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ウォルツタント帝国は、美しき女神の希望そのものだった。
それは誰も知らない歴史であり、事実であり、口伝による曖昧さであったり。
ただ、その傍らに片時も離れず付き従う美貌の騎士の存在は、何故か秘されたまま───。
【1】
いつからだったのか。
物心ついた時には、彼はアシュリーの近くにいた。
鮮やかな金の髪は柔らかそうで、端整で中性的な面差しの穏やかな青年だった。彼はアシュリーが独りの時に気づけば傍にいて、色々な話をする。
この国の様々なことを、想像もできないほど世界は広いことを、そして神の国のことを。
アシュリーにとってそれは時には寝物語のようであり、必要な知識であり、信仰であった。
飽きさせないようにと様々な話法で語られるそのひと時が、アシュリーにとっては宝物のようだった。神々しいまでの美しい笑みはどこまでも優しく、柔らかな眼差しを細めてアシュリーの髪を愛し気に撫でるそれが、その時間の終わりの合図だった。
ただの一度も、「行かないで」と駄々をこねたことはなく。
アシュリーにとってそれは一日が終わる感覚で受け止めていた。
普通の子供のような感情を表に出すことを知らないアシュリーでも、”寂しい”ということを伝えたら最後、二度と会えないのではという恐怖もあった。
アシュリーが唯一、『ママ』以外に心を揺らしてくれた人だったから。
「今日も来てくれたのね、『アイアス』」
「勿論だよ。私は君の守護者だからね」
簡素なベッドに横になったまま見上げるアシュリーに、白皙の美青年は穏やかに微笑む。
その眸の奥には慈しみの他に僅かばかりの剣呑な光が浮かんでいるが、アシュリーは見て見ぬふりをしていつものようにベッド脇の簡素な椅子に腰を掛ける。
節だってはいるけれど、男性にしては繊細な指がさらりと幼子の額の髪を掬って。
「…ねぇ、君は辛くはないのかい?子供らしい感情さえ諦めてしまったような君を見守るのはそろそろ辛いのだけれど?」
「そうね…辛くはないわ。あのね、私には貴方とママがいてくれればそれでいいの。その他はどうでもいいの」
齢十歳とは思えぬ感情を伺わせぬ、大人びた囁きだった。
柔らかく髪を梳く心地よさに引き込まれるように、微睡みかけたアシュリーは愛らしい小声でしかしはっきりと口にした言葉は痛々しいほどに心の洞を表していた。
「愛情なんて無駄なもの、期待するだけ無駄だもの」
諦念でも自嘲でもない、淡々とした呟きを残してアシュリーは眠りの中へと落ちていった。
浮き上がるように、浮き上がる意識。
ふと目を開けると、見慣れた古びた天蓋が目に入る。
「アシュリー様、お目覚めですか?」
優しくかけられる声で、一日が始まったことを知る。
「ママ、おはよう」
「おはようございます。よく眠れましたか?」
カーテンを開けながら微笑むメイアはアシュリーの乳母だ。古いが広いこの屋敷には二人だけで、他の侍女もシェフもおらず、乳母が用意してくれるのが常だった。本当の父母の顔など一度も見たことはない。けれど、それもどうでもよかった。血の繋がりなどなくとも、身の回りの面倒を看てくれる彼女が注いでくれる深い愛情だけで満たされ、心から母親だと慕っていたから。
寝台から降り、身支度を整えた後、彼女はいつものように鏡の前でアシュリーの髪を丁寧に櫛で梳かす。そして、毎日同じことを言う。
「アシュリー様の御髪は本当にお美しいです。私の自慢の姫ですわ」
おっとりとした口調で夢見るように語る彼女の言葉を、毎度不思議に思った。最初こそ否定していたけれど、彼女がそういうのならそうなのだろうと思うようになった。
腰近くまで流された銀に近いブロンドは緩やかにウェーブを描き、稚い顔は白磁のように白く、髪と同色の長い睫に縁どられた眸は聡明さを湛えた大きな眸は光の加減でルビーのようで、小さな唇は仄かに色づいて淡い桃色だ。しかし、その表情は感情のすべてを削げ落としたように動くことは滅多にない。数年前に誕生日だから、と贈ってくれた人形のように。
「…そうかしら。わたくしにはよく判らないけれど」
「御髪だけではございません、お姿も聖堂で見守ってくださるアロライナ女神様によく似ておいでで」
ああ、確かにそうかもしれないと納得する。
このアストレイ帝国はアロライナ神の恩恵によって建国されたとされ、三百年経っても皇室を始め国民の隅々まで女神信仰が根付いている国だった。いつでも祈りを捧げられるように、どれほど貧しい貧民のあばら家にも女神像が祀られているほどだ。
アシュリーが彼女の言葉に納得したのは容姿ではなく、女神像の動くことのない表情についてだ。像なのだから表情があったらそれは奇跡なのだろうが、アシュリーには石造りに緻密に彫刻された女神の双眸が虚ろに見えた。唯一、それが親近感を感じさせる。
「ママが言うように女神様に似ていると言ったら、きっと罰をくだされるわ。わたくしは女神さまのように何の力もなければ、わたくしを大事に思ってくれる人以外に何の興味もないわ」
淡々と零された言葉に、彼女はひどく悲し気に微笑む。
「アシュリー様…このメイアが命に代えても必ずお守りいたします」
「大丈夫よ。私は今のままで充分なの。いつかはママのように何でもできるようになって適当に生きていけるわ」
小さな苦笑を浮かべ、アシュリーは窓の外に視線を投げる。
───嗚呼、嫌になるほど陽光が差す木々の緑はどこまでも鮮やかだった。
