Gerbera

文字の大きさ
上 下
3 / 9

3

しおりを挟む
 ユウと会った3週間後、久しぶりにヒールと外でご飯を食べることになった。
 最初はイタリアンのお店でゆっくりとディナーを楽しむつもりでいたのだが、止めた。たまたま立ち寄った本屋で見た雑誌に載っていた天婦羅の写真があまりにも美味しそうだったため、急遽予定を変更して天婦羅を食べに行くことにしたのだ。
 予約までしていたイタリアンをキャンセルさせてしまうほど、その写真の天婦羅は美しかった。きつね色でふわふわの衣から突き出る金赤の尾、ししとうに茄子にレンコン、キスもこんがりといい色をしていた。私たちはほんの一瞬で心を奪われてしまったのだ。
「うーん、やっぱりこの辺に天婦羅屋なんてないなぁ……」
 ヒールが携帯で近隣のお店を検索したが、なかなかお目当の天婦羅が見つからない。
「天婦羅屋なんてそもそもそんなに見ないもんな。それか天婦羅を置いてそうな居酒屋にでも入ってそこで食べる?」
「それもちょっとなぁ……」
「うーん、確かにちょっと違うよな」
 私も検索してみるが見つからない。まるで世界中から天婦羅屋が一斉に消えてしまったかのように、検索画面はウンともスンとも言わないのだ。
 もはや私たちは意地になっていた。しかし、しばらく探してみたがやっぱり見つからない。
「よし、それじゃ自分たちで作ろうか! 材料を買って私の家で天婦羅を揚げよう」
「おおっ! 良い案やな! そうしようか。楽しそうや」
 かくして私たちの天婦羅作りが始まった。スーパーに行って足早に材料を仕入れる。
 急な予約変更で時間が遅くなってしまったため、私たちは急いでいた。スーパーの中では最短距離で天婦羅の材料だけをカゴに入れ、それ以外のものには目もくれなかった。肉付きのいいフランクフルトも姿を現し始めたシャンメリー達も、私たちの足を止めることはできなかった。
 ぎっしりと食材が入ったスーパーの袋はヒールが持ってくれた。

「さて、始めようか」
 私は家に着くとすぐにシャツの袖をまくり、手を洗って料理をする体制に入った。
 油を火にかけ、一度キッチンを離れる。天婦羅なんてあまり作ったことがないので、仕事部屋の本棚から何年かぶりに料理本を引っ張り出し作り方を確認する。その間、ヒールはキッチンで食材を切っていた。
 私は手順通りに天婦羅衣を作った。薄力粉にマヨネーズ、水。水は冷たい方がいいと聞いたので氷水を使った。
「よし、ヒール! 食材かして!」
「おし」
 私はヒールが切った材料を受け取り、さっと衣を絡ませて温度の上がった油に入れた。彼らはさっと鍋の中を泳ぎ、パチパチと音を立ててさっきまで在ったそれぞれの食材としての自我を捨て、美しい天婦羅へと姿を変えていった。
 私は雑誌で見た衣の色を意識して、じっと鍋の中を見張る。そしてほどなく「今だ」というタイミングが来た。
 油で揚がった天婦羅たちを取り上げ、クッキングペーパーを敷いた大皿の上に盛り付けた。私たちは迅速、かつ丁寧にこの作業を繰り返した。2人とも一心不乱に作業をしていたため、気づいた時には天婦羅を盛り付けた大皿はすでに3枚目に突入していた。
「よし、もう十分やろ。ヒール、冷蔵庫からお酒出してきて」
「了解!」
 私は天婦羅でいっぱいの大皿をソファの間にある机へ移動させ、スーパーで買ってきた天つゆをあり合わせのとんすいへ注いだ。
 せっかくだから塩でも食べたいな、と思った時に昨年仕事の関係でもらった塩の詰め合わせが仕事部屋に置いてあったことを思い出した。
 私は仕事柄か、いろいろな人にいろいろなものをいただく。ありがたいことだ。すぐに仕事部屋へ探しに行ったが、思っていた場所にそれはなかった。おかしいなー、と思い部屋を見回すと本棚の隅に小さなアルミ缶が文庫本の下敷きになって置いてあるのを見つけた。
 これだ。もらって以来、一度も使っていないのでいつの間にかこんな隅っこまで移動させられていたのか。手に取って蓋を開けると数種類の塩が綺麗な容器に入れられて並んでいた。その中の1つにちゃんと天婦羅塩もあった。よしよし、これで準備は万端だ。
 天婦羅塩を持ってリビングに戻るとスーパードライの缶とキンキンに凍ったビールジョッキが2つ、天婦羅の大皿の横に並べてあった。いつの間にかビールジョッキを冷凍庫に入れていたのか。ヒールにしてはファインプレーだ。
「どう? 完璧やろ?」
 ヒールは得意気だった。
「うん、完璧! さっ、揚げたてのうちに食べようか」
 私たちは凍ったビールジョッキにスーパードライを注いで乾杯をした。そしてそれを合図に楽に4人前はあるであろう天婦羅の山を端から順に食べていった。見栄えは雑誌で見た天婦羅と比べると少し劣るが、衣の食感といい、揚げ具合といい、文句の付けようがないくらい美味しかった。
「美味しいね」
 私は満足していた。
「うん、美味しい。そこいらの天婦羅屋で食べるよりずっと美味いわ」
 そう言ってヒールは海老の天婦羅を尻尾までバリバリと食べてしまった。ヒールがあんまりがっついて食べるので、
「そんなに急いで食べんでも、こんなにいっぱいあるんやし誰も取らんで」と私は笑った。
 すると奴は「天婦羅屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったかのようにかぶりつくようにして食べろって言うやろ」なんて言う。
「あっ、それは読んだことある」
「おっ、キクと読んだ本が合致するなんて珍しいな! これはなんかいいことがありそうやな」なんて言って奴は上機嫌だ。私も楽しかった。スーパードライはもう3本目だ。少しずつ酔いが回ってきたようだった。

