ここらを荒らし回った悪い狐の霊がとり憑いているのです」
娘は、こう続けた。
――二百年ほど前。
この近くの村で魚や鳥がまったく捕れなくなったなったことがあった。
山に入り木の実を探そうにも、なぜか全て腐り、食べるものがまったくない。
村の者が困り果てていたある日。
村の入り口に見知らぬ美しい娘がふらりと現れる。
余所者に敏感な村人たちは、娘を警戒したが、娘の差し出す食べ物は喉から手が出るほど欲しかった。
娘はこれを差し出す代わりに、村においてほしいと頼み、村長はうなずく。
やがて、娘は村の若者と添う。
しかし、その若者は直ぐに死んでしまう。
死に顔は、毒にやられたようなひどい顔をしていた。
娘はすぐに新しい男の元に嫁いだが、その男もまたすぐに死んでしまう。
そんなことがいくらも続き、村人たちは青くなった。
―――あの娘はひょっとすると、ものの怪の類なんじゃないか。
誰かが言い出せば、他の者もうなずく。みな、娘のことを恐れていた。
村の者だけで寄り集まって、口々に娘の不自然な点を話す。
すると、ひとりの年寄りが口を開き、
「昔、五十年ほど前。隣国の領主が娘に化けて城に入りこんだ狐のあやかしを退治したという話を聞いたことがある。その時、朝廷の偉い術者から、鏡を借り受けたとか」
なら、その鏡、借りられないだろうか、とある者が言い出した。最初に亡くなった若者の弟だった。
「おら、見たんだ。あいつは人間じゃねえ。化けもんだ。見たんだ。ほんとだ」
何を見た、と腰の曲がった村長が聞けば、河原に映った娘の姿だという。
それは人間の姿ではなく、九つの尾を楽しげに揺らす、大きな狐の姿だった。
ひぇっ、と誰かが息を漏らす。
皆、一様に村長を見た。
「鏡は、借りられん。無理だ。うちの御領主様は、今、その隣国の領主と領土争いをしとる」
皆、うつむく。
この村には、働き盛りの男がいない。村は女子供、年寄りばかりで、男はいるにはいるが、みんな戦で手や足を無くして帰ってきた者たちばかりだ。
弟は、歯ぎしりした。
「そんかわり。おめえには弓の腕がある。ただの矢じゃだめだ。山一つ越えたとこにある武人様の祠へ行って、力ば授けてもらえ」
うん、と力強くうなずくと、弟は弓と矢をつかみ村を飛び出した。
···················
その祠は、山の中腹にあった。
日は暮れかかり、少年は肩で息をしながら、石でできた祠に弓と矢を供える。
「武人様、武人様。おらに、兄さの仇、とらせてくれ」
一心に祈る少年の頭上で、突如として稲光が走り、風が起こる。次の瞬間、カッと稲妻が落ち、火の手が上がった。
わっと、少年は尻もちをつき、ごうごうと燃える祠に呆然とする。
やがて、ぱらぱらと雨が降りだし、次第に炎は治まっていった。
「夢でも見たんか…」
祠はもう燃えていない。なに食わぬ顔で鎮座し、燃えたと思った弓矢も無事だった。
少年は矢を手にし、
「武人様が、力さ授けてくれたんだ…、これで、あいつを――」
その時。
木々の暗がりの中から、死んだはずの兄の姿が現れた。
「あにさ!?」
弟は、仰天して弓の方を取りそこなう。
「――悲しいことは、やめてくれ。それを使って、お前はわたしの妻を殺めようというのかい」
弟は、ぐっと詰まり、情けない声で、
「…ちがう」
と、うなだれた。
大人しくなった弟に、兄は「わかってくれたか」とニコニコと右足を引きずりながら近づき、頭を撫でる。その瞳の奥に残忍な光を宿して。
「村のみんなは元気か」
「ああ…」
「わたしの妻は、元気でやっているかい」
「もう新しい男さ嫁いだ」
「それは仕方ない。あの人は美人だ。こんな役立たずなわたしのところへ嫁いできてくれた。それで十分だ」
戦で足を悪くして帰ってきた兄は、自分のことを役立たずだという。そんなことはないと言ってきたのだが。
ふと、ちらちらとした視線を感じる。
「それはもう、いらないだろう」
弟は初めて、矢を握ったままだったことに気がついた。
「捨てなさい」
兄の真剣な顔に、弟は怖じ気がたつ。
ぱっと後ろ背に隠すと、兄は不機嫌な顔になった。
「捨てなさい」
「いやだ」
「捨てろ」
「いやだ!」
脚が震える。
これは本当に兄だろうか。
どんどん、どんどん、目つきがきつくなる。
顔が白さを増していく。もう辺りは真っ暗闇なのに。
「今すぐ。それを、捨てろ」
兄さはこんなしゃべり方だったろうか。
――しん。見ろ、太え魚ば捕ってきたぞ。
はじかれたように、しんはその手を逃れ、弓をつかんだ。
矢先を向け、
「ちがう。お前は、お前は兄さじゃない。兄さは…っ、兄さは死んだ。お前が殺した。そうだろう!?」
兄はぴくりと眉を動かし、それならと、大きく口を開け、ぎらぎらとした目で弟の身体を舐めまわす。
そして、女の声で、
「もう少し成長してから食らおうと思ったが――仕方ない」
と、目を細めた。
その口からは牙がのぞき、頬からは金の毛が生え、両の耳が頭まで上る。
獣の頭で、にぃ…っと、笑う兄だったものに、しんはたまらず矢を放った。
矢は狐の腹のあたりに命中し、狐は、
「あっ…」
と、ぐらりと身体を揺らしたが、すぐに不敵に笑い、右手で矢をつかむ。
ところが。
――抜けない。
「はっ…」
と、息を吐くと口から血を流し、全身から毒の気を放つ。鳥や獣の命を奪い、木の芽を腐らしていたのは、この狐の毒だったのだ。今もあたりの草木が次々と枯れていく。
「おのれ…、小癪な」
狐はうめき、苦しみ、濡れた身体を振る獣のしぐさで身を捩る。しかし、矢は刺さったまま、一声哭くと、頭からどうっ、と倒れ、息絶えた。
はっはっ、と、しんは浅い息を繰り返し、腕を下ろす。
耳鳴りがする。
――背後で、ごとん、と石の祠が崩れた。
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