それは誰も知らない歴史であり、事実であり、口伝による曖昧さであったり。
ただ、その傍らに片時も離れず付き従う美貌の騎士の存在は、何故か秘されたまま───。
【1】
いつからだったのか。
物心ついた時には、彼はアシュリーの近くにいた。
鮮やかな金の髪は柔らかそうで、端整で中性的な面差しの穏やかな青年だった。彼はアシュリーが独りの時に気づけば傍にいて、色々な話をする。
この国の様々なことを、想像もできないほど世界は広いことを、そして神の国のことを。
アシュリーにとってそれは時には寝物語のようであり、必要な知識であり、信仰であった。
飽きさせないようにと様々な話法で語られるそのひと時が、アシュリーにとっては宝物のようだった。神々しいまでの美しい笑みはどこまでも優しく、柔らかな眼差しを細めてアシュリーの髪を愛し気に撫でるそれが、その時間の終わりの合図だった。
ただの一度も、「行かないで」と駄々をこねたことはなく。
アシュリーにとってそれは一日が終わる感覚で受け止めていた。
普通の子供のような感情を表に出すことを知らないアシュリーでも、”寂しい”ということを伝えたら最後、二度と会えないのではという恐怖もあった。
アシュリーが唯一、『ママ』以外に心を揺らしてくれた人だったから。
「今日も来てくれたのね、『アイアス』」
「勿論だよ。私は君の守護者だからね」
簡素なベッドに横になったまま見上げるアシュリーに、白皙の美青年は穏やかに微笑む。
その眸の奥には慈しみの他に僅かばかりの剣呑な光が浮かんでいるが、アシュリーは見て見ぬふりをしていつものようにベッド脇の簡素な椅子に腰を掛ける。
節だってはいるけれど、男性にしては繊細な指がさらりと幼子の額の髪を掬って。
「…ねぇ、君は辛くはないのかい?子供らしい感情さえ諦めてしまったような君を見守るのはそろそろ辛いのだけれど?」
「そうね…辛くはないわ。あのね、私には貴方とママがいてくれればそれでいいの。その他はどうでもいいの」
齢十歳とは思えぬ感情を伺わせぬ、大人びた囁きだった。
柔らかく髪を梳く心地よさに引き込まれるように、微睡みかけたアシュリーは愛らしい小声でしかしはっきりと口にした言葉は痛々しいほどに心の洞を表していた。
「愛情なんて無駄なもの、期待するだけ無駄だもの」
諦念でも自嘲でもない、淡々とした呟きを残してアシュリーは眠りの中へと落ちていった。
浮き上がるように、浮き上がる意識。
ふと目を開けると、見慣れた古びた天蓋が目に入る。
「アシュリー様、お目覚めですか?」
優しくかけられる声で、一日が始まったことを知る。
「ママ、おはよう」
「おはようございます。よく眠れましたか?」
カーテンを開けながら微笑むメイアはアシュリーの乳母だ。古いが広いこの屋敷には二人だけで、他の侍女もシェフもおらず、乳母が用意してくれるのが常だった。本当の父母の顔など一度も見たことはない。けれど、それもどうでもよかった。血の繋がりなどなくとも、身の回りの面倒を看てくれる彼女が注いでくれる深い愛情だけで満たされ、心から母親だと慕っていたから。
寝台から降り、身支度を整えた後、彼女はいつものように鏡の前でアシュリーの髪を丁寧に櫛で梳かす。そして、毎日同じことを言う。
「アシュリー様の御髪は本当にお美しいです。私の自慢の姫ですわ」
おっとりとした口調で夢見るように語る彼女の言葉を、毎度不思議に思った。最初こそ否定していたけれど、彼女がそういうのならそうなのだろうと思うようになった。
腰近くまで流された銀に近いブロンドは緩やかにウェーブを描き、稚い顔は白磁のように白く、髪と同色の長い睫に縁どられた眸は聡明さを湛えた大きな眸は光の加減でルビーのようで、小さな唇は仄かに色づいて淡い桃色だ。しかし、その表情は感情のすべてを削げ落としたように動くことは滅多にない。数年前に誕生日だから、と贈ってくれた人形のように。
「…そうかしら。わたくしにはよく判らないけれど」
「御髪だけではございません、お姿も聖堂で見守ってくださるアロライナ女神様によく似ておいでで」
ああ、確かにそうかもしれないと納得する。
このアストレイ帝国はアロライナ神の恩恵によって建国されたとされ、三百年経っても皇室を始め国民の隅々まで女神信仰が根付いている国だった。いつでも祈りを捧げられるように、どれほど貧しい貧民のあばら家にも女神像が祀られているほどだ。
アシュリーが彼女の言葉に納得したのは容姿ではなく、女神像の動くことのない表情についてだ。像なのだから表情があったらそれは奇跡なのだろうが、アシュリーには石造りに緻密に彫刻された女神の双眸が虚ろに見えた。唯一、それが親近感を感じさせる。
「ママが言うように女神様に似ていると言ったら、きっと罰をくだされるわ。わたくしは女神さまのように何の力もなければ、わたくしを大事に思ってくれる人以外に何の興味もないわ」
淡々と零された言葉に、彼女はひどく悲し気に微笑む。
「アシュリー様…このメイアが命に代えても必ずお守りいたします」
「大丈夫よ。私は今のままで充分なの。いつかはママのように何でもできるようになって適当に生きていけるわ」
小さな苦笑を浮かべ、アシュリーは窓の外に視線を投げる。
───嗚呼、嫌になるほど陽光が差す木々の緑はどこまでも鮮やかだった。
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