「マツとユウのこと、あんた知ってたん?」
 少ししてから私はこの話題を出した。2人ともだいぶ食べたが、天婦羅の大皿はまだまるまる1皿分残っている。
「うん、誰か忘れたけど先輩から聞いた。3ヶ月くらい前かなー、結婚するんやろ?」
 ヒールはスーパードライを4本飲んだ後、日本酒を熱燗で飲んでいた。
「そうやで。びっくりしたわ。あんた、付き合ってたことは前から知ってたん?」
「うん、知ってた」
「なんや、知ってたんならもっと早く言うてくれればええのに」と私はちょっと不機嫌な顔。
「いやー、なんかな。言いにくくてな。まぁそのうち本人の口から聞くかなって思ってた」
 言いにくい?
 それってどういう意味なんやろ? 私はついつい深読みしてしまう。
 ユウはいたって普通の人と付き合っていた。彼女の恋は夢の真ん中を歩いていくような真っ直ぐな恋だった。
 片や私の恋には夢も希望もなく先行きすら見えない。あるのは生暖かいその場しのぎの温もりだけだ。
 そんな私に幸せな同級生の話はやはり「言いにくいこと」なのだろうか。同級生の幸せを素直に祝福できないほど惨めな女に今の私は見えているのだろうか。
「キクとユウさん、仲良いの知ってたから。そういうことは直接聞いた方がいいかなって思っててん。別に内緒にしてた訳ちゃうよ」
 私が少し黙ってしまったため、ヒールが口を挟む。奴なりに私が考えていたことを察したのだろうか。
「うん」
「結婚式、多分俺も呼ばれると思う。大学の時、マツさんにはだいぶお世話になった」
 マツは私2二つ下だから、ヒールの2つ上なのだ。
「そうやったんや。ほなもしかしたら結婚式で顔を合わせるかもな。そんなん初めてやな」
「なんや照れ臭い。しれーっと、キク先輩、て声かけるわ」
 ヒールが笑う。冗談のつもりなのだろう。でも私は上手く笑えなかった。ちょっとだけ寂しかったのだ。美味しい天婦羅を食べてたくさんお酒も飲んでいるのに、寂しかった。


 2合目の熱燗を飲んだあと、ヒールはそのままソファで眠ってしまった。
 奴は話しながら少しずつうとうとしていき、一瞬目を外した隙にコテンと眠ってしまった。まるで赤ちゃんのようだ。ヒールの奥さんはきっと大変だろう。もう2歳になる息子さんと幾つになっても子供のままのお父さん、その両方のお世話を1人でするなんて、考えただけでゾッとする。しかも奴は内緒で私みたいな恋人まで作っているのだ。私だったら殺してやりたい。
 私は残った天婦羅を冷蔵庫にしまい、グレープフルーツジュースをコップに入れた。キッチンでは油や調理器具たちが天婦羅を作ったそのままの状態で置かれていたが、今は片付ける気にならなかった。明日まで残してしまったら更に最悪な事態になることを頭では分かっていても、身体は現実逃避をしていた。
 ソファに座り、グレープフルーツジュースを飲む。向かいのソファを見るとヒールが幸せそうな顔をして眠っていた。私は奴の寝顔にそっと言う。
 「ヒール、私はあんたの全てが欲しい。そんな事を考え始めたのはいつからやろう? もしかすると12年前、一番最初に大会で会った時からかもな。なんだか照れ臭いけど、あんたの事考えてる時間が日毎に増えてきてる気がするわ。そしてそれが叶わない事だということも、同じくらいの時間私はずっと考えてる」
 私はグレープフルーツジュースを机に置いてソファの上で膝を抱えた。
「あんたには分からんかもやけど、それはけっこうしんどいことなんよ。春になっても咲かない桜の下で、たった1人で花見の席取りをしているような感じかな。自分でも全部分かってるんよ」
 私はいったい何をしているのだろう? 何をそんなに頑張っているのだろう? もっと楽な生き方や恋が他にはたくさんあるはずなのに何故それを選ばずに惨めでぼろぼろになって生きているのだろう?
 私だって弱いのだ。自分で選んだ道だ。悔いはない。だけどたまには立ち止まってしまうこともある。私だって怖いのだ。
 時々思う。もしもこの地球がずっとずっと小さな世界だったら、遠くの地平線の上に私自身の後ろ姿を見ることができるのだろうか。鏡や写真に写ったものではなく、本物の後ろ姿。その背中はいったいどのように見えるのだろうか。
 油の匂いが部屋にこもるのは嫌だったので幾つかの部屋の窓を開けて換気をした。外の風は冷たく、私は上着を羽織り、眠っているヒールには毛布を1枚かけてやった。ガーベラは冬の風に吹かれて左右に揺れてた。

 そのまま私はソファに座り夢を見ていた。
 ここは居酒屋、確かずっと前に来たことがある。私は大勢の人の中でお酒を飲んでいた。見慣れた顔ぶれ。あぁ、これは昔、1回だけ行ったバレー部のOB忘年会だ。
 毎年1回、年末に卒業生だけで集まって忘年会をしている。私は年末はいつも帰省だの、仕事だのでばたばたするためこの忘年会にはいつもは参加していなかった。ただ1回だけ上手くタイミングが合い参加できたことがある。これはその時の光景だ。
 20人は集まっているだろうか、あちこちで笑い声が聞こえてくる。みんなもういい歳なのだが、昔の仲間で集まるとすぐに学生に戻ってしまう。私はというと、久々に会った先輩たちにすっかり絡まれてしまっていた。
「キクー、なによ久しぶりじゃない! ずっと何してたのよー!」
「相変わらずライターさんなの? 大変そうやねぇ」
「ところで彼氏できた? あんたももういい歳なんやから頑張らんとあかんよ」なんて感じだ。
 私は勢いに押されて、そうですねぇ、まぁまぁまぁなんて言っていた。昔からそうなのだが、大人数での飲み会というものが少し苦手なのだ。お酒は少人数でちびちび飲んで楽しみたい。もちろん先輩たちのことは好きなのだが……
 そんな時に私は2列向こうの席にヒールがいるのを見つけた。
 それは初めて会った大会の日以来の再会だった。もうあれからもう何年も経っている。ここにいるということは彼も大学を出て就職しているのだろう。前に会った時から比べるとそれなりに歳をとっていた。
 あの鋭かった目が今日は締まりなく笑っている。傍目から見てもだいぶ酔っているようだった。大学を出たと言っても、おそらく卒業生の中ではまだ若手である。だいぶ飲まされている様子だった。
 だいたい1学年に1人はそんなふうに飲まされる人がいるものだ。私も現役の時は場の空気を壊さないようにするために無茶な飲み方をしたこともある。
 そんなことを思っていたら急にヒールが口元を押さえてどこかへ駆けていった。まわりを取り巻いていた連中は笑っていたが、大丈夫だろうか? まったくいつまで経っても学生気分なんだから。私は先輩の話を遮り、
「ちょっとお手洗いまで!」と言ってヒールを追いかけた。
 トイレの前まで来たがそこに奴はいなかった。男子トイレの電気が付いているところを見ると、おそらく中にいるのだろう。
 そこからしばらくトイレの前で出てくるのを待ったが奴は一向に出て来なかった。まったく、手間のかかる奴だ。水でも1杯もらってきてあげようと思い立ち去ろうとしかけた時、不意に扉が開いて奴が出てきた。目の前にいる私を見て少し意外そうな顔をしている。
「大丈夫?」
「えっ、あぁ、はい。なんとか」
 私はヒールの面食らった顔を見て、これが自分たちの初対面だったことを思い出した。よくよく考えれば、大会の時は私が一方的に応援していただけで何の面識もないのだ。向こうは私の顔も知らない。
「あー、あの私、バレー部の卒業生。別の席で飲んでてあなたがしんどそうに出て行くのが見えたから心配して追いかけたんよ」
「あっ、すいません。いやーちょっと飲みすぎちゃって。吐きました」
「あらー、でもそれならすっきりしたんやない?」
「ええ、まぁ。でも昔だったら絶対吐いたりしなかったのに」
 ヒールは少し悔しそうに苦笑いを浮かべる。
「何言うてんの。吐く元気があるだけ上等や!」
 私は笑う。つられてヒールの奴も笑う。ヘンテコな初対面だ。居酒屋の空気は生暖かく冬野菜の匂いと行き交う人たちの笑い声に溢れていた。
 そして私たちは若かった。

 寒さで目が覚めた。窓を開けたままソファで眠ってしまっていたのだ。あー、危ない危ない、このまま眠っていたら風邪を引いてしまうところだった。
 慌てて窓を閉めたが部屋の中は冷たく、私は今年初めて暖房をつけた。暖房の生暖かい空気が徐々に部屋に溶け出す。その空気は夢の中の居酒屋の空気とどこか似ていた。
 ヒールはというと相変わらず向かいのソファで眠り続けていた(寒かったのか、毛布を首元まで引き上げていた)私は煙草を吸いたかったが、暖かくなってきた部屋の窓を開けるのが嫌で結局やめた。時間を見るともう深夜だった。ヒールの奴、ちゃんと家に連絡をしたのだろうか? とまた余計なことを考える。
 部屋が暖かくなってきたので上着を脱いでハンガーにかける。
 再びソファに腰を落とすと、私はやっぱり煙草を吸いたくなり、仕方なく換気扇を回してその下で吸うことにした。匂いが完全には消えないので、換気扇の下で吸うのは極力避けていたが、今はどうしても我慢ができなかった。最近、1日に吸う本数も増えてきている気がする。
 真っ白い糸の様な煙を換気扇へ吐き出す。糸は音も立てずにくるくる回る羽根に巻き取られて消えていった。換気扇の横のキッチンは当たり前のようにそのままで、分かりやすい形で現実を私に突きつけていた。
 ヒールはよく眠っていた。この分だともう、朝まで目を覚まさないのではないか。そして朝になったらまた当然のように私の前から姿を消してしまうのであろう。それはずっと前から決まっていたことだ。だから今更何ともない。でも私だって文句の1つくらい言わせてほしい。
 灰皿に灰を落として考える。もしあのまま窓を開けて眠り込んでしまい、朝には2人とも寒さのあまり死んでしまっていたとしたら、それは心中と呼べるのだろうか。
 そして私たちは永遠に結ばれるのだろうか。カチコチになった身体はもう2度と部屋から出られない。魂のようなものだけが開け放たれた窓からそっと寄り添って昇っていくのだ。寒さ心中、なんだか素敵だ。そして、なんてくだらない考えだ。
 私は煙草を消して寝室から自分の分の毛布を持ってきた。今日は私もソファで眠る。
 生暖かい空気を送っていた暖房を切って、私は眠りについた。
しおりを挟む

処理中